第二十話 ずっとふたりで
葬儀の日。みんなの気持ちを代弁するかのように、朝から雨が降り続いていた。
午後二時五十分。真由美の肉体は
通夜の時からずっと、真由美の両親は項垂れていた。顔を上げる気力もないというほどに。特に母親の方の悲しみは深く、真由美の肉体が火に焼かれ始めた時、泣き崩れて立てなくなってしまっていた。
みんなが悲嘆に暮れている中、奈々子だけは気丈に振る舞っていた。葬儀場の係員と一緒に、参列者たちの世話をしていた。両親が動けないほどに打ちひしがれてしまっている今、自分が動かないといけないと思ったのだろう。そんな奈々子の顔にも、涙の跡は色濃く残っていた。
真由美に近しい人たちの誰もが嗚咽を漏らしている中で、
真由美はまだ光陽の心の中にいるからだ。抽象的な意味ではなく、文字どおり、愛する人は彼の中にいる。
葬儀場を出た時、傘を差した奈々子が光陽の前に立ち、右手を差し出した。掌には指輪が載っていた。光陽が真由美に上げた婚約指輪だった。
「光陽さんが持っていますか?」
光陽は少し考えて、首を横に振った。
「いや、この指輪は奈々子ちゃんが持っていてくれないかな。もし良ければだけど」
奈々子は頷く。
「お姉ちゃんの形見として、私が持っています」
「……奈々子ちゃん」
「はい」
光陽は右手を胸に当てた。
お姉ちゃんは死んでないんだ。ここにいるんだ。
言葉が喉まで出かかる。
だが、その思いが発せられることはない。
「ほんとに、申しわけない」
光陽は頭を下げた。
「そんなことしないでください。誰も光陽さんを責めないし、誰も光陽さんが悪いなんて思っていません」
奈々子は唇をぎゅっと噛んだ。
傘を叩く雨音が強くなった。奈々子が、少し距離を詰める。
「光陽さん。これからも私と会いませんか?」
「え?」
「会って、一緒にご飯を食べたり、仕事の悩みを相談し合ったり、そしてお姉ちゃんの思い出話をしたりしませんか? きっと、そうした方がいいと思います。ひとりだと、立ち直るのに時間が掛かると思うから」
「わかった。これからも、時間が空いた時に会おう」
「光陽さん、一つだけ約束してください」
「何?」
「押し潰されそうになったら、すぐに私に連絡するって。約束してください」
光陽は奈々子の瞳をじっと見つめ、頷いた。
「うん、約束するよ。耐えられなくなったら、奈々子ちゃんに電話をする」
奈々子は少し安堵したような表情で頷いた。
光陽は奈々子と別れの挨拶をし、タクシーに乗って自宅に戻った。
「真由美」
部屋に入ってすぐに呼びかけたが、真由美の返事は聞こえてこない。
奈々子が真由美の死を知らせた時から、呼び掛けてもすぐには応答しないようになっていた。最初のうち、もしかしたら肉体の死とともに魂も消えてしまうのではないかと思った。彼と同じ立場に立たされたら、誰もがそう考えるだろう。魂と肉体がそれぞれ独立した存在だとしても、この世界では二つで一つとして機能しているのだから、魂の受け皿となる肉体が無になってしまったら、魂もこの世界から消えてしまうと思うのが普通だ。
しかしそれは杞憂に終わった。真由美によると、意識の状態は今までと全く変わらないということだった。肉体が死んでも魂が消えないのは、光陽の肉体に宿っているからだろうか。それとも何か別の力が作用しているのだろうか。判然としなかったが、ただ一つわかることは、真由美は今も生きているということである。
真由美がすぐに返事をしなくなったのは、考えているからだ。これから自分がどうなるのかを。
もう、真由美が帰るべき場所はない。家が無くなるのとは、意味が違う。
このまま一生、真由美は光陽の中で生き続けることになるのだろうか。光陽が死ぬまで、ずっと。
それは、地獄なのだろうか。彼女にとって、鳥籠の中の鳥のように、生き地獄のようなものなのだろうか。
いや、身体がある分、鳥籠の中の鳥の方がマシかもしれない……。
――みんな、私が死んだと思っているのよね。
真由美の声はどこまでも沈んでいた。
――もう、私は、光陽以外の人とは話すことができないんだよね。永遠に……。
何か言葉を返そうと思ったが、適当な言葉は浮かんでこなかった。真由美は独白のように、語調を強めて話し続ける。
――もう、私は何もできない。光陽が見聞きしたことについて何かを思ったり考えたりはできるけど、そこまでしかできない。それから先は、今の私……これからの私にとって立ち入ることのできない領域。ずっとベッドの上で寝ている人と変わらない。ううん。意識を断ち切られて仰向けに寝かされていた方が、ずっと楽。何も考えなくていいし、苦痛も感じなくて済むんだから。私は、苦痛の中で生き続けなければいけない。
「真由美、ちょっと待ってくれ……」
――こんな生活、これ以上は耐えられない。
「真由美……」
――死にたい。
その真由美の言葉を最後に、長いあいだ雨が窓を叩く音だけが部屋に響いていた。
どれくらいじっとしていたのだろう。気づくと、室内は闇に侵食されていた。それでも光陽は電気を点けずに、その場にじっとしていた。
「真由美」
返事はない。
「真由美、俺、これから何でもするよ」
返事はない。
「真由美が見たいものを見に行く。真由美が聴きたいものを聴く。真由美がしたいことをする。俺の身体を自分の身体だと思って使ってくれていい。俺のプライベートは二の次で、真由美が楽しめる方に時間を使うよ。これから、ずっと。だから真由美も、死にたいなんて言わないでくれ」
――違う。そういうことじゃない。私が耐えられないと言ったのは、これから時間が経過するごとに、どんどん耐えられない出来事と付き合っていかなくてはいけないからなのよ。
「耐えられない出来事? どういうことだ?」
――光陽は、いつか……それがいつになるかわからないけど……いつか誰かと結婚して、家庭を築くことになる。そんな光景を見るのが耐えられないと言ってるの。
なるほど。そういうことか。
光陽は首を横に振った。
「そんなこと、ありえない。俺が他の人と結婚するなんて、ありえないよ」
――じゃあ、ずっとこのままひとりで生きていくつもりなの?
「ひとりじゃないさ。傍目にはひとりに見えても、俺は真由美と一緒だ。これからは、ふたりで生きていくんだ。だから俺は誰とも結婚しない。俺が愛しているのは、真由美だけだ」
――そんなの……そんな生活に耐えられるわけがない。無理よ。
「俺は耐えられるよ。真由美が側にいてくれれば、何だって耐えられる」
――これから、光陽の前には魅力的な女性が現れるわ。きっと、何度も。その人たちの誘惑を全部断つの?
「もちろん。昔こんな話したの覚えてる? 飲み会の席で俺が、男はみんな浮気すると思うかって訊いたら、真由美は思わないって答えた。まだ俺たちが付き合う前のことだ。覚えてるか?」
――ええ、覚えてるわ。
「真由美と付き合い始めてから俺は一度も浮気してないし、風俗にも行ってない。セックスしたい時に真由美と会えなかったりできなかったりした日は、自分で処理した。だから俺はその手の誘惑には負けないよ」
――でも、人恋しい感情は抑えられないでしょう? 誰かに寄り添ってほしい時があるでしょう? 身体の温もりがほしい時があるでしょう?
「真由美がいてくれたら、寂しいことなんてないよ。話し掛ければ、愛する人は答えてくれる。今までと同じだ。お願いだから、一緒に生きていこう」
――私は……私は選べる立場にない。
光陽はスマホを手に持つと、撮影モードに切り替えた。
暗い部屋の中で、光陽の顔が照らされ、画面に映し出されている。
「選んでいいんだよ。この身体は、もう俺だけのものじゃないんだから。真由美も決めていいんだ。真由美が見たくないものは見ないようにするし、聞きたくないものも聞かないようにする。努力できることは、全てやる。真由美は長生きしたいと言う権利があるんだ。そのかわり、俺も言いたいことは言うよ。そうやって生きていこう。ふたりなら、やっていける」
言い終わると、自然に涙が零れてきた。自分の涙かもしれなかったし、真由美の涙かもしれなかった。
数分の沈黙のあと、真由美の絞り出すような声が聞こえてきた。
――私、死にたくない。まだ、あなたと離れたくない。ずっと、一緒にいたい。
光陽は頷いた。
「それでいいんだ。俺も真由美と離れたくない。俺は真由美を裏切らない。ずっと側にいる。俺が死ぬまで、ふたりで生きていこう」
光陽はスマホに映る自分の目を見つめた。涙に濡れた目の奥を、じっと。
今の光陽には、はっきりと見える。瞳の奥にいる真由美が。
――ねえ、光陽。
「うん?」
――事故に遭った日、私が、あなたの何をしている時の顔が好きか言ったこと、覚えてる?
「覚えてるよ。そういえば、一番好きな顔が何かは教えてくれなかったな」
――私が一番好きな光陽の顔は、微笑みを浮かべて私を正面から見つめてくれている時の顔よ。
光陽は手の甲で涙を拭いた。そして笑顔をつくった。あまり綺麗な笑顔ではなかったかもしれない。それでも、光陽は一生懸命、笑顔をつくった。
「真由美が望めば、これから何回でもこの顔を見せるよ。今日はちょっと決まってないかもしれないけどさ」
――そんなことない。ありがとう。愛してる。ずっと、あなたのことを愛してる。
「俺も、ずっと愛してるよ。ずっと……」
――第一部 完――
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