第十九章
第42話
嶋田に貰ったメモに記載された住所を探すため、持月は閑静な住宅街を歩いていた。駅前は開発が進み、周囲には真新しい一軒家が建ち並んでいる。
長い坂道を下った先に見える色彩豊かな屋根たちはまるで水面に映る打ち上げ花火のようで、目的の住所はその花火の中心付近にあるようだった。
外壁を黄緑色に塗装したアパートは、三角形の屋根が洒落たデザインの建物だった。外階段を上って二階の角部屋まで進み、(現在も一人暮らしであることは嶋田から聞いていたので)持月は迷いなく呼び鈴を鳴らした。平日の昼前に彼女が在宅している可能性は低いが、不在であっても一向に構わないと思っていた。
むしろ、このまま会わない方が良いのではないかという葛藤が彼の胸には少なからずあり、あえてこのような時間帯を選んでやって来ていた。もし不在なら、その辺りを散策して帰ろう。
「はーい」
だが、持月の予想に反してすぐに室内から応答があると、無警戒に扉が開かれた。玄関から顔を覗かせた女性はグレーのストライプスーツを身に纏い、目尻の垂れた顔つきには少なからず面影が残っているものの、顎の辺りまで短く切った髪は先端が内巻きにカールされ、前髪を分けたその姿には確かに見違えるほど垢抜けた雰囲気が漂っていた。
「どちらさま?」
そう言って首を傾げた彼女は、施した化粧に違和感がないほど大人びた表情を浮かべている。多少の警戒心を含みながら、それも愛想の良い笑顔で上手に包み隠しているといった具合だった。
「百瀬冬華さん、でしょうか?」
「はい、そうですけど」
「持月です。高校の同級生で、えっと、……覚えていますか?」
「…………」
一瞬だけ眉間に皺を寄せながら考える仕草を見せた彼女は、すぐに目を見開くと「えっ!? 持月って、あの持月くん?」と大袈裟な反応を示した。「うそぉ? え、何で何で?」
続けて忙しなく問いかけてくる彼女に当惑しつつ、「突然ごめんね。嶋田に聞いて会いに来たんだ」と持月が答えると、「あっ! 同窓会の時だぁ」と彼女はすぐに納得したように頷いた。
「ほんと久しぶりだねぇ。元気してた? 持月くんも同窓会に来れば良かったのに」
「その日は仕事があってね」と持月が答えるそばから、「え、眼鏡やめたんだぁ。へぇ、すごく格好よくなったよ!」などと彼女は続け、「え、仕事は? なにやってんの? 今日は休み? 突然来るからびっくりしたよ」と早口に言った。
彼女がお喋りなのは相変わらずで、以前よりも人当たりや口調がまろやかになったところは久々に会ったにも関わらず接しやすく感じられたが、持月はその違和感に戸惑いを隠せなかった。
「これから仕事?」と尋ねた持月が彼女のスーツ姿を眺めると、左手の薬指には光るものが見えた。
「うん。うちの会社はフレックスだから、出社時間が日によって違うの」と彼女は笑顔で答えたが、「あっ! 今何分? そろそろ出なきゃいけないのよ」と突然焦ったように言った。
「良かったら、駅まで話しながら歩こうか」
「うん、いいよ! ちょっと待っててね」と言いながら一度扉を閉めた彼女は、しばらくすると茶色い革の手提げ鞄を肩に掛けて玄関を出てきた。
ヒールを履いた姿はあの頃よりも少し背が高く感じられたが、身体からは僅かにお日様の香りがしていた。隣に立っても煙草の臭いはおろか、香水の匂いすら漂ってこない。
駅に向かう道すがら、彼女は思いついたことを次々に話し続けた。隣を歩く持月はそれに頷きながら、静かに相槌を打つ。
「――でね、彼氏からは結婚したら仕事やめてよって言われたんだけど、私はもっと働きたいから『あんたが仕事やめれば?』って怒った勢いで言ったの。そしたらあの人、『あぁ、それも悪くないかもなぁ』とか言い出すんだよ。ひどいと思わない?」
「そうだね」
この上なく健全で、凡庸で、限りなく清浄な白に近づいた彼女は、艶やかに黒く染まった頃の百瀬とは違う人物に思えた。
記憶の中のあの子は、どこか別の世界線に置き去りにされたようだった。<結婚>という言葉を彼女が自然と持ち出したことよりも、以前には確かに感じられた甘美な色香や、ほの暗い憂鬱さ、そんな彼を惹きつける強烈な引力がすっかり失われてしまったことが持月には残念でならなかった。
「あの頃はさ、二人で馬鹿な事もしてたよね」
「……何のことかな?」
持月が慎重にそう問いかけると、「あっ! なかったことにしようとしてるぅ!」と彼女は無邪気に笑いながら指差し、「二人で煙草吸ったり、尖ったこと言ってみたり。……今思い出すとちょっと恥ずかしくて馬鹿馬鹿しいけど、それも今ではいい想い出だよね」としんみりした様子で言った。
想い出……。
その程度の表現で二人の関係をお終いにする彼女に対し、持月は目の覚める思いだった。返す言葉も浮かばず、黙って足を進めているとあっという間に駅に着いた。
「そ、それじゃ、僕はこっち方面だから」
改札を入ったところで、持月は唐突にそう切り出した。正直なところ今後の予定も特になく、何なら会社の前まで付き添っても別段構わなかったのだが、目の前の彼女と一緒にいることに今ではひどく当惑しており、そう思う自身にすら彼は耐えられなかった。
「そうなの? なんだぁ、残念だね」
彼女は演技ではなく、心の底から残念そうな表情を浮かべている。そこには表や裏、駆け引きなどの不毛な努力は垣間見られない。
「突然やって来て、迷惑をかけたね」
「全然だよ! 今はちょっとバタバタしてるけど、また落ち着いたら連絡するね。嶋田くんとかも呼んで、みんなで飲もうよ」
「…………」
思わせぶりな仕草や、こちらを弄ぶような眼差し、僅かな陰りすらも今の彼女には見当たらない。百瀬という奥行きはとうの昔に削ぎ落とされ、目の前で屈託のない笑みを浮かべる彼女はもはや彼にとって抜け殻も同然だった。
「
向かいのホームに到着した彼女が電車に乗り、徐々に走り去っていく車両を見送りながら、もはやあの子に恋焦がれる気持ちが微塵も湧いてこない自分自身に持月はしばらくの間当惑し、ベンチに腰掛けたまま心の中で静かに涙を流した。
やがてそれも乾いてしまうと、今度は途方もなく笑みが零れ、まるで何かに解放されたように清々しい心地になった。
「……さて」
ベンチから立ち上がった彼は、ポケットを探って煙草の箱を取り出すとそれをぐしゃぐしゃに握りつぶし、屑籠の中に放り投げて歩きだした。
蜜と陽炎 扇谷 純 @painomi06
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