第二部 雨

第二十一話 日常

 時計の針が午後七時を指そうとする頃、光陽みつひろはパソコンの電源を切って大きく伸びをした。私物をバッグの中に入れて立ち上がり、同僚たちに挨拶をしてフロアを出ようとした。

 と、そこで背後から声を掛けられた。振り返ると、部長が立っていた。


「沢村くん、一杯やっていかない?」

 部長はジョッキを口に持っていく仕種をした。

「お、いいですね。でも一杯だけじゃ終わらないでしょう?」

「そうね。一杯だけじゃ終わらないかもね。あと十分で終わるから、下で待っててくれる?」

「わかりました」

 光陽が再びフロアを出ようとした時、今度は後輩の田村が近寄ってきた。酒好きなので、光陽たちの会話が耳に届いたのだろう。

「部長たち飲みに行くんですか? 僕もご一緒しますよ」

 部長は首を横に振りながら、

「田村くん、ごめん。今夜は大事な話があるから、沢村くんとふたりで飲みたいのよ。田村くんとは、また今度飲みに行きましょう」

 大事な話? 光陽は首を傾げた。

 納得した田村が席に戻って行くのを見届けて、光陽は部長に問い掛ける。

「あの、部長、大事な話というのは?」

「うん。それはお店に行ってから話すわ。いつものところでかまわない?」

「はい」

「それじゃあ、十分後に」




 行きつけの居酒屋は会社から徒歩十分のところにある。歩きながら、部長と他愛もない話をしていたが、いったい大事な話というのは何だろうと光陽は疑問を持ち続けていた。

 居酒屋に着く。金曜日の夜ということもあり、店内は大盛況。席はほぼ埋まっていた。光陽たちは奥の席に通された。着席して注文した十秒後にはビールが運ばれてくる。『日本で一番早くビールを運ぶ居酒屋』という謳い文句に偽りのない居酒屋である。

 部長とグラスを合わせて乾杯をし、ビールを一口飲んだあと、光陽は口を開いた。


「それで部長、さっき言っていた大事な話というのは何でしょうか? わたし、何か失敗でもしたのでしょうか?」

「ううん。違うの。仕事の話じゃないのよ」

「はあ……」

「実はね、このあいだ接待で会ったM商事の社長を覚えているかしら? 後藤社長」

「はい、もちろん」

「先日、今度は私ひとりで会う用事があって、その時に言われたんだけど、後藤さん、あなたのことを凄く気に入ったみたいなのよ。応答が明瞭で、背筋がピンと伸びていて、目が輝いているって。今時の若者とは違うオーラを感じるとも言っていたわ」

 こそばゆくなるような褒め方をされて、光陽は思わず笑ってしまった。

「ベタ誉めですね。そこまで言ってもらえるなんて、光栄です」

「それでね、後藤さんが、あなたのことを色々と訊いてきたのよ。どんな未来図を思い描いているのかとか、結婚をしているのかとか、どんな女性が好みなのかとか」

 光陽は頷きながら話を聞いていた。

「それで、あなたには悪いと思ったんだけど、過去のことも話したのね。婚約者を事故で亡くしてしまった話を」

「別にかまいませんよ」

 光陽は微笑んだ。

「それで、その話を聞いた後藤さん、ひどく胸を痛めたみたいでね。あなたに、これを渡すように頼まれたの」

 部長はバッグの中から一枚の写真を取り出して光陽に手渡した。


 光陽は写真に視線を向ける。山を背景に、ひとりの女性が映っていた。二十五歳くらいだろうか。ふっくらとした、笑顔の可愛らしい女性だった。


「その女性は、後藤さんの娘さんなの。三人姉妹の、末娘。結婚していないのは、彼女だけだと言っていたわ。二十五歳だから、別に結婚していなくてもおかしくも何ともないんだけど。それで、そのお嬢さん、美幸さんっていう名前なんだけど、美幸さんとお見合いしてみないかって言うのよ。どうかしら?」

 光陽は即座に首を横に振った。

「有り難い話ですが、わたしは結婚は考えていないので」

 返答を聞いた部長は少し悲しそうな顔になった。

「私も、別にあなたに強制できる立場ではないし、後藤さんもそんなつもりではないんだけど、でも、もしあなたが藤堂さんのことを思って結婚を拒否しているのなら、もうそろそろいいんじゃないかしら。藤堂さんが亡くなって三年半になるし、藤堂さんも、もう結婚しなさいってあなたに言うんじゃないかしら? あなたほど親密な関係じゃなかったけど、私も藤堂さんとは六年の付き合いがあったから、彼女の性格を多少なりとも知っているつもりよ」

「いえ、わたしが結婚しないのは、真由美への後ろめたさとか、そういう考えからではないんです。わたしは、もう他の女性は愛せません。愛するつもりもありません」

「でも……じゃあ、一生ひとりで生きていくつもりなの?」

「はい」

 光陽は言下に答えた。

 部長は視線を落とす。しばらく沈黙が続いた。

「もちろん、あなたの人生だから、どういう道を歩むのも自由なんだけど……藤堂さんは、一生あなたがひとりで生きていくことを喜ぶのかしら? あなたに幸せになってほしいと思っているんじゃない?」

 光陽は部長に写真を返しながら、

「部長。これは真由美の気持ちがどうとかではなくて、わたし自身が決めたことなんです。もう真由美以外の女性は愛せない。だからこれからの人生をひとりで生きていく。それだけのことです」




 自宅に帰り、背広を脱ぎ捨ててソファに座ると、子供を叱るような真由美の声が聞こえてきた。

 ――そんなところに脱ぎ捨てたらダメじゃない。ちゃんとハンガーに掛けないと、皺になるわよ。

「はあい。――これでいいですか?」

 ――よし!


 浴室に入り、熱いシャワーを浴びる。シャンプーと洗顔を済ませたあと、濡らしたタオルにボディソープを染み込ませ、丹念に身体を洗った。シャワーで泡を流す前に、光陽はじっとペニスを見つめた。無言のまま、見続けた。

 ――ちょっと、何でそんなに、その、それを見るのよ。

 光陽の笑い声が浴室に響いた。

「何でそんな慌てた声を出すんだ?」

 ――何でって、恥ずかしいからに決まってるじゃない。

「何百回、何千回って見てるじゃん。もう慣れただろう?」

 ――これは慣れる慣れないの問題じゃないのよ。

「男になった気持ちで見られないのか?」

 ――無理です。だから早く視線を逸らしてよ。

「はいはい」


 風呂から上がると、冷蔵庫から缶ビールを取ってソファに座る。テレビをつけると、お笑い芸人をドッキリに引っ掛ける番組を放送していた。笑いのツボが同じ光陽と真由美は、同じ場面で笑い声を上げながらテレビを観続けた。

 テレビがCMに切り替わった時、光陽は真由美に話し掛ける。


「二度目だなぁ」

 ――お見合い話のこと?

「そう」


 三ヵ月前にも、光陽はお見合いを持ち掛けられていた。話を持ってきたのは、真由美の母親だった。友達の娘という紹介だったが、今日と同じような調子で断った。

 真由美の母親がお見合いを勧めてきたことに対して、光陽は少なからずショックを受けた。その行為は、光陽の為を思ってということはわかっていた。義理の息子になるはずだった光陽に、今も愛情を持ってくれている証拠だ。自分の娘が死んでしまい、ひとりになってしまった光陽を救ってあげたい。そういう気持ちからの行動。   

 しかしそれを考慮しても、真由美が亡くなったという事実が、少しずつ薄くなっていることを実感し、悲しみを覚えた。


 どんな物事も風化する。常に新しい出来事が起こるから、それは仕方のないことである。どんなに大切な思い出も、時間の経過とともに過去に追いやられてしまう。そのこと自体をとやかく言うつもりはない。そうなるのは必然で、誰にも止められないことだから。


 だが、光陽はたまに叫びたくなる時があった。

 真由美はまだ生きている! まだ自分の中で生きているんだ! 肉体は消滅してしまったけれど、朽ちることのない魂が心の中にいるんだ! そんな真実を、声を大にして伝えたいと思う時があった。しかし実際には言えない苦しさ、虚しさ。言葉を呑み込む度に、空虚感に包まれた。


 その一方で、あの日あの時、真由美に誓ったふたりで生きていくという未来は、こういうものだということもわかっていた。抗うことのできない現実と寄り添い、川の流れに身を任せるように生きていかなければいけない。光陽の心臓の鼓動が停止するまで、ずっと。


 ――性別に関係なく、三十路を過ぎたら周りが心配し始めるのよね。昔ほどじゃないだろうけど、日本全国どこででも起きてることだと思う。

「そうかもなあ。だって俺、周りを不安にさせるような言動はとってないよな?」

 ――ええ。もう悲しみから立ち直った人に見えているはずよ。

「逆にまだ悲しんでいるように見えたら、お見合話なんて持ってこないか」

 ――部長はともかく、私のお母さんはまたお見合い話を持ってくるでしょうね。

「そうかな? きっぱりと断ったから、諦めさせるには十分だと思ったけど」

 ――いいえ。光陽のことが好きだから、このままじゃダメだって思ってるはずよ。

「そうか……。でも、他に体のいい断り方はないからな……」


 真由美が何か言うのを待ったが、彼女は何も言わなかった。


「真由美?」

 ――ええ。聞いてるわよ。そうね。お母さんが何回その手の話を持ってきても、同じ調子で断るしかないわね。

「ちょっと心は痛むけど、仕方ないよな」

 ――ええ。


 光陽は缶ビールをテーブルの上に置いて天井を仰いだ。


「ああ……ちょっと飲みすぎたかな。瞼が重くなってきた。もう寝てもいい?」

 ――寝ちゃダメって言ったら、起きていてくれるの?

「頑張ってみるよ」


 光陽は両目の瞼を指で摘まんで引っ張った。その顔を鏡で見る。真由美の笑い声が聞こえてきた。


 ――冗談よ。どうぞ、ゆっくり眠ってください。あ、眠る前にちゃんと歯を磨いてね。テレビと灯りも消すのよ。

「はあい」

 光陽は歯磨きをし、テレビと灯りを消してから布団の中に入った。




 これが、真由美と『完全な同体』になってからの日常。

 あの日約束したとおり、真由美は気兼ねなく光陽に物を言うようになった。観たい番組はそれじゃなくてこっちだとか、綺麗な景色が見られる他県に日帰りで行こうとか、客がほぼ女性しかいない場所へも行くように光陽に頼んでいた。

 それでいい。真由美が積極的に意思を表す様子は、とても心地良かった。もう元には戻れない。それなら最善の生き方を目指すべきだ。そしてこの生活こそが最善だと思えた。


 ただ一つだけ、光陽には気になることがあった。

 真由美は、光陽の問い掛けに対して、反応が遅い時があるのだ。さっきも一度あった。魂だけの存在になっても、思考能力は以前のまま。考え事をしている時もあるわけだから、返答が遅いことは不思議ではない。ただ、その回数が多いように感じていた。一年前まではそうでもなかったように思うが、ここ最近……半年くらい前からだろうか、言葉が返ってくるのが遅いなと何度も感じるようになっていた。

 しかし、真由美の様子に変化はない。光陽とのやりとりも、昔のまま。

 旅行したい国とか、あるいは光陽に何かをしてほしいとか、そういうことを考えているのかもしれない。

 きっと、杞憂に過ぎないのだろう。


「おやすみ」

 ――おやすみ。すぐ眠れる? 絵本は読まなくていい?

 真由美の軽口を聞きながら、光陽は眠りに落ちていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る