第八話 沙耶の遺した想い(二)
「でもあの体は死肉。死人のあの子が生きるためには他から命を補わなければいけない。君が来たばかりの日に金魚が食われていたのを覚えてるかい?」
「猫、じゃ、なくて……?」
「あの子の食事さ。そのために僕は金魚屋をやっている」
「……え?」
女は、ふふ、と美しく微笑んだ。
「僕は人助けなんてやらないよ。ただこれ以上人を食う金魚を見たくない自己満足だ」
女は目を細めて沙耶と弟を見つめた。弟は沙耶を警戒しながら、沙耶に捕まらないように宙を飛ぶ金魚を金魚鉢に入れていた。
「あれは君を助けてるわけじゃない。餌を捕ってるだけなんだよ。だから金魚はあの子恐れる。沙耶も弟が来たら逃げただろう?」
「餌……」
「食事の様子は凄惨だよ。ぐちゃぐちゃもぐもぐするうちに口からだらだらと血のような物が流れてくる。大きな金魚だとひと口では飲み込めないから分断してから食べるんだけど、服が汚れて洗うのが大変なんだ。弟は目玉が嫌いなようでね、ぺっと吐き出してゴミ箱に捨てる。後で台所の三角コーナーを見てみるといい」
そう言えば台所にゼラチンのような物が捨ててあった。あれは弟の残飯、金魚の食べ残しなのか。
弟は動き回って腹が減ったのか、腰の革袋から金魚を一匹取り出してぱくりと食べた。ぐちゃっと肉の潰れる音がして、そして目玉だけ吐き出したそれは三角コーナーに捨ててあった物と同じ物だった。
「うっ……!」
「おや、そんな様子でどうするんだい? 沙耶と暮らすならこれが日常になるんだよ。捕らえた金魚が人間の形をしていたら肉や内臓をむしゃむしゃと骨をバリバリと食べるだろう。そして君は頭を撫でながらよしよしよく食べたねと褒めてあげなきゃいけない」
沙耶は食事をし出した弟を迂回して、じりじりとこちらへ向かってきた。肉が落ちすぎたせいで骨が剥き出しになっている。いや、ほぼ骨だ。
「僕も君のように思ったよ。傍にいてくれればそれでいい。けどね、今のあの子には自我がないんだ。生きるために食べた金魚は内側からあの子を浸食し、そしてあの子は全てを忘れてしまった。自分が何なのか、僕が誰なのか、何も認識していないし記憶もない。そんな誰とも分からない存在を生かすために、僕は一人で悠久の時を生き数多の金魚を犠牲にしている。君にそれができるかい? 自分も君も忘れて永遠に金魚を食う化け物にして本当にいいのかい? 君が沙耶のためにできる最善の選択は本当にそれかい?」
沙耶は俺に近づいて来てるけどその目玉は本来あるべきところには既にない。
『生きて』
あの言葉にどんな想いを込めたんだろう。
沙耶は俺のために死を選び、俺の未来のために出目金になった。その沙耶を人に戻すには出目金を取り出さなければいけないけど、それは沙耶を再び殺すという事だ。
金魚屋か俺か、どちらかが沙耶を殺してやらなきゃいけない。
結果は同じだ。
――金魚屋が殺すか、俺が殺すか
「さあ、選択だ。殺すかい? それとも殺すかい?」
俺はまるで金魚が泳ぐようにゆらゆらと着物の袖を翻す女の手を取った。
「アルバイト君の最初で最後の大仕事だ」
女は店に戻るとゆっくりとした足取りで葬儀場へと向かった。その速度は身体がボロボロで這いずる事しかできない沙耶がこちらを見失わないためだ。そして女は相変わらず弟の手を引いているが、弟は相変わらず無表情で、けど姉の手をしっかりと握っている。とても金魚には見えない。まるで人間だ。ゾンビのようにふらつく沙耶とは全然違う。
「弟さんはどうして身体、その、普通なんですか? 沙耶はあんななのに」
「病死だから遺体が綺麗なんだよ。沙耶は崖から落ちたんだろう?」
「死んだ状態が保持されるんですか……」
比べるのは間違っているかもしれないが、不平等だ。どうせならどの出目金も腐敗してくれればいいのに――なんて、そんな愚かな事を考えた。
だがもし弟が沙耶のような状態だったら、女は諦めただろうか。それでも共に暮らす事を選んだだろうか。ちらりと女の顔を見ると弟を眺めながら幸せそうに微笑んでいる。
余計な事を考えるのはよそう。
少年は握っていた最後の一匹をむしゃりと食べて食事を終わりにした。
「金魚って食べさせていいんですか? どうしようもないのは分かるんですけど、その、金魚も人だし」
「人間は牛や豚を食べるし野生動物は狩りをする。それと同じだよ。共食いは道徳に反すると言うのならそれは価値観の違いにすぎない。ハムスターなんてあんな愛らしいのに母親が子を食べる。一部のサメとかクマとかもそうだろう。ヒトの場合はカニバリズムなんて言われるけど行動の名称が違うだけでそれだけの話だよ。これを議題にするのなら動物保護法からほじくり返した方が良い。ついでに言うと、金魚保護法なんて物は無いよ」
「でも輪廻転生させてあげるんでしょう?」
「へぇ? まさか君は本当に輪廻転生とやらを信じているのかい? 仮にそんな現象があったとして、君は前世を覚えているかい? 覚えて無いだろう? 結局生まれ変わったら死した個人とは認定されない。名前は記号に過ぎないけど、同一人物と認定されず関係性が保たれないのなら生まれ変わろうが消滅しようが同じだよ。天に上るというのは金魚屋の業務説明に過ぎない」
女は急に饒舌になった。今まで輪廻転生がどうこう言っていたくせに、急にどうでも良さそうだ。まさか俺を沙耶と向き合わせるためにそんな幻想を信じさせたのだろうか。
だったとしても、やはり金魚を食べるというのは許されないだろう。輪廻転生など無いから食べてもいいなんて、そんなのは弟が金魚を食べる事を正当化するための言い訳だ。
けど正直言って少し羨ましい。
心中などせず沙耶が病気で死ぬのを待っていればこの姉弟のように人目を忍んで生きていけたのだろうか。いや、そうなったら沙耶は金魚屋に依頼などしなかっただろう。結局のところ沙耶を出目金にしたのは俺だ。
「弔いとか断罪とか、あれってどうやるんですか? 俺特別な事できないんですけど」
「別にあれは特殊能力じゃないよ。システムによって動的に行われる。君は電源をオンにすればいいだけだ。そのシステムを動かすためのセキュリティカードは金魚屋しか持ってないんだ。だから金魚屋しかできないというだけで、セキュリティ解除できれば誰でもいいよ」
「システム? 物理的な話なんですか?」
「そうだよ。電気代がかかるから本当は月に一度なんだけど、今回は特別だ」
何だそれは。
じゃああのやたらミュージカルがかった身振りは単なる演出なのか。
「金魚屋って妙なとこ現実的ですよね」
「そうかい? かの有名な夢の国ディズニーランドだって夢を見せるための電気代がかかってるよ。その電気代で動くのがアトラクションか葬儀システムかの違いだよ」
別に夢を見ているわけではない。夢が見れるのなら沙耶のあのぼろぼろに腐った身体はもっと美しいはずだ。
沙耶はべちゃべちゃと音を立ててゆっくりと歩いている。走ろうにもその筋肉も頭も無いのだろう。ただお兄様お兄様とぶつぶつ呟いている。
最初は不気味で気持ち悪かったあの姿も、沙耶だと受け入れてしまえば怖い物では――無くはないが、沙耶の皮を被った化け物だと思うことはできなくなっていた。出目金も金魚の一種なんだから見た目が違うだけで嫌ってはいけない、という金魚屋の言葉はそういう意味だったのだろう。
「さあ着いた。やり方を説明しよう」
到着したそこにはいつも通り円柱水槽が聳え立っていた。いつも通りだ。
「沙耶の肉体から出目金を全部取り出したら葬儀システムの電源を入れる。電源はその床にある。それ、そのパネルだよ。そこを踏めばいい。ただ葬儀が終わったかどうかが分かりにくいから金魚鉢を一つ持ってるといい。何しろ葬儀システム入れるとやたらと風が出るんだよ。それで水がぐるぐる回っちゃうんだけど、逆に水が止まったら終わりっていう目安だ。ああ、システムの仕組みは僕もよく分からないから聞かないでくれよ。僕が作ったわけじゃないからね」
電源だというパネルは以前弔いの時に女が立っていた場所だ。
これだけなのか。
あの金魚鉢が特殊な物だとかこの女の特殊能力とか、そういうファンタジックな超常現象かと思っていた。魂だという金魚にはひどく不釣り合いで、俺は何が非現実なのかの境目が分からなくなってきていた。
「弔いと断罪のどっちをやるんですか? できれば断罪は、あれは……」
「そんなのどっちでも同じだよ。断罪は実体を持った出目金の肉が引っぺがされてるだけで葬儀システムは同じ事をしてるんだ」
「でも輪廻転生するかしないかって違うじゃないですか」
「だから、それは葬儀後の話だよ。金魚屋がやるのは葬儀自体で、この子は金魚でした、この子は出目金でした、って印をつけるだけなんだ。その後の行方は閻魔様とかそういう連中がやるんじゃないのかい?」
「ああそう……」
「そう。だから断罪が嫌なら君があの沙耶の肉体を壊さないといけない」
「それはどうやるんですか? 死んでるんだし、刺せばいいわけじゃないでしょう?」
俺は妙に冷静だった。殺そうというのにとても冷静だった。
「簡単だよ。沙耶の体内にある出目金を全部取り出せばいい」
「沙耶の身体を千切ればいいんですね」
「そうだよ。できるかい? ほら、来たよ」
のろのろと歩いていた沙耶は、もうすぐ目の前にいた。
「オにいサま」
――沙耶だ。これは沙耶だ。
「沙耶。おいで」
俺は沙耶が近づいて来るのを待った。
いつもは沙耶が待つ方だった。
病院で寝てるか俺におぶられるしかできなかった沙耶が歩いて近づいて来た。
「オにいサま」
沙耶は殆ど骨になっている手を俺に伸ばしてきた。きっと出目金の本能に従ってこのまま俺を食べようとしてるのだろう。
ああ、ほら見ろ。齧られた。
沙耶は俺の首筋に齧りついて、けど既に顎の肉が無い沙耶は噛み切れないようだった。がりがりと爪を立てて俺の背中を引っかいているが、それもくすぐったいだけだ。
俺は心中した時ぶりに沙耶を抱きしめた。
あの時も痩せこけて骨ばった身体だったが今度はまさに骨だ。抱き心地はかなり悪い。
「……お前さえいなけりゃって思ってよ。だからお前を助けなかった」
俺は沙耶の首の後ろに右手を突っ込んだ。その肉を引きちぎるとそれは出目金だった。びちびちと動いているそれを放り捨てる。
「自由を奪うお前が邪魔だった。だから」
今度は肩甲骨の下あたりに左手を突っ込んだ。そこにはうごうごと何匹もの出目金が蠢いていた。
一匹、二匹、三匹、四匹、五匹、六匹、七匹、八匹――……手探りで掴める限り全て取り出した。すると沙耶の右半身は大きく穴が開き、下半身がだらりと骨だけでなんとか繋がっているだけになった。
「お前を愛しているうちにお前と死にたかったんだ」
脇腹辺りの出目金を全て取り払うと、沙耶はもう体を保てず床に転がった。それはもう七割骨だった。肉はほとんどが出目金だったのだ。これが崖から落ちた沙耶の現状なのだろう。顔だけじゃ誰だかも分からない。金魚のようなワンピースだけが沙耶の証だった。
俺は沙耶の心臓に手を当てた。心臓があった場所から巨大な出目金を掴み出すと、沙耶は完全に動かなくなった。
だけど沙耶は最初から死んでいた。今ここで殺したわけじゃない。
女は沙耶の身体から骨をひと欠片摘まむとそれを大きな金魚鉢に入れ、部屋の隅に置いてある小さな机に乗っているノートパソコンを起動させた。そして金魚鉢とパソコンをUSBケーブルで繋ぐ。金魚鉢の分厚い底には幾つか穴が空いていて、それはHDMIやSDカードスロットだった。女はカチカチと素早いタイピングでキーボードを打ち続けた。それは着物姿には似合わず、一分間で三百文字は打っていそうなスピードだ。
ピピッという音を聞いてから外付けのカードリーダースロットに金魚の模様が描かれたカードを差し込んだ。作業を追えたらしい女に、いいよ、と合図され、俺はほとんど骨しかない沙耶の身体を部屋の中心部に置いた。
そして女はその金魚鉢を俺に差し出し、ほら、とにっこり微笑みかけてくれた。
「さあ。沙耶を弔っておあげ」
葬儀はシステムで動的に行われると言っていた。まさかパソコンで準備されたこれが沙耶なのだろうか。なんと無機質な事か。
俺はなみなみと水の注がれた金魚鉢を受け取って、しかしそれはあまりにも重くてあわや落としそうになってしまう。
「それが命の重みだと思うがいいだろう。良い記念になる」
俺には女の謎かけのような話は分からない。感性が違いすぎる。けど俺は金魚鉢を抱きかかえ、葬儀システムとやらの電源パネルをじっと見降ろした。光り輝いているわけでも美しい模様が彫られているわけでもない。他のタイルと材質が違うだけで、全てを終わりにするにしては何とも質素なものだ。
「そこを踏んでごらん。カチッとへこむからね。それで終わるよ。さあさあ」
早くお風呂に入りなさい、程度のノリだ。きっとこれは金魚屋にとって特別な事ではない単なる仕事だ。葬儀はシステムで動的に行われるのだ。
「そんなに気負う事はない。大丈夫。痛くも痒くもないよ。風が吹くから寒いかもね」
特別な事ではないのだ。人はいずれ死ぬものなのだから。ただちょっと普通の人より長く動けただけだ。だからこうして俺の手で葬儀を行える。
俺は葬儀システムの電源パネルに足を乗せた。特別な事は何もない。ただ少しだけ力を入れるとカチッと音がした。
すると、フイイイイイ、と換気扇が回るような音がした。どこからか風が吹いてきて、それが円柱水槽の中で竜巻になっていく。
風はぐるぐると俺の身体も取り囲む。
ぐるぐる
ぐるぐる
ぐるぐる
ぐるぐる
ぐるぐる
沙耶だったそれの中に残されていた出目金はその渦に呑み込まれて姿を消した。そしてその水がぱたたと俺の顔に飛んできたが、それは水ではなく血だった。それが沙耶の血かどうか俺にはもう分からない。
「沙耶、俺は生きるよ」
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