第八話 沙耶の遺した想い(一)

 ひどく疲れた。女のミュージカルに体力と気力を根こそぎ奪い取られ、いつものように水槽の上で眠っていた。

 するとガシャンとガラスが割れる大きな音がして目が覚めた。どうやら外で何かあったようで、金魚屋の姉弟がうずくまっていた。


「何かあったんですか?」

「いやいや困ってしまったよ。隠しておいた出目金が食べられてしまった」

「た、食べ、た、んですか? 誰が?」

「それは犯人に聞こうか」

「犯人って……」


 女は弟を背に庇うようにして立ち上がり、にやりと不気味な笑みを浮かべて道路の方を見て指さした。そこには道路脇に四つん這いで蹲っている沙耶がいた。


「おニイさマ……おにいサま……」


 沙耶はぐにゃりと首を曲げて頭をふらふらとさせていた。それだけじゃない。両腕の肘から先の肉が無くなり骨が見えていて、ワンピースから見えている足は半分以上肉が無くなり、わずかに繋がっている肉片がぶらぶらと揺れていた。ぐちゃぐちゃと音をさせながら咀嚼していた何かをごくりと飲み込むと、手に持っていた出目金に齧り付きむしゃむしゃと食べ始めた。地べたに這いつくばってる沙耶の視界に俺は映っていないのに、沙耶はお兄様、お兄様、と繰り返していた。まるで貪り食っているのが俺であるかのように見えて、俺は吐き気を催して座り込んだ。


「おやおや。どうしたんだい? 君の大切な沙耶じゃないか」

「あれが沙耶だっていうのか⁉」

「そうだよ。ほらごらん。肉が足りないから出目金で補ってるんだよ」

「そ、そんな……沙耶、嘘だよな……」

「おニイさマ、さやヲアイしているなラ、いっしょニ、キて……オニいさま……」


 沙耶は俺を見ていない。見ているのは食べている出目金でそれは俺じゃない。それでも沙耶はお兄様お兄様と呟きながら、肉厚の出目金に齧り付いてその肉を引き千切り、びしゃびしゃと飛び散る血をじゅるじゅると音を立てて吸い上げている。とても人間の取る行動じゃない。あんなのはもう。


「沙耶じゃない! 沙耶がこんな事するわけない! あれは沙耶じゃない!」

「およしよ。出目金だって金魚の一種だ。見た目で嫌ったりしては悲しむよ」

「人間じゃない! 沙耶じゃない!」

「あの子は沙耶だ。まぎれもなく君の妹だ」


 女はぎろりと俺を睨みつけると、すたすたと沙耶の顔をしたそれに寄り添った。自分の弟と同じように優しく抱きしめ、よしよしと頭を撫でてやっていた。


「だからおよしと言ったのに。本当に沙耶ではなくなってしまうよ」

「おニイ、さ、マ」


 沙耶の顔をしたそれは、あろう事か金魚屋の女にがぶりと噛り付いた。持っていた出目金を食べつくしてしまったようだった。女は少しだけ顔を歪ませたけれど、それでもよしよしと撫でてやっていた。沙耶の顔をしたそれを抱きしめると、女は手招きをした。


「おいで。沙耶である間に君の手で断罪してあげよう。そうすれば魂だけは救われ」

「嫌だ! できない! 俺にはできない!」

「じゃあ殺されてあげるかい? そうなったら彼女は本当に一人だ。迎えに来てくれる君がいないと永遠に」

「できない! 嫌だ!」


 沙耶だとか沙耶じゃないとかそんな事はどうでもいい。俺はその化け物をどこかにやってほしかった。ただただ気持ち悪かった。


「オにいさマ、ドウシたの? これかラはフタリキりでいらレるノよ」


 映画やゲームでよく見るゾンビが実在したらきっとこれの事を言う。目は虚ろで視線はどこを見ているのか分からずただを求めて手をかき回す。かき回す振動で腕の肉がぼとりぼとりと落ちていく。血に染まるそれはまさしく金魚だ。


「イきまショう、おニイさマ」

「く、来るな……」

「オニいさマ」

「うわああ!」


 鯉が餌を求めるように口をぱくぱくとさせてる様子を見ると、沙耶にとって俺はもはや餌でしかないように見えた。

 沙耶は俺に向かって駆け寄って来て俺の首に食いつこうとした。恐怖のあまり動けなくなって、もう駄目かと思ったその瞬間沙耶ががくりと倒れて地面に叩きつけられた。


「弟⁉」


 俺を助けてくれたのは金魚屋の女ではなくまたもその弟の方だった。体当たりをして沙耶を吹っ飛ばすと俺の前に立ちはだかってくれた。こんな化け物にも臆さず立ち向かっていくのはさすが金魚屋か。

 弟はぎりぎりと歯ぎしりをしながら、手には鈍器となる大きな金魚鉢を抱えている。あれで殴られたら骨も肉もボロボロのゾンビはひとたまりもないだろう。

 自分より十歳以上は下であろう子に守られるのを情けないと思う事すらできずに呆けてると、金魚屋の女がしゃがみ込み、手は差し伸べずに俺の顔を覗き込んだ。


「どうして沙耶が出目金になったか分かるかい? それとも本当に分からないのかい?」

「分からないですよ! 愛しているのに殺そうとするなんて分かるわけない!」

「そう。じゃあ良い物をあげよう」


 金魚屋の女は相当がっかりしたようで、顔が地面と平行になるほど首を曲げて肩を落としてこれ見よがしにため息をついた。けど、俺はそれを不愉快に思う事すら忘れた。それほどまでに金魚屋の女が差し出した物は俺の全意識を奪った。


「沙耶から遺書を預かっているよ」


 それは『北条大学付属病院』と書かれた、沙耶が入院していた病院備品の封筒だった。

 女は封筒から薄っぺらい紙を取り出して読み上げた。


 『私は後一年しか生きられません。両親は死にました。お金もありません。

  兄からもう死ぬしかないから一緒に死のうと持ち掛けられました。どうしてでしょうか。たとえ一年でも私は生きたい。

  でも私は兄に殺されます。私が死んで兄だけが生きていたらそれは殺人です。

  宮村夏生を捕まえて下さい。』


 そこに綴られていたのは沙耶から俺に向けられた憎しみだった。


「なん、だよ、これ……」

「沙耶の本音さ」

「うううう嘘だ! 嘘だ!!」

「どうして? 君だって沙耶を憎んでしたじゃないか。今だってほら、殺しに来た妹から逃れるために妹を殺」

「違うって言ってるだろ! 沙耶が俺を、そんな、沙耶だって、残されるくらいなら一緒に死ぬってそう言ったんだ! 大体何が遺書だ! そんなのお前が作った偽物だろ! 沙耶はそんなこと言わない!」

「そうかな。とても人間味があって信じられるけど。だって君は沙耶を崖から落として殺したんだろう?」

「違う! あいつは自分から落ちたんだ! 俺を残して一人で落ちたんだ!」

「ふうん。じゃあやっぱり君はぼ~~~~~~~っと見てたんだね」

「あっ……!」


 頭が真っ白だった。

 俺は女の真っ直ぐな目と向き合うことができなくて、まるで当てもなく揺らめく金魚のように目を泳がせた。

 コツン、と女は俺に近づいて来た。


「君は沙耶が憎いんだね。君一人を苦しい現世に残し解放された沙耶が」


 コツン、と女は俺に近づいて来た。


「沙耶が死んでも君の苦しみは終わらない。でも沙耶は終わった。沙耶はもう苦しみから解放された」


 コツン、と女は俺に近づいて来た。


「でも君は生きている」


 コツン、と女は俺に近づいて来た。

 そして俺の胸倉を掴んで壁に押し付けた。


「君は本当に一緒に死ぬつもりだったね」


 ああ、そうだ。そうだった。覚えてる。

 俺は見てた。沙耶が落ちていくのを崖の上から見ていた。


「……そうだ。沙耶は俺を崖の上に突き飛ばしたんだ。俺だけ残して逝ったんだ!」

「そうだね。それでも後追い自殺をしないのは沙耶の遺言を守りたいからだね」

「あ、あ……」


 俺は沙耶が落ちるのを見ていた。沙耶が小さく唇を動かしているのも見ていた。

 沙耶は『生きて』と言っていたんだ。


「っ、な、何で! 何で俺だけっ! いつも俺だけ……!」

「沙耶はそれを悔いているんだ。親と同じように、君だけは生きてほしいという勝手な願いを押し付けたことを。それが沙耶の未練。だから」


 女は俺から離れると、宙に浮いている金魚を撫でるように手を添えた。


「だから沙耶は僕に依頼をした。君の出目金を弔ってくれと」

「俺の? 何だよそれ。俺は死んでない」

「君はどうして僕の店に来たんだい?」

「どうって、沙耶、ええと、あいつがここに来たから……」

「そう。あの子は君を助けるために、君を僕の所へ案内したんだ」

「沙耶が……?」

「金魚とは魂。魂とは何を指すと思う? 肉体の反対だ」

「未練とか恨みだから、心、とか……」

「そう。人の想いだね。つまり人間が生きてる限り金魚は人間の中にいるのさ。肉体が死ねば最後の金魚が表に出てくるというだけで生者の中にこそ金魚は生きている」

「じゃあ俺の出目金を弔うってのは」

「出目金とはすなわち妄執。沙耶への愛と憎しみに囚われた負の連鎖を弔い、君の生に光を与えよう」


 沙耶の身体から出目金が落ちていく。

 ぼとぼと、音を立てて。

 その姿はもう人ではない。


「沙耶から一つ頼まれている。沙耶は僕にこう頼んだんだ」


『お兄様が沙耶を怖がるようにして下さい。沙耶は殺さなきゃいけない化け物だって。沙耶がいなくなって清々したって笑えるようにして下さい』


「笑えるように⁉ な、何で、何だよそれ! あんた、何で沙耶を止めなかったんだよ!」

「僕の仕事は金魚を弔う事だよ。価値観の違いや手段の是正なんてしない。正義なんて人それぞれだ。でも沙耶は自ら出目金になる事を選んだんだ。それがあの子の正義でそれこそがあの子の願い。でもね、君は沙耶を犠牲にしていいのかい? それで君は幸せになれるのかい?」


 沙耶の身体からぼとりぼとりと、肉だか出目金だか分からない何かが落ちていく。

 あれは沙耶だろうか。かつて沙耶ではあったかも知れないけど、もう何か別の生き物と思って良いのだろうか。


「俺は……」


 幸せとは何だろうか。


「分からない。俺は何をしたらいいんだ」

「それは君が決めるんだよ」

「分からない! だってあれは沙耶だ! どんな姿をしてても俺の妹なんだ!」


 女はふう、と小さくため息を吐いた。


「僕の弟、君にあの子はどう見える?」

「何ですかいきなり」

「不思議じゃないかい? 触れないはずの金魚をあの子は手で掴む。素手でだ」


 思い返せば弟は素手で赤い金魚を捕まえていた。出目金に襲われた時にいた金魚も断罪の時に出目金の腹から出て来た金魚も。素手で掴んで金魚鉢に放り込んでいた。

 人間では触れられない金魚をだ。


「まさか」

「あの子は金魚。金魚を食って生きる金魚」

「は⁉」

「あの子は帰って来てくれたんだ。あの子の死を受け入れられなかった僕の元に。そしてその時から僕はあの子に憑かれている。だから僕は金魚が見えるんだ」

「金魚屋は金魚がみえるもんじゃないのか」

「違うよ。金魚屋は弔うだけ。見える必要などない。決まった時間に決まった場所で弔いだけすればいいんだ」


 女は苦しそうな顔をして弟を見た。いつもの芝居じみた語りではなく、初めて人間らしい顔を見せた。

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