蒼き森の鬼姫

如月アクエ

蒼き森の鬼姫

「蒼き森には鬼が潜んでいる、か……」

 眼前に広がる鬱蒼と生い茂る木々を眺め、シュラは呟いた。

 それは神話の時代から語り継がれている話の一つ。

 その鬼は、森に宿る精霊が怪物となったモノであると言う者もいれば、絶滅から免れた古代生物の一種であるという説、または蒼き森が発する妖気が見せる幻覚であったり、この森の呪いが自分自身の心の中に潜む闇を見せているのだと説く神官や僧侶もいた。

 だが、彼女にはその全てがどうでもいいことだった。

 森の中にいるといわれる鬼を斬り伏せるだけ。

 そして、その中に自分の求めているモノがあるのか。

 シュラはゆっくりと湿った地面を踏みしめ、獲物を迎え入れるような蒼い森へと、足を踏み入れた。



 長かった戦争が終わり、見事に敵国を打ち破った王国の騎士団が、都へ凱旋を果たす。

 王都では戦勝と、それをもたらしてくれた神々に感謝し、祝うための盛大な祭りが行なわれ、吟遊詩人の歌声や民の歓声が都中に溢れていた。

 大通りに限らず、小さな裏路地にまで屋台が立ち並び、この騒ぎを聞きつけた大道芸人の一座が煌びやかな衣装で踊りや芸などを披露し、騎士団の武勇、古の英雄譚や恋物語を唄う吟遊詩人の姿も見られ、祭りは最高潮に達する気配を見せていた。

 その中に一人の女性がいた。

 絶世の美女という表現が最も相応しいであろう顔立ち、そして纏っている漆黒の外套と同じく黒く塗られた軽装な防具の女性は、この熱狂する人々とは明らかに違った雰囲気を持ち、彼女の存在に気がついた者は顔を曇らせ、互いに何かを囁きあっていた。


 女性は人の波を押し抜け、大通りに面したやや大きめの酒場の扉を押し開いた。

 狂ったような喧騒が耳を打ち、充満した酒と脂の匂いが鼻をすり抜けた。

 祭りの最中でもあり、酒場の中は上気した顔の人々でごった返していた。

 扉を開けて入ってきた女性に、店内の客の視線が一斉に注がれる。

 値踏みするような視線、胡散臭そうに眺める者、奇異の目で見るような客など、反応はそれぞれだった。

 ただ、全てに共通しているのは、女性のことを歓迎している客は誰もいなかった。

 彼女の方はそんな事など他人事のように、空いている場所を探した。

 ちょうど、扉から少し離れたカウンター席近くにテーブルが空いているのが見えた。

 彼女がテーブルに着き、酒場で働いている若い娘に食事と飲み物を注文すると、店内には元の喧騒さが戻る。

「見かけない顔だな、お嬢ちゃん。旅人かい? ただの旅人にしちゃ、随分とご立派な物を持ってるじゃあないか?」

 カウンター席で飲んでいた酔客の一人が、女性のテーブルに立て掛けられた、かなり長大な太刀を見ながら、からかうような口調で立ち上がり、絡むように歩み寄ってきた。

「どうせ、人を殺して稼いでいる傭兵なんだろ?」

 男は酔って濁った眼で、彫刻のような端正で気怠そうな女性の顔を見た。

 大方、今回の戦でひと稼ぎしようとした傭兵なのだと思っていた。

 この時代、男も女も同じように戦場に立つことはある。

 だが、女性の地位はさほど確立されている訳ではない。

 女性の兵士や将軍など数が知れている程度だ。

 特に古都といわれ、その歴史を誇っている王都の住民には、古風な考え方を持っている者が多い。

 女のくせに、という偏見と軽蔑の眼差しが酔った目に浮ぶ。

「居眠りしているうちに、世の中がすっかり平和になったのを知らないみたいだな。ま、お嬢ちゃんなら、その顔と身体でいくらでも稼げるだろうがな」

 下卑た言葉に酒場中から、どっと笑いがおきた。

 しかし、女性のほうはそんなことなど気にする様子もなく、静かに食事をすすめる。

「よぉ、お嬢ちゃん、聞いているのかよ? だいたい目障りなんだよ、女のくせにこんな物騒なオモチャを都の中で持ち歩かれたんじゃ……」

 男が女性の太刀に触れようとした瞬間、男の口から言葉の代わりにひきっつたうめき声が漏れた。

 黒塗りの鞘から躍り出た白刃の光は、暗雲を切り裂く稲妻のように床を走り、男の喉元にピタリと止まる。

 さきほどまでの賑やかさが嘘だったように、酒場はしんと静まり返った。

 その場から動けなくなった男は、じっとりとした脂汗を全身ににじませ、自分の喉に触れる冷たい刃を凝視していた。

 恐怖にうち震え、今にも腰が抜けそうになるのを必死にこらえていた。

「早く自分の席に戻ってください……」

 しばらく続いた静寂を女性の声が破った。

 鈴の音色を思わせるような、澄んだ声。

 女性の口から次の言葉は発せられることはなかった。

 が、一瞬、獲物に襲い掛かる獣のように目が細められた。

 それは抜かれた刃同様、心胆を締めつける迫力があった。

 男はすっかり酔いが醒めたように体を震わせ、ゆっくりと刃から退いた。

 ときおり、怯えた目を女性に向け、自分の席に戻る。

 そして、さきほど味わった死の恐怖を洗い流すため、カップに残った酒を飲み干した。

 男が席に戻ったのを見届け、女性は太刀を鞘に収める。

 彼女はため息のような息を小さく漏らすと、まだ手つかずの料理と琥珀色の液体を残した杯をそのままに、代金よりも少し多めの金貨を置いた。

 そのとき、再び、扉が開く。

 この状況をなんとかなればという酒場の客全員の期待は、すぐに裏切られた。

 扉から姿を見せたのは、大男。

 身に着けた黒い革鎧の下には鍛え抜かれた筋肉がのぞき、毛髪のない頭部に大猿のような顔は、すさまじく人相が悪い。

 大男は自分に注がれる視線を、威嚇するように見返す。

 暴力で人を脅すことに慣れきった目だった。

 酒場にいた客が、すぐに大男から目を逸らし、背中を丸め酒のほうに意識を集中する。

 全体を睨みまわしていた大男の目が、これから席を立とうとしていたひとりの女性に向けられた。

 その女性を見る目に、好色な輝きが浮ぶ。

「こいつはいいぜ。こんな上玉がいるなんてな!」

 大男はにやにやと笑いながら、女性に歩み寄った。

 視線は女性の顔、身体、次に黒塗りの鞘に収められた太刀で止まる。

「なかなか良さそうな刀じゃねぇか。ちょっと見せてくれや」

 そんな声など聞こえないかのように、女性は酒場を出る支度を止めない。

 大男はさらにドスをきかせた声を出す。

「聞こえねぇのか? その刀を拝ませろって言ってんだよ!」

 それでも彼女は無視して、席から立ちあがった。

「てめぇ、この王国軍のガルド様をなめて……」

 大男が女性を掴もうとした時である。

 いつのまにか短刀が、彼の喉元に突きつけられていた。

 女性の黒曜石のように輝く瞳が、無表情に大男を見つめる。

「動くと、死にますよ。それとも、死んでみますか? このまま……」

 グッと刃先が喉に食い込んだ。

 皮膚が破ける小さな音がして、赤いものが刃を薄く伝う。

「こいつ……」

 ガルドを名乗った大男も、手で腰の得物を掴もうとした。

「やめときな、ガルド。お前、死ぬぞ」

 張りのある声が、酒場の入り口から聞こえた。

 そこには騎士団が着用する金属製の鎧をまとった若い男が立っていた。

 肩まで伸びた銀髪が黒色の鎧に映え、端正な顔立ちを際立たせる。

 だが、細長な目の中にある黒い瞳は、自身の闇を表すように鋭い輝きを宿していた。

「シヴァの兄貴……」

 ガルドと呼ばれた大男は、先程とはうって変わった情けない声で青年の名を呼ぶ。

 どうやら、このシヴァという男には頭があがらないようだ。

 今まで見せていた高圧的な態度は、すっかり消えていた。

「お前が喧嘩を売ってるのは、剣仙セルム唯一の弟子シュラだぜ。ま、死にたけりゃ、そのまま剣を抜けばいい」

「シュラ……鬼姫のシュラ……」

 ガルドは呻くように呟き、眼下のうら若い娘を見た。

 どう見ても、服装さえ変えれば、深窓の令嬢にしか見えない女が、どんな魔物すらも斬り殺せる最強の剣士。

 ガルドはちらりとシュラを見返す。

 どこか遠くを見ている物憂げな表情ではあったが、全てを押し潰すような殺気が容赦なくガルドの身体を襲っている。

 その証拠に彼の喉元に食い込む切っ先は、少しづつ強く、深く入りこんでゆく。

 ガルドが黙って身体を退けると、女性は抜いた時と同様、瞬時に短剣をしまう。

 ここで襲いかかれば、今度は確実に首が斬り落とされるのは目に見えていた。

 大振りの太刀を背中にかけ終え、シュラが扉を出ようとした時、入り口に寄り掛かったままのシヴァに向かって、軽く手をあげる。

 まるで、知り合いに挨拶を送るかのように。

「おい、シュラさん、気をつけなよ。ここじゃいくら、あんたが最強を誇っても、すぐに足元をすくわれるぜ」

 店を出るシュラの背中に、シヴァがそう言葉を投げかけた。

 シュラは軽く振り向き、シヴァの顔を見た。

 が、すぐに前を向き、歩き出す。

 酒場から離れたシュラは、さきほどシヴァに向けてあげた手の中を見た。

 そこには人の指くらいのナイフがあった。

 彼はすれ違いざまに、これをシュラのこめかみへと投げつけたのだ。

 おそらく、シュラ以外、酒場にいた人間で気がついた者はいないだろう。

「……危ない人だわ……」

 シュラは他人事のようにポツリと呟くと、そのナイフをゴミでも捨てるように、そのまま落とした。

 自分の命を狙ったナイフは、祭りに浮かれる雑踏の中に飲み込まれていった。



 小柄ながら、均整のとれた細身の肢体。

 磨き上げた大理石のように白く整った顔立ちに、背中まで流れる漆黒の髪。

 華奢で驚くほど白く透き通った肌と瑞々しく細い手足。

 とても人々から畏怖される歴戦の強者には見えない。

 だが、その背中には、普通の人間が持てば、大きさと強大な威力から、まず扱うことすらできない伝説の妖刀『修羅の太刀』が吊るされている。

 それを引き抜き、戦いになれば、彼女のたおやかな身体の中に秘められた人間ならざる力、闇に呪われた一族の力が解放される。

 美しさと力、そして、呪われた血を持つ一族に産まれ育ったのが、シュラだった。

 子供の頃から受けた剣仙の過酷な修行と幾多の戦場、魔物との闘いを、その手にした太刀で斬り伏せてきた彼女は、そのような過去を微塵も感じさせないほど、はかなげでどこか気怠そうな穏やかな表情をする。

 しかし、呪われた血の力が表に出てくると、斬り殺すことに悦楽を求める鬼神のごとき剣士になってしまう。

 彼女は戦いを生業とし、その強さは「鬼を求め、鬼のように斬り殺す」という噂とともに広まった。

 『鬼姫』のシュラ。

 シュラ。

 血と争いを好む鬼の神と呼ばれる修羅。

 彼女の強さと戦いの運命になぞらえて、その名前をつけられたのではないかと世の人々は噂した。

 彼女自身は呪われた血が誘う感情を癒し、忘れ去るため、放浪の旅に身を委ねている。


 酒場から出たシュラは、ふと気がつくと狭い路地に迷い込む。

 古びた建物の影を落とす小路は、表通りの喧騒は響いているが、どこか遠くの世界のようにこの場所だけは静まり返っていた。

 この場所は表ほど目が向かないようだ。

 シュラは静かな小路を歩きながら、建物の間から見える空を仰ぎ見る。

 風に吹かれ、白い雲がゆるやかに流れていた。

 渡り鳥の群れが、雲を横切るように南の方角へと飛んでゆく。

 風が、シュラの頬を優しくなでる。

 その風の感触が、彼女の心の中に深く閉ざされていた記憶を揺り起こす鍵となった。

 幼いころ、優しく撫でてくれた母親の温かく、春の匂いがした、白く可憐な手のひら。

 この世でたった一人しかいなかった肉親の無残な亡骸を見て、自分の頬を伝った、生れて最後に流した涙。

 眼前に広がる滅茶苦茶に斬り刻まれた無数の惨殺死体と、顔や髪にべっとりと張りついた、生温かい血の感触。

 忌まわしい記憶とともにこみ上げてくるドス黒い衝動に飲み込まれそうになった時、自分の足元で小さな石が弾けるのに気がついた。

 その小石は、ゆるやかな坂道を下り、小さな反響を残しつつ、次第に遠ざかっていく。

 シュラは止めていた足を、小石が消えていった方へと歩き始める。

 その足音が、青い空に向かって小さく響いた。


 複雑に折れ曲がった小路は、一軒の古びた家の前で終わっていた。

 奇妙な文字が記された扉の看板は、まるでシュラを誘うように揺れている。

 そして、その向こうからしわがれた声がかろうじて聞こえてきた。

「お入り。この婆に用があってきたんじゃろ?」

 扉を開けると、中から奇妙な薫りがたちこめ、得体のしれない調度品が、あらゆる場所に並べられている。

 部屋の奥には小さな木製のテーブルを前に、老婆が座っていた。

 そして、シュラを見ると、しわだらけの顔をくしゃくしゃに歪めながら、笑い声とも泣き声とも判断ができないような声で言った。

「よく来たね、まぁ、そこにおかけ」

 シュラは老婆に言われるまま、今にも壊れそうな椅子に座る。

 すると、どこから取り出したのか、老婆は色あせたカードの束を手に語り始めた。

「この家にたどり着く者は皆、道を失い、道しるべを求めておる。そういう者達に道を示し送り出すのが、この婆の役目じゃ」

 なにかを言おうとしたシュラを制するように、老婆は不気味な笑い声をたて、手慣れた様子でカードを混ぜる。

「どれ、手始めにお前さんの過去から見てみるとしようかね」

 老婆が一枚のカードをテーブルの上に置いた。

 そのカードには闇夜の中で輝く剣を持った女神の姿が描かれていた。

 女神は闇夜に勝るとも劣らなほどの漆黒の衣で豊満な身体を包み、妖しい笑みを浮かべている。

「ほお……お前さん、ただの人じゃないね、闇に呪われた一族のようだね……」

 その言葉にシュラの顔がさっと曇った。

 そして、何かを危惧するかのように険しくなった。

「そう怖い顔をするでない。婆も永いこと生きてきて、色々な生き物に出会った。お前さんのような呪われた者のもじゃ。心配せんでもいい」

 そう言いながら、老婆は新たなカードを引き抜いた。

 そのカードには、馬にまたがり、剣を掲げた男の姿が描かれていた。剣の先から稲妻がほとばしり、暗く曇った空は、その稲妻によって裂かれていた。

「……ずいぶんと腕のたつ戦士……剣士のようだねぇ。お前さんの刀はたくさんの血を吸い、それでもなお血を求めているようじゃ……」

 シュラの座る椅子に立て掛けられた大きな太刀をちらりと見ながら、さらにもう一枚、引き抜き、表のまま机の上に置いた。

 そこには、炎に包まれた鬼神の姿が描かれている。

「なるほど……お前さんが剣を振るう理由は、鬼を求めているからか。そして、その鬼はお前自身……違うかね?」

 シュラは厳しい顔で、まるで自分自身をあざ笑っているようなカードの絵柄を見つめていた。

「安心するがいい。道は必ず開かれるもの。そして、常にそれはひとつとは限らぬぞ」

 そう言うと、老婆はさらに一枚のカードを引いた。

 そのカードは青色に染まった森に囲まれた細い道を一人で歩く旅人の絵だ。

「お前さんは放浪の旅を続けることになるね。それも、辛く長い旅じゃ。むろん、その旅でお前さんは何かを手にいれることができるはずじゃ」

 最後に老婆はカードの引き、裏返しのままシュラの前に置いた。

「これがお前さんの未来、そして、待ち受けるものじゃ。さぁ、開けてみるがいい」

 シュラはそのカードに手を伸ばした。

 が、そのカードを裏返すかわりに、そのまま老婆のほうに押しやった。

 カードは裏返ったまま、老婆の前でかすかに揺れる。

「こんなカードに自分の運命を託すつもりはありません。自分の運命は……自分で選択して、見つけだします」

 軋んだ音をたてながら、シュラは椅子から立ち上がった。そして、入ってきた扉に手をかける。

「忘れるでないぞ、シュラ。これがお前の運命。運命からは誰も抗い、逃げることはできぬぞ」

 シュラが扉を開くと、風が舞いこんできた。

 女神、戦士、鬼、旅人、そして、さらに数枚のカードが風に踊る。

 老婆の家を出ると、まぶしい光が飛びこんできた。

 シュラの目が慣れると同時に、耳には祭りの賑やかな音楽が聞こえてくる。

 そこは、祭りの雑踏の中だった。

 シュラが背中にくくりつけられた太刀を背負いなおすと、その重みがいつもより強く肩に食い込む。

 やがて、シュラは都の雑踏から離れるように歩き始めた。

 その背後に張りつくような黒い影の存在と共に。



 大地が揺れていた。

 重量と力を持つ者が、地を蹴り、力任せに手にした物を叩きつける。

 その振動が、鬱蒼とした蒼い森全体を絶え間なく揺るがせていた。

 目の前の巨大な魔物、食人鬼が手にした巨大な斧が唸り、若い娘——シュラを襲う。

 シュラは人間の限界を超える反射神経で飛び退き、その攻撃を避ける。

 と、同時に抜き身の刃を下からすくい上げるように跳ね上げた。

 生い茂った樹々の間から漏れる月の光に刃が閃き、少し遅れて血が周囲に散った。

「ガアアァァッ!」

 食人鬼は筋肉で膨れ上がった腕から噴き出す血を見て、苦痛と憤怒の雄叫びをあげた。

 対して、シュラは大振りの太刀を斜めに構えると、切れ長の目を薄く細め、怒り狂った手負いの怪物を見据えていた。

 周囲の闇夜をそのまま染料にしたような漆黒の長い髪が、風に弄ばれ、新雪のような白くきめ細やかな肌の上を踊る。

 大理石で造られたような、純粋で冷然とした美しさを持った、線の細い端正な顔。

 澄んだ優しさと透徹した知性を漂わせる黒い瞳の瞳孔が、少しづつ狭まり、瞳全体が鮮血で固めたような赤い色に変色し始める。

 彼女の身体に流れる呪われた血脈が、その体に尋常ならざる変化を促していた。

 華奢ながらふくよかな胸、力を入れれば砕けて折れてしまいそうな細い腰。

 男性の夢想がそのまま具現化したような均整のとれた肢体を、薄い革製の服と軽い金属の鎧、その全てを覆い隠す黒い外套で包んでいた。

「ウオアアァァッ!」

 食人鬼が威嚇と、己の筋肉を引き締めるために大きく吠えた。

 異形の者。

 その身体はシュラよりも何倍も大きく、そのほとんどが筋肉で覆われていた。毛髪もまばらな頭部には一本の角のようなものが生えている。

 赤銅色の皮膚に染まった顔には巨大な眼球が剝かれたように二つ、大きく裂かれたような口には不揃いな牙がのぞく。

 頭部とは真逆に剛毛に覆われた上半身は筋肉ではちきれそうであり、下半身は粗末な布切れを巻いている程度である。

 シュラに退治を依頼してきた近隣の村の長は、この怪物をただ『鬼』と呼んだ。

 多くの人間を襲い、殺戮の玩具にされ、食い殺された。

 何度も討伐を試みたようだが、この怪物がいまだに生きていることと、周囲に無残に散らばっている肉片や骨、武具の破片が、失敗を物語っていた。

 周囲の人間にとっては恐怖と忌み嫌われる存在であり、蒼き森の邪気が凝り固まって生まれ落ちた異形の者。

 ただ、シュラにとってはたんなる斬るべき相手でしかない。

「……化け物め」

 シュラが小さく吐き捨てた。

 澄んではいるが、低く響く鈴の音色を思わせる声。

 それには異形の者に対する侮蔑の響きはない。

 これから「化け物」を斬る興奮と愉悦感、そして、彼女が通常では絶対に得られることができない快感を味わえる期待が混ざり合ったものだった。

「ガアアァァッ!」

 食人鬼が動いた。

 斧を力任せに振り下ろす。

 今まで、どんな屈強な者も機敏に動く者も確実に仕留めてきた一撃。

 シュラは小さく息を吐き捨る。

 黒い疾風が、閃いた。

 鈍い音。

 そして、異様な形をした物が、放物線を描く。

 と、少し離れた草むらに、それが重々しく落下した。

 それは巨大な斧。

 そして、それを掴んでいる手首であった。

 食人鬼が激痛に狂ったような咆哮をあげ、身体を左右に振りながらのけぞらせる。

 手首から先を失った太い腕、その真円を描いている鮮やかな切り口から、大量の血液が激しく噴き出していた。

 その血しぶきが、彼女の顔にかかる。

 シュラはその血をゆっくりと指で拭い、それを舐め、薄く笑った。

「お前も、私が求める『鬼』ではない……」

 そう言いながら、シュラはある時に出会った不思議な老婆に言われた言葉を思い出す。

 そして、今の自分と照らし合わせて、自嘲的な笑みを浮かべようとした。

 が、その前に食人鬼が腕を振り回し、襲い掛かってきたせいで、それは叶わなかった。

 目の前の相手は手首を失った激痛と怒りで、ただ破壊することだけに頭が支配されていた。

 食人鬼の口からは泡が入り混じった唾液、目には狂気に近い光が迸る。

「惨めにのたうち回っているのがお似合いだが……」

 シュラは素早く身体を移動させながら、怪物の攻撃を回避していく。

「お前は殺すぞ!」

 再び、漆黒の風が吹き荒れる。

 一瞬にして、食人鬼との間合いを詰める。

 瞬間、大太刀の切っ先が怪物の分厚い胸板を突き破った。

 異常なまでに発達した筋肉の繊維を断ち切り、貫通する鈍い手応えが、シュラの手へとずっしりと伝わる。

 天下の中で最高と称される妖刀の刃に貫かれた食人鬼は天を仰ぐように顔を上げ、それから断末魔の声をあげかけた。

 が、それは音になることはなかった。

 大きく口を開け、弓なりにのけ反ったまま硬直し、息絶えようとしていた。

 見開かれた目から急速に光が失われてゆき、それは完全に消えた。

 シュラは身体を回転させ、突き刺した太刀を人として超えた力で、相手の身体を切り裂くように、その刃を引き抜いた。

 どう、と音を立てて切り裂かれて崩れ落ちる異形の死体から、赤黒い鮮血が噴水のように吹き出し、シュラの顔、髪、衣服とはいわず、あらゆる部分に飛沫が飛び散った。

 シュラはいまだ荒ぶる血の滾りを押し出すように、熱い吐息を吐き出す。

 修羅の太刀を持つ手はさらなる破壊衝動でかすかに震え、身体は衝動を抑えるのが困難になっていく。

 汗ばんだ白い肌が薄く朱色に染まり、自分自身の血が煮えるように熱く、脈すらも自分の中で激しく鳴り響いているのが聞こえるほど飛び跳ねている。

 張りつくように粘っこい血の感触と生温かさ、そして、自分が吐き出している熱い息と同じような鉄の匂い。

 それが興奮と衝動で焼き焦がれそうになる自身の血を元に戻そうとした。

 口元には薄い笑みを浮かべ、白銀の刃にへばりついた血を振り払う。

 だが、その表情に反して、闇の中でも輝く深紅の瞳は冷ややかに異形の者の亡骸を見下ろしていた。

 つい先程まで彼女の精神を支配していた破壊と殺戮の衝動は、潮が引くように、すぐに冷めた。

 自分が呪われた闇の血から解き放れてゆくのが、手に取るように分かる。

「……くだらない」

 シュラは吐き捨てるように呟いた。

 それは、今までの闘いに対してなのか、それともすぐに支配されては消えてゆく興奮と殺戮の感情なのか、発した本人にすら分からなかった。

 動かなくなった食人鬼を見ながら、シュラは蒼き森の伝説を思い出した。

 蒼き森は、鬼を見せてくれる。

 自分の足元に転がっている化け物の鬼ではなく、本物の『鬼』を見せてくれるのだろうか。

 背後から響く、拍手の音。

「さすがは鬼姫、イイ女だぜ。特に、その血に塗れた顔と目が」

 蒼き森の木々から立ち込める霧の中から、一人の男が姿を現す。

 端正な顔立ちに、邪悪さを宿した鋭い眼光の眼差し。

 黒銀の鎧に、長い銀髪。

 シュラはその男に見覚えがあった。

「シヴァ……」

 以前、自分にナイフを投げつけた男。

 名前と自分を殺そうとしたこと以外、何も知らない。

 が、自分の血が最大級の警告を発していた。

 今、この男は危険だということを。

「何の用だ……王国の騎士がこんなところで何をしている?」

 徐々に血の色に変化してゆく瞳をシヴァに向けながら問う。

 闇の血が再び、シュラの身体を支配し始め、無意識に修羅の太刀を持つ手に力が入る。

 シヴァはシュラの問いが面白かったのだろうか、肩を震わせながら笑うのをこらえていた。

「この俺が王国の騎士……そいつはどうかなぁ?」

 シヴァが腰から下げていた剣を引き抜いた。

 と、同時にシヴァの容貌が変化をし始めた。

 シュラ同様に瞳が形を変える。

 どんどん狭まる瞳は細長い線のようになり、ほぼ濁った白い目に近くなった。

 そして、端正な顔には血管や神経が浮き上がったように幾つもの筋が浮かび上がる。

 口も徐々に吊り上がり、間からは鋭く尖った牙なようなものも発現していた。

 引き抜いた剣からも禍々しい黒い靄のようなものが漂い始める。

「……お前……魔族か?」

「ああ……お前と同じ人ならざる者ってやつだ!」

 闇と化した刃が唸り、シュラを襲う。

 咄嗟に修羅の太刀を振り上げ、その刃を防ぐ。

 闇の刃と白銀の刃がかみ合い、お互いの力が干渉しあい、それが空気を震わせ、突風を巻き起こす。

「さすがは修羅の太刀。伝説の妖刀だけあって、俺のディミオスに負けねぇとはな……」

「ディミオス……まさか、お前は……!」

 珍しくシュラが驚きの声をあげた。

 その剣、魔剣ディミオスの持ち主は、自分が知っている限り、たった一人しか思い当たらない。

 ヴォン!

 暗黒の刃が唸り声をあげる。

 ガラスを爪で引っ掻くような不快な音を出し、修羅の太刀と切り結ぶ。

 突き、躱し、斬りつけ、受ける。

 常人には瞬きに等しい中、両者は数多の太刀筋を永劫に繰り返していた。

 シヴァの攻撃をシュラが刃で受け、それを弾き、返す刀で横薙ぎを繰り出す。

 が、シヴァの動きは俊敏で、軽やかな体さばきで空中に舞い、身を翻しながら、太刀を躱す。

 着地した体勢から、シヴァの剣の闇が増し、彼の身体の周囲からドス黒い魔力が目に見えるほど噴き出す。

 そして、魔力を喰らう暗黒の刃を片手で持ち上げ、真横に構える。

「死ね! 鬼姫!」

「斬る!」

 二つの刃が一閃し、激しくすれ違う。

 シュラとシヴァ。

 互いに手にした剣と太刀を振り下ろしたまま、動かない。

 が、シュラの首から切り口が浮かび、そこから血が噴き出す。

 だが、シヴァも無事ではなかった。

 頭、首、左胸、右腕、腰、膝、足に刃が走り、切断されかけ、とめどない鮮血が彼を染める。

「さすがだな……俺のディミオスの魔力をかわして、ここまで斬られたのは、お前が初めてだ」

 血塗れの自分の身体など気にもせず、邪悪な笑みを浮かべ、魔剣を鞘に収める。

 そして、その止まることのない己の血を手になすりつけ、舌で舐め、その頭のまま銀髪の前髪を汚すようにかき上げた。

「なかなか楽しめたぜ……その礼に……」

 ゆっくりと血に塗れた手のひらをシュラの方にかざす。

「いいモノを見せてやる……この俺様の力でな!」

 首の切り口を手で押さえ、出血を抑えていたシュラはそれをただ受けるしかできない。

 止まらない血と今まで味わったことのない苦痛、そして、自分の血に対して激しく湧き上がる呪われた闇の血で、シュラの意識は薄れて消えようとしていた。

 ただ、その失われてゆく心の中で、ある言葉が幾重にも響いていた。

(お前さんは鬼を求めておる。そして、その鬼はお前さん自身ということ……)

「……鬼はどこにいる……?」

 シュラの呟き。

 いったい、自分の求めているという鬼とは何なのか。

 己の血の呪いと暗黒の魔力に侵され、失いつつある自我の中、彼女は考え、そして、言葉がついて出た。

「私の中に……いるの?」

 今まで目の前に立っていたシヴァが陽炎のように揺れ、次第にそれは一人の女性の姿に形を変える。

 自分自身だった。

 鏡に映したようなシュラの姿。

 人間とは違う呪われた闇の血を象徴する深紅の瞳が嘲るように細められ、口の端が徐々に吊り上がってゆく。

 眼前のシュラは、新たな姿に変わる。

 真っ赤な鮮血に染まった鬼の女神。

 赤い瞳を輝かせ、血に濡れた手に何かを掴んでいた。

 鬼の女神は、まるで鏡の中の自分を見つめるように、相対しているシュラを凝視している。

(そうか……私が鬼だと思っていたモノ……私が本当に恐れていたのは……)

 目の前の女神はゆっくりと手に掴んでいた物をシュラの方に差し出す。

 それは血に汚れた肉の塊のように見えた。

 が、違った。

 シュラの母親の首だった。

「いやあああああぁぁぁ!」

 知らないうちに、彼女は叫んでいた。

 声にも音にもなっていたか分からないほど、彼女は絶叫を繰り返す。

 身体の底から、心の底から湧き上がる恐怖と嫌悪や怒り、ありとあらゆる負の感情のままに。

 自分の頭の中で反響する様々な音と共にシュラの意識も遠のいていった……。


 目の前にいたはずのシヴァはいなくなっていた。

 長く意識を失っていたよう思っていたが、ほんの一時だったのかもしれない。

 気が付けば、今までシュラが見ていたモノは、跡形もなく消えていた。

 シュラは血が噴き出していた首を触る。出血はなく、首から下へと血が塊のように流れ落ちている。

 それと同時に、大量の汗が肌の上を伝っているのを感じていた。

 流れ落ちた汗と血は混じりあい、そのまま身体に冷たくにじむ。

 シュラは気持ちを整えるかのように、小さく息を吐いた。

 周囲の景色は、異様なまでに変化していた。

 斬り捨てた食人鬼の死体は確認すらできないほどの肉塊と化し、地は朱色に染まっている。

 そして、樹々は斬り飛ばされたようになぎ倒され、大地は所々削りとられていた。

 地形が変わってしまった中、シュラは力なくその場に座り込んだ。

 そして、思った。もし、今あの占いの老婆がいたとしたら、自分が知りたい確実な答えを、もしくは道を見せてくれるのか。

 それとも、見つけられるのか教えてくれたのだろうか。

 また、もう一人、シヴァの顔が脳裏をよぎる。

 彼も彼女が求めている鬼を見出すための男なのか。

 まだ、かすかに残っている首の切傷をしなやかな白い指でなぞり、呟く。

「今度は斬り殺す……私の道は、私で見つける。たとえ、この世の全てを斬るとしても……そして、あの魔将も斬り殺す……そして、私は鬼を見つけ出してみせる……」


 それから以後しばらくして、シュラの姿は世から消えた。

 己の求める鬼を、または、戦い続ける呪われた血の宿命を断ち切るためか。

 いずれにせよ、鬼姫と呼ばれたシュラの存在は遠い記録の一遍になっていった。



 蒼き森の前に、一人の若い女性が立っていた。

 女性は背中に巨大な太刀を背負い、闇を思わせる漆黒の装備で身を被う放浪する戦士のように見えた。

 蒼き森は彼女を誘うかのように、その姿をゆっくりと飲み込んでいった……。

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蒼き森の鬼姫 如月アクエ @d1kisaragi

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