第十九話 魂の行方
平日は朝六時に起き、七時十分前後に家を出る。午後六時から八時くらいまで仕事をし、十一時頃に眠りに就く。土曜日、もしくは日曜日には奈々子とふたりで病院に行く。いつ行っても、真由美の肉体は規則正しい寝息を立てていた。病院からの帰り、たまに奈々子の家に寄ってコーヒーを飲んだ。
二階堂の一件以降も、光陽は他の霊媒師とコンタクトを取り続けていた。しかし会った霊媒師のほとんどが、二階堂と同じような人種だった。
幽体離脱を意識的に行う方法を掲載しているブログや、超常現象を扱っている掲示板に助けを求める書き込みをしてみたが、茶化されるか、出鱈目な方法を教えられるだけだった。
誰も魂の戻し方を知らない。
事故に遭ってから二ヵ月半が経とうとしていた。
それはつまり、真由美の魂が光陽の身体に入ってから経過した時間でもあった。
真由美の口数はめっきり減っていた。光陽の口数も減っていた。会話をする時も、これからどうするのか、というようなことは全く話さなくなった。仕事の話や、その時観ているテレビの話に終始していた。騙し騙しの会話。仲間外れになるのが怖くて、本音を言わない子供たちのような会話。
今のふたりには、本音で話すだけの気力はなかった。
その日、光陽は新しく買った車を飛ばして遠くまできていた。光陽も真由美も初めてきた遠い場所。青い芝生がどこまでも広がっている地面に寝そべって、光陽は空を眺めていた。周りは、子供や犬と遊ぶ家族連れで賑わっている。
――刷毛で塗ったような青空だね。
「綺麗だけど、こういう雲ひとつない青空を見てると、いつも作り物の空を見てる気分になる。箱の中に入れられてるような気になるというか……鳥籠の中の鳥みたいに……」
――鳥籠の中の鳥か……。
真由美の声音は沈んでいる。自分と鳥籠の中の鳥を重ね合わせているのだろうか……。光陽は話題を変えることにした。
「真由美、どこか行ってみたいところはあるか?」
――行ってみたいところ?
「ほら、もうすぐ正月休みだからさ。どこか行ってみたいところがあるなら、そこに行くよ。海外でもどこでも。どこか希望はあるか?」
――一番行ってみたいところは、ローマだけど……。
『ローマの休日』を観て以来、死ぬまでに一度は行ってみたいと真由美は言っていた。ローマは新婚旅行で行く予定だった。
「真由美が行きたいなら、行くよ」
――嬉しいけど……でも、光陽がひとりでローマに行くのって変じゃない?
「そうか?」
――奈々子と一緒だったら、そうでもないと思うけど……。
「奈々子ちゃんと?」
――あの子、この頃ほんとに元気がなくなってきてるから、気分転換に、どこかに連れて行ってあげてほしいのよね。
「いや、俺ひとりでローマに行くより、そっちの方がずっと変だろ。俺と奈々子ちゃんがふたりで旅行って……」
――そうかな?
「そうだよ」
――でも、あの子、ほんとに元気がなくなってるから……。先週見た時は頬が少し扱けてたし、目の下に隈も出てたわ。
真由美の言うとおり、確かに近頃の奈々子は
だが、そんな姿の、実質義妹を目の前にしても、光陽にしてあげられることは何もなかった。せいぜい気休めの言葉を掛けてあげることくらいしかできない。耐え難い苦しみを味わっているのは、光陽と真由美だけではないのだ。
――ごめんね。妹の体調のことまであなたに託しているようで。
「謝る必要はないよ。奈々子ちゃんも俺にとっては大事な家族なんだから。……家族って言っても差し支えはないだろ?」
――ええ、もちろん。
「まあ、デートじゃないけど、どこか気晴らしに遊びに連れて行くくらいはしてあげた方がいいかもな」
――お願いね。
「ああ。でも、どこに連れて行けばいいんだろう?」
――そうねえ……。遊園地はどう?
「遊園地かぁ。いい選択だと思うけど、奈々子ちゃん断りそうだな。お姉ちゃんがあんな状態なのに遊ぶわけにはいかないって。そのお姉ちゃんが遊んでいいって言ってるんだけどな……」
――そうね。確かにそう言って断りそうね。あの子、お堅いところがあるから。ドライブとか映画を観に行くくらいだったら大丈夫だと思うけど。
不意に光陽の頭上を何かが通った。上体を起こして見ると、傍らにフリスビーが落ちていた。
「すいませーん」
三十メートルほど向こうで男が頭を下げている。子供とフリスビーをしていて、こっちまで飛ばしたみたいだった。光陽は立ち上がると、フリスビーを取りにきた小さな男の子に手渡した。ありがとう、と言って男児は去って行った。男児は勢いよくフリスビーを父親に投げる。フリスビーを受け取った父親は、優しく息子に返す。その光景を、近くに座っていた母親が微笑んで見ていた。
――いいわね。休日にきちんと子供と遊んであげるお父さんって。
「そうだな」
――光陽は、子供は男の子がいいとか女の子がいいとか考えてる?
「ううん。俺は、元気に産まれてきてくれればそれで良いと思ってるよ」
――そうだね。それが一番だよね。光陽は子煩悩なお父さんになるだろうね、絶対。
「子煩悩って言うより、親馬鹿になるかも」
それは、ふたりが久しぶりに『未来』を思い描いて交わした言葉だった。ずっと恐れて話さなかったが、一度『未来』を口にすると、将来の展望について話が弾んだ。
――そういえば、今まで子供の話ってしなかったよね。
「そうだっけ? そうだったかな」
――子供は何人ほしい?
「希望は、三人」
――五人家族か。賑やかになるわね。
「三人も産んでくれるの?」
――もちろん。賑やかな方がいいもの。それに、三人から毎日、パパとママ大好きって言ってもらえるのよ。とても素敵じゃない。
「素敵だけど……大好きって言ってもらえるような父親にならないといけないな」
――大丈夫よ、光陽なら。
「ほんとに?」
――保証するわ。
「ありがとう」
――将来、子供にしてほしい仕事は何かある?
「うーん……特にはないかなあ。真っ当な仕事なら、どんなものでも反対はしないよ。真由美は? 何かリクエストがあるの?」
――私も特にはないかな。親が決めることじゃないと思ってるし。でも、何かやりたいことがあるなら、全力でサポートするつもりよ。
「異議なし」
――私たちの子供が生まれてくる時には、もっと伸び伸びと生きていける国になっていてほしいな。今の世の中って生き難いもの。見ていて可哀想になる時があるわ。子供たち自身はそんな風に思っていないだろうけど、私たちの子供時代に比べたら、明らかに窮屈よね。進路にしても遊びにしても、選択肢は増えたように見えるけど、息苦しさや傷つく度合いも比例して増えたと思う。
「そうだな、俺たちの子供が生まれてくる時には、そういう世の中になっていてほしいな」
光陽は言葉を繋げようとしたが、何も浮かんでこず、じっと虚空を見つめていた。
長い沈黙だった。
きっと、ふたりとも同じことを考えていた。
ふたりの子供は、いつ生まれてくるのか。そもそも、生まれてきてくれるのか。手の届くところに愛する人の肉体はあって、意思の疎通もできている。だけど、ふたりは一緒になれない。
――怖い。
唐突に真由美が言った。
「真由美?」
――光陽……私、怖い。
真由美の声は震えていた。そんな弱々しい声と言葉を聞くのも、また随分久しぶりのことであった。
未来を思い描いたから、不安感が襲ってきたのだろう。
久しぶりに現実を直視してしまったのだ。
真由美の魂は、いつ元の肉体に戻れるのか。いつふたりは顔と顔を合わせて話すことができるのか。いったい、いつ……。
答えが出ないことを考えるのは、とても恐ろしかった。
――本当に、一生このままだったらどうしよう。
そんなことにはならない。
真由美を少しでも安心させてあげられるような言葉を掛けてあげなければいけないのに、厳然たる事実の前では、どんな言葉も暗闇に呑み込まれてしまう。
――十年……二十年……三十年……ずっとこのままだったら……私は何も失わないけれど、何も得ない人生になる。
大丈夫。きっと元に戻れる。
――ベッドの上に横たわったままの私を見て、みんなは声を掛けてくれる。でもそこに私はいない。
光陽は強く首を振った。絞り出すように、声を出す。
「大丈夫。そんなことにはならない。弱気になったらダメだ。希望を持っていないと。じゃないと、ほんとに……。マイナスなことばかり考えていたら、良い結果は出ないってよく言うだろ。だから、前向きに考えよう」
光陽が言える精一杯の言葉だった。
しばらくして、ごめんなさいと真由美は言った。
――苦しいのは、私だけじゃないのよね。光陽は一生懸命、私を元に戻そうと努力してくれている。私が光陽の目を通して同じ物を見ているから、色々な制限も発生している。苦しくて辛いのは光陽も同じなんだよね。それなのに、弱音を吐いて、ごめんなさい。
俺より真由美の方が苦しくて辛いだろう。比べ物にならないくらい、真由美の方が孤独だと思う。喉まで出かかったが、ぐっと呑み込んだ。
「いいんだ。辛い時や苦しい時は、思いを吐露してくれていいよ。俺も弱音を吐きたい時がきたら、聞いてもらいたいと思うだろうし。そうやって励まし合いながらやっていこう」
心の中で、真由美が大きく頷くのがわかった。
――うん。ありがとう。
光陽は立ち上がると、駐車場へと歩を進めた。
「さて、真由美の身体をお見舞いにいくか」
――早速、思いを吐露するけど、最近自分の顔を見られるのが億劫だわ。
「何で?」
――だって、髪にも肌にも艶がないんですもの。どんどん劣化していってるように見える。
「気にしすぎだよ。全然そんなことないよ。真由美のお母さんが毎日のように髪や肌の手入れをしてくれているから、光沢があるじゃないか」
――もちろんお母さんには感謝してるけど……光陽がそう言ってくれるんだったら、信用しようかな。
「真由美は何歳になっても、どんな恰好でも美人だよ」
クスクスと、真由美は無邪気な笑い声をあげた。
駐車場に着く。光陽は車に乗り込み、エンジンを掛けた。アクセルを踏もうとした時、携帯が鳴った。着信音で奈々子からの電話だとわかった。スマホを取り出し、応答の文字をスライドさせる。
繋がった瞬間、光陽の耳に飛び込んできたのは、奈々子と思われる女性の泣き声だった。
「どうしたの、奈々子ちゃん。奈々子ちゃんだよね?」
「み……光陽さん」
涙声だったが、間違いなく奈々子の声だった。
「何? どうしたの? 何で泣いてるの?」
光陽の問い掛けに、奈々子は即座に答えたような気もする。だけどその時は、一瞬の沈黙が永遠のように感じられた。
「お姉ちゃんが、亡くなりました」
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