第41話
「私ね、大学に行ったら一人暮らしするの。――君は?」
「僕はきっと、自宅から通いだな」
「……そっか」と呟いて俯いた彼女は、僅かに蕾が開き始めている桜の木を窓際から見下ろした。教室棟の下駄箱付近に視線を遣ると、花束や卒業証書を抱えて記念撮影をする人々でごった返していた。
卒業式を終えた持月は、喧しく談笑するクラスの連中を横目に早々と教室を後にした。その足で文芸部の部室に最後の本を返却した彼は、気まぐれに写真部の部室を訪れていた。
いるはずがないと思いつつ試しにノックをすると扉が開き、目の前には百瀬の姿があった。彼らは二人で煙草を吹かしながら最後に堂々と校則違反を犯し、良い機会だからと彼女にブレザーのボタンをねだられた持月は一つちぎってそれを手渡した。
「代わりに、私もこれあげるね」と言って彼女が渡したのは、鞄にずっと付けていたピンクの熊のストラップだった。
「あんまり嬉しくないね」
「なんでよ、すっごいレアなんだから」
「ただの期間限定品でしょ? 持ってる人は他にもたくさんいるよ」
「私から貰った限定品だよ? それだけで価値があるから」
「結構な自信がおありのようで、何よりだね」と彼が冷めた顔で答えると、百瀬は口元に笑みを浮かべ、「ねぇ、君は大学に入ったら何がしたい?」と尋ねた。
その質問についてしばしの間考えた持月が、「とりあえず、眼鏡をやめるかな」と答えると、「それは今すぐにでも改善すべきだよ」と言って彼女は笑った。
「――ねぇ。大学に入ったら、何か変わるかな?」
俯いて窓枠に凭れた彼女は、不安げな表情でそう言った。「一人暮らしって、寂しかったりすると思う?」
「むしろ気楽でしょ」と答えた持月も窓の方へと移動し、騒ぎ立てる連中を見下ろしながら二本目の煙草を箱から取り出した。
「そんなに遠いところに行くわけでもないんだし、誰とだって、いつでも会えるよ」
もちろん自分も。いつだって会いに行ける。
胸の中でそう言い聞かせながら持月がポケットを探っていると、ライターの火をつけた百瀬がそれを彼の方に寄こした。今ではむせることも、ヤニクラを起こすこともなくなった持月は、その頃の光景が随分と昔のことのように思えていた。
「そうだよね」と答えてライターをしまった彼女は暗い表情を浮かべると、「でも、友達とかできるかなって思うと、ちょっと心配かも」と小声で言った。
「それは君が言う台詞じゃないよね」
持月はつい彼女の口調を真似て指摘したが、やがて照れたように目を逸らすと、「困ったら、……いつでも僕を呼べばいいよ」と言った。
百瀬は少し驚いたような表情を見せたが、続けて笑顔になりながら、「ありがと」と答えた。
「そんなこと言ってると、また甘えちゃうからね」
「別に、構わないよ」
大学に入ってからも、彼女は他人の前で仮初の自分を演じ続けることだろう。そしていずれは心労が蓄積し、膨らみきった風船のように破裂寸前に陥ると持月に再び手助けを請う。
彼にはそんな確信めいた予感があった。これまでに彼女と過ごした記憶と、二人の間に繋がった糸は容易に断ち切れるものではない。すっかり人がいなくなった校内から出ると、二人は向かい合って別れの挨拶を交わした。
「じゃあ、落ち着いたら連絡するね」
「うん。待ってるよ」
だが、それから彼女が持月に連絡を寄越すことは二度となかった。
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