黒い森

岸亜里沙

黒い森

6月18日の深夜、僕は車で静岡県の県道71号富士宮鳴沢線ふじのみやなるさわせんを走っていました。

ご存知の方もいるかと思いますが、この道は青木ヶ原樹海の中を横切る道です。

何故僕がこんな時間にこの道を通っているかと言いますと、仕事でも観光でもありません。自殺をするためです。

仕事のストレスで神経衰弱となり、家庭環境も悪化し、最愛の妻とも離婚をしてしまいました。

その様な出来事が重なり、ポッカリと心に穴が開いた僕は、いつしか自殺をする決心を固めました。その時、真っ先に頭に思い浮かんだのが、青木ヶ原樹海でした。

この壮大で神秘の森でなら、安らかに死ねるのではないかと考えたからです。


「この黒い森が僕を呼んでいるんだ」

僕は車を走らせながらポツリと呟きました。

そして誰も通らないであろう、県道脇の目立たない場所に車を停め、運転席を降りました。

目の前に広がる樹海を見て、僕は足がすくみそうでした。圧倒的な大自然を前にして畏怖の念が込み上げてくるようです。

6月半ばなのに、ひんやりとした空気。

生い茂る樹木は夜空を覆う屋根のように高々と聳え、足元には草が生い茂り、倒木などもあちこちに転がっています。

ですが手付かずの大自然のそれとは対称的に、人工物の多さにも驚きました。

ペットボトルやタバコなどのゴミとは異なる異質な物。ボロボロの鞄や靴、洋服の残骸もありました。きっとこの樹海の中にはまだ発見されていない遺体もあるのでしょう。

僕は恐る恐る歩を進めました。

しかし一歩樹海へ足を踏み入れると、何かに導かれるように、僕は無心で暗闇の森の中を進んで行きます。


県道脇から数百メートル程樹海を進んだでしょうか。

僕は自分の目を疑いました。月明かりに照らされた木々の隙間に、佇む人影を目にしたのです。

背格好も自分と同じくらいの男性のようで、その人物はただぼんやりと上を見つめていました。

よく見ると、その視線の先に、首吊り用のロープが枝に括りつけられているのが見えました。

この人はこれから自殺するんだとすぐに理解をし、その瞬間、僕は自分でも信じられない言葉を口にしたのです。

「なあ、バカな考えは止めろ」

端から見ればおかしなセリフです。

僕も自殺する為にこの樹海ばしょへやって来ているわけなのですから、言動が矛盾しているのです。

ロープを見つめていた男性は驚いた表情で、こちらを振り返ります。暗闇ではっきりとは分かりませんでしたが、年齢としも自分と同じくらいでしょうか。窶れた表情かおはまるで自分自身を見ているようでした。

暫く無言でしたが、少しして彼はゆっくりと口を開きました。

「・・・・・・お前は、誰だ?」

「君と同じだよ。ここへ自殺するためにやって来た」

「じゃあ、何故俺を止める?」

「分からない。だけど何故か見殺しには出来なかった」

「お前も自殺志願者なら、一緒に死ぬのはどうだ?」

「断るよ。僕はこの樹海で一人で密かに死にたかった。だけど、こうして君と出会ってしまった。だから日を改めるよ」

「ならさっさと出て行くんだな。まあ、無事に出て行けたらの話だが」

「君も一緒にここから出るのはどうだい?」

「は?」

「君も一人で死のうとして、樹海ここへ来たんだろ?そうじゃなきゃ、わざわざこんな場所まで来るもんか。だったらその目的がダメになってしまったわけだから、お互いに今日の自殺は一旦延期にしよう」

「ははは、面白い奴だな。まあ言われてみれば、確かに俺もまだこの世に未練があるのかもしれないな。そうじゃなきゃ、このロープでとっくに首を吊ってたはずだからな」

「よし、決まった。今日の自殺はお互い延期だ。まだここは県道の近くだ。車の音を頼りに歩けば、樹海を抜けて県道へと出られるだろう」


僕ら二人は深夜の樹海から脱出するため、県道の方に続くと思う方角へと歩き出しました。

道中何度も迷いましたが、20分後にようやく県道へと出ることに成功しました。

「あれが僕の車だ。君はここまでどうやって来たんだい?良かったら乗っていくかい?」

「心配するな。俺も車だ。この先に停めてあるよ」

「分かった。でも今日ここで会ったのも何かの縁かもしれないね。お互い、気が変わったらこの自殺は延期ではなく、中止にするのもいいかもね」

「そうだな。ここで何かが変わったかもしれないしな。負の連鎖が」

「じゃあ、ひとまず元気で」

僕らはお互いの名前も聞かず、深夜の県道で別れました。


それから2ヶ月後。

僕はまだ生きています。

あの時、あの森で僕は生まれ変わったようでした。

そして、あそこで出会った彼は、今どうしているだろうかと考える事が多々ありました。

でも、きっと何処かで生きている事でしょう。

彼が何故死にたかったのか、理由は分かりませんが、彼も生まれ変わったのだろうと思いました。

ですが、ちょうど点けていたテレビから臨時ニュースが伝えられ、僕の思考はそちらに向けられました。

「速報です。先程、午後6時15分頃、◯◯線の車内で男が刃物を振り回し、乗客数名が死傷した模様です。繰り返します・・・」

最近はこんな物騒な事件が増えたなと思いました。無防備な人間を襲うなど、弱虫のやることにすぎません。死刑になりたいなどの理由で、社会の迷惑になるのであれば、潔く自殺をすればいいだけなのですから。

そのようなことを考えていましたが、 テレビに映された犯人の顔写真を見て、僕は心臓が止まるかと思いました。

そう。それはあの時、樹海で自殺を思い止まった彼だったのです。


それから連日のように、テレビはこのニュースを伝えました。

僕はまさかこんな形で彼と再会するとは、思ってもみませんでした。

「なんでこんな真似をしたんだ、あの野郎は!」

僕は彼に対する怒りが沸々と込み上げてきました。

許せない。

僕は信じていたのに。

絶対許せない。

しかしその怒りの感情は、次第に別の感情へと変化していったのです。


待ってくれ。もし自分があの時、彼の自殺を止めていなければ、あのまま自殺をさせていれば、彼がこんな事件を起こすこともなかったはずだ。そうすれば、被害者の人たちも

死なずに済んだのに。

と言うことは、自分が殺人の片棒を担いだのと同じだ。いや、自分が殺したのも同じなのだ。

自分はなんて過ちを犯してしまったのだ。

もしこんな悲惨な未来が分かっていたら、彼を助けず逆に殺していただろう。

「全部、自分のせいだ」


それから数日後、僕はあの時と同じ時間、同じ道を車で走っていました。

罪を償うために。

前回と同じ場所に車を停め、また樹海へと足を踏み入れました。

暫く歩くと彼と出会った場所へと辿り着いたのです。適当に歩いただけですが、全く同じ場所に来ていました。そこにはまだあの首吊り用のロープが、枝に括りつけられたままでした。

そのロープを眺めていると、様々な考えが頭を過っては消えていきます。

やはり自分の死に場所はここなのだと。


その時急に背後から人の声がしました。

「なあ、バカな考えは止めろ」

ハッとして振り替えると、そこには一人の男が立っていました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

黒い森 岸亜里沙 @kishiarisa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ