第九話 二千七百万円の光
「さあさあこれで葬儀は終わりだ。やあやあ素晴らしい」
「床を踏むだけの何が素晴らしいんですか」
「ふふ。違うよ」
女はつんっと俺の身体の中心を突き、にやりと笑う。
「君の出目金もいなくなったようだね」
「あ……」
俺の出目金。
それは愛する沙耶を憎み、自らを内から喰い尽くしてしまう妄執の権化だ。
「君は沙耶が邪魔だったかい?」
「はい」
「君は沙耶を追って死にたいかい?」
「いいえ」
「沙耶がいなくなって清々したかい?」
「……分かりません。でも沙耶が生かしてくれたから俺は生きます」
「そうだね。君の罪を裁く権利を持つ沙耶は君を赦してる」
ふふふと女は愉快そうに笑うと、弟を抱き上げ大切な宝物を扱うように優しく頬を合わせた。女の弟は表情を変えないけれど、きゅっと女を抱きしめ返した。何の感情も無く、ただ生き延びるために媚びを売っているだけだとしても女はとても愛おしそうに微笑んでいる。
「僕の請けた依頼はこれで完了だ」
女は羽織っていたストールを脱いで沙耶の遺体、残されたわずかな骨の横に膝を着くと手を合わせ黙祷し祈りを捧げてくれた。俺はそれがあまりにも非日常に見えて何だか芝居を見ている気分だった。
「沙耶は連れて帰ってもいいですか」
「もちろんだとも。きちんと葬儀を上げておやり。それがせめてもの罪滅ぼしになるだろう。ああ、そうそう。あの遺書は偽造だよ。僕が作ったんだ。安心おし」
偽造だけれど、文面を考えたのはきっと沙耶だ。俺が沙耶を鬱陶しく思う時があったように、沙耶にもきっとあったはずだ。大学にいる間は苦しみから解放されていたのは事実だし、そんな大学に通ってバイトをする俺を疎ましく思って当然だ。
「その偽造遺書貰ってもいいですか?」
「こんなのをかい? いいけど、どうするんだいこんなの」
「戒め」
きっとこの女は優しいのだろう。その優しさを思えば、それ以上は言ってはいけないのだと思う。
女は沙耶の遺体を丁寧に布でくるみ、そのわずかに残った骨と肉片を大きな箱に納めてくれた。
「聞いてもいいですか?」
「返答できるかは確約しないけどどうぞ」
「いつから金魚屋をやってるんですか?」
「さてね。もう忘れてしまったよ。ただこの建物は大正時代から変わっていない」
「そうですか……」
そして、女はまた大量のタッパーに手作り料理を詰めてくれた。それはひどく非現実的に感じられた。
そして翌日、警察から連絡があった。沙耶のワンピースが見つかったと言うのだ。警察へ行くと確かにそれは沙耶のワンピースだった。けどやはり遺体は見つからなかったらしい。警察は捜査可能期間が今日までだと教えてくれて、優し気な顔をした警察官は申し訳ないと深々と頭を下げてくれた。
この警察官は最初に俺の事情聴取をした警察官だろうか。当初の俺は大暴れして取り押さえられたのを覚えている。そんな俺があっさりと引き下がり頭まで下げたのが意外だったのか、何故か彼の方が泣きそうな顔をしていた。優しい人だ。
警察での話が終わると、俺の日常における沙耶との心中事件は一件落着とされた。俺も明日からは大学へ行ってバイトをする日常に戻っていく。
だがその前に女へ礼を言わねばならない。俺は金魚屋へ向かった。街から離れて一時間は少し遠いけれど、すっかり慣れた道のりを歩く足取りは軽い。
そして見えてきたいつもの金魚屋に入店すると、どういうわけかそこはいつものガラガラの店内ではなくぎっちりと満席だった。まさか繁忙期とはこんな状態なのか。
それにしても多い。これなら接客係りが必要なのも頷ける。俺は慌てて女を探したけれどどこにもいなくて、その代わりに見たことの無い洋装の店員が五、六名ほどが働いている。俺以外にもバイトを雇ったのだろうか。
「いらっしゃいませ。一名様ですか?」
「いえ。いつもの女性います? 金魚屋の」
「金魚屋? 当店は『Cafe Chat Noir』ですが」
「え?」
俺は慌てて外に出ると、建物は確かに金魚屋だが黒猫がデザインされたオシャレな看板が立っている。金魚屋だったのにどうしてか黒猫が。
「ここって今日オープンですか?」
「いいえ、先週オープンですよ」
先週といえば、俺が金魚屋に辿り着いた頃だ。喫茶店内をあちこち見させてもらたたけれど、やはり金魚一匹いなかった。呆然と立ち尽くしていると、ふと金魚屋との会話を思い出した。金魚屋は金魚に憑かれた人しか辿り着けないと、そんな事を言っていた。
「もしかして
金魚の弔いは終わった。女も依頼終了だと言っていた。あの後金魚屋から外に出た時点で俺と金魚屋の縁は切れていたのだ。
「そんな……」
女の芝居じみた話し方を俺はまだ今この時にも思い出せる。まさかこんな何も無かったかのように終わるなんて信じられない。あまりの何も無さに混乱していると、とんとん、と肩を叩かれた。女が戻ってきたのかと勢いよく振り返ると、残念ながらそこにいたのは女ではなく弟だった。
「弟! よかった。姉さんどこだ?」
俺は焦って声を荒げたけれど少年は驚く事も困る事もなく、いつも通り無表情のまますいっと封筒を差し出してきた。和紙でできている古めかしい封筒はいかにもあの女が持っていて似合う儚げな物だった。いそいそと封筒を開けると、中には封筒と揃いの紙にたった二行の短い言葉が綴られていた。
『バイト代は振り込んでおいたよ』
まさかの業務連絡だった。期待していた言葉は何一つ書かれていない。
「……なあ。姉さんどこにいるんだよ。さすがにこれじゃちょっと」
そう声をかけたけれど、弟は答えてはくれなかった。それどころか俺から逃げるように走り出し、ぴょんとジャンプすると着物をまるで金魚のヒレのように動かしてふわりと宙に浮いた。
「は⁉」
俺の声には何一つ答えてくれず、そのままふよふよとどこかへ行ってしまった。
「そっか。金魚なんだっけ……飛ぶよな、そりゃ……」
空を飛ばれては追いかける事などできるわけもなく、全ての手掛かりを失くした俺は金魚屋が存在した唯一の証拠である手紙を持って銀行へ行った。
バイト代をどうするかなどきちんと書面で詰めたわけではないのに良いのだろうか。しかし他のバイトを辞めてる以上生活資金は必要だ。心苦しさと有難さと、同時に何故あんな羽振りが良いのかの疑問はあったがとりあえず残高確認をする。
すると、そこに表示されたのは見たことも無い金額だった。
「二千七百万円⁉」
わずか数日のバイト代で得る額じゃない。一体どういう金額で計算されているのか。
「インセンティブとか言ってたっけ」
確実に冗談だと流したけれど、あれはまさか本気だったのか。この額はインセンティブとやらが付いたのか。こんなのアフターケアが良いどころの話ではない。果たして本当に手を付けて良い金なのだろうか。まさか俺の人生に光を与えるとは金銭的になのか。
まるで狐につままれたような気分だが、通帳に記載された振り込み人名『キンギョヤ』は、手紙と合わせてこの数日間が現実だったことの物的証拠になった。もしや調べればどこかにちゃんと姉弟の家がどこかにあるのだろうか。警察に聞けば調べてくれたりするのではないかと思い立ち上がったが、そうはいかなかった。
「名前知らねーな……」
女も弟も、一度も名乗らなかった。
俺はがっくりと座り込んだが、けれど名乗らなかったのは名乗ったら突き止められる可能性があるからではないのだろうか。
ふとあの芝居がかった会話を思い出す。
『ようこそ金魚屋へ。君が来るのを待っていたよ』
あれは、金魚がいないなら来るなという事なのだろう。俺は
ただ分かることは、俺の視界に金魚はもういないという事実だけだ。
「沙耶の仏壇揃えなきゃな」
ついでに両親のも。
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