第40話

「もしもし。僕だけど。――うん。今亮くんの家に来てて。あのさ、今日はこのまま泊まって行っても良いかな? ――うん、うん。分かった」


 母親との通話を終えると持月はベンチから立ち上がり、「ここは寒いから、ひとまずどこかに移動しよう」と言って彼女の手を取った。


 相変わらず熱を失ったままの柔らかなそれは、僅かに彼の手を握り返した。続いてゆっくりと立ち上がった彼女は、持月に引きずられるようにして歩き始めた。


 そろそろ最終電車がなくなる頃合、駅前には忙しなく家路を急ぐサラリーマンや、いつまでも別れを惜しんで離れない男女を見かける程度だった。持月は鮮やかなネオンサインに導かれるように夜の繁華街へ足を向けると、あてもなく歩き始めた。


 知り合いとの接触を避けるため、彼は商店街を外れた薄暗い路地を進んだ。大人たちが犇めく夜の世界はこの寒空にあっても思いのほか賑わって映り、外から眺める居酒屋の店内はまるで絵に描いたような家族の団欒だった。


 通りを歩く酔っ払いは大声で何かを叫び、お粗末な足運びをしているものの、笑顔が絶えることはない。それとは対照的に、持月たちは寒さで身を強ばらせながら俯き加減に足を進めていた。一歩足を運ぶたびに宙を舞う白い吐息は、二人の置かれた状況の過酷さを物語るように思えた。


 下心がないといえば、嘘になる。


 気づけば持月はホテル街へ足を運んでおり、派手な照明が煌くお城のような形の建物を見上げていた。何事にも関心を示さず俯いたまま持月に続いていた彼女は、立ち止まった彼が握り締める手にほんの少し力を込めたことで顔を上げると、そこがどこであるのかようやく理解したような表情を見せた。


「良いよ」と呟きながら手を引いた彼女は、自ら門を潜って中へと歩き進む。それに身を任せる形で扉の前まで来た持月だったが、結局は勇気が持てず、立ち止まって彼女の手を引くと「もう少し、……歩きたいかな」と答えてその場を離れた。


 歩き進めるうち、徐々に気持ちが落ち着き始めた百瀬は母親が再婚して連れてきた新しい父親とその娘について語った。彼女の話によると少なからず人間性に問題のある二人のようだったが、それでも母親が新たに築いた家庭が円満に進むようにと彼女は必死で良き子役を演じ続けた。


「あの動画を投稿した本当の理由はね、たぶん現実から目を逸らしたかっただけなんだと思う。君には偉そうに色々と話したけど、私は他人の前で演じ分けるのに疲れて、どれが本当の自分なのか分からなくなっていたから」


「だからって君が、……その人たちと同列になる必要はあったのかな」


 義姉のようにふしだらな行為に及び、義父のような変態どもを喜ばす行為をする必要が、彼女にはあったのだろうか。


 持月にそう指摘された彼女は思わず苦笑いを浮かべると、恥ずかしそうに頭を掻き、「さぁ、なんでだろうね」と答えた。


「半分はやけっぱちで、半分は本心で楽しんでいたとか。……違うか。きっと、憧れてたんだよ」


「憧れ?」


「そう。自分に素直に生きることができるあの人達が、私は羨ましかったの。だから無意識に真似しちゃったのかもね」


「真似……」


 彼女の話を聞きながら、持月は自分も百瀬という女の子に惹かれて行動や言動を真似していたのだと気づかされた。


 嫌悪と嫉妬は、同じように相手を疎む感情を根底に備えているにも関わらず、目指すべき先は全くの逆だ。彼女に内包された彼らに対する嫌悪は、いつの間にか嫉妬にすり替わっていたのかもしれない。


 さんざん歩き回って二人が辿り着いたのは、彼らの通う高校だった。背中に伝う汗が冷え始めるほどに歩き続けた彼らは校門をよじ登ると、コンクリート造りの非常階段の最上階に並んで腰掛けた。屋内に比べれば当然寒くもあったが、風は幾分か防ぐことができ、我慢できないほどでもなかった。


「君って、温かいね」


 肩に寄り添った彼女は持月に対して静かにそう呟いた。持月がそんな彼女の頭を撫でると、百瀬は以前にも話してくれた実の父親について淡々と話し始めた。彼がいかに優秀な写真家であったか。父親としては多少問題の多い人間ではあったものの、それでも彼女は父親を尊敬し、いつかは自身も写真家となって共に世界を巡ることを夢見ていた。


 両親が離婚してからも彼女は父親と年に一度は会う約束を交わしており、それまでに訪れた国の話を嬉しそうに語る彼の姿を眺めるのが好きだったそうだ。


 しかしながら、夜に連絡が入ったその父親から、もう会うことはできないと言われてしまった。――それも、父親の再婚が理由だった。


「私、結婚なんて絶対にしない……。一人の方が辛いこともないもんね」


 そう言ってしがみつくように彼の身体に身を寄せる百瀬の頭を再び撫でた持月は、「大丈夫、大丈夫」とまるでおまじないのように囁き続けた。


「ねぇ、名前で呼んで」


 身体に密着したまま僅かに顔を上げた彼女は、持月を見上げながらそう言った。


「冬華……、さん?」


 すると彼女はくすっと笑い、「呼び捨てでいいのに」と言った。


 指先に少しばかり力を込めた持月は、瞳を覗き込みながら、「……冬華」と囁いた。


 たとえ百瀬だろうと、桜井だろうと、彼女が冬華という名の一人の女の子であることは、この先もずっと変わらない。


 ひどい寒さのせいか、それとも心が凍えていたせいか。見つめ合った彼らは一度飾り気のないキスをするとそのまま身体を強く抱き合い、日が昇るまで互いを暖め合った。


 耳元で吐き出す彼女の吐息が心地良く、いっそこのまま強引に押し倒してしまいたいという衝動を胸に抱きながら、なおも持月は優しく彼女を包み込んだ。


 薄明の淡い光が周囲の闇を照らし、始発電車が動き出す頃、彼らはお別れを言って互いの道を歩き始めた。

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