第十二話 出目金の兄を持つ金魚の桜子
ぶるりと震えて目が覚めるとそこは金魚屋だった。お喋りをしろと言われて喋っていたら、いつの間にか寝落ちしてたようだ。水槽の上で寝たら寒いに決まってる。
俺が小さくくしゃみをすると、いつもの何匹かが心配そうな顔をして寄って来た。すっかり懐いてくれたようだ。
「お前はいつも俺のとこに来てくれるな」
この桜色をした五センチメートルほどの金魚はいつも水槽の壁あたりにいて、俺が水槽に近付くとすぐに寄ってくる。柔らかく微笑む子で、ゆったりとした動きに俺は癒されていた。餌でも上げられたらいいのだが、魂というだけあって何かを食べる様子はない。
「お前なんて名前なんだろうな。俺は夏生っていうんだよ。分かるか?」
水槽に鏡文字で『なつき』と書いてみたけれど伝わっただろうか。金魚は嬉しそうな顔でくるくると踊っている。
「分かったのかな。お前も書いてみろよ。壁伝いに動いて」
「お止め」
金魚と戯れていると、一体いつ来たのか女が俺の手を掴んで水槽から引っぺがされた。急に引っ張られたものだから転ぶように立ち上がる。
「何ですか」
「金魚に名前を聞いてはいけないよ。教えてもいけない」
「何でですか? こいつ俺の名前分かって」
「いいからお止め」
女は俺の手を掴んだまま水槽に近付くと、ガァンと水槽を強く叩いた。それはまるで店内が震えるようで、金魚達はさぁっと壁から離れて行ってしまう。怯えたのか混乱したのか、密集して固まったり壁にへばりついたりしていつものように泳いではくれなかった。
「何するんですか! 楽しくお喋りしてるだけですよ!」
「楽しいだけなら構わないけれど特定の金魚に入れ込んではいけないよ」
「弔われるまでの短い間くらい幸せに過ごす事のどこが悪いって言うんですか!」
「何でもだよ。駄目なものは駄目」
女はつんっと首を振り、次やったら給料無しだ、と言ってまたどこかへ消えていった。
怖い人間がいなくなったら金魚達はようやくいつものように泳ぎ出し、小さい子達は慰め合うように身を寄せ合っている。こんな風に怯えさせる意味があるのだろうか。
楽しく過ごさせてやりたいだけなのに、何故それが駄目だというのか。
「何でお喋り係りになんてしたんだよ……」
それから俺は金魚屋に寝泊まりするようになっていた。別に女が何かすると思っているわけではないが、あんな風に怯えたままの金魚達を放ってはおけなかった。
「ごめんな。俺のせいで怖い思いさせて」
すっかりこちらに寄って来なくなった金魚もいて何だか寂しい。いつもの顔触れは変わらずに寄ってきてくれていたけれど、俺の名前を覚えてくれた桜色の金魚はいなかった。ここの水槽は全て繋がっているから他の場所へ行って隠れているのかもしれない。
せめて掃除でもしようと掃除用具を取り出し水槽へ戻ると、金魚屋の弟が水槽にへばりついていた。
「おい。食うなよ」
取り出しようはないだろうけれど一応。何かあってもいけないし、俺は念のため弟を抱き上げた。正体は金魚というからには重量が無いのかと思ったらそうでもなかった。しっかりと子供分の重さがあり温かい。本当に生きているみたいだ。
しかし少年は俺の襟をくいっと引いて水槽を指差した。やはり食べたいのだろうか。とてもどうぞとは言えないがどうしたものか。
とりあえず女の所へ連れて行こうかと水槽に背を向けたが、不意に弟が俺の服を引っ張った。そして。
「桜子」
「……え⁉」
俺は思わず足を止めた。喋った。今まで一言も喋った事の無かった弟が。
「喋れるのかお前! 誰だよ桜子って! あ、姉さん⁉ それは俺じゃなくて本人に聞かせてやれよ! 行くぞ!」
「桜子」
俺は急いで連れて行こうと思ったけれど、弟はふわりと浮いて俺の腕から逃げてしまった。そうだった。飛ぶんだこいつは。
「どうしたんだよ。姉さんとこ行くぞ」
俺は少年の腕を掴んだけれど、何故か水槽にべったりとへばりついて動こうとしない。
「これ桜子」
「え?」
少年はつんつんと水槽を指差した。そこには桃色の小さな金魚が泳いでいる。これが桜子だと言っているのだろうか。
「……桜子の前に聞いていいか? 俺の言葉は通じてる?」
今度は何も言わず頷きもしなかった。どういう事なのか。桜子に以外のことは喋らないという事だろうか。
「えーっと、そいつと友達なの?」
弟は人間の姿をしていても金魚だ。この金魚は金魚の姿をしていても人間だ。つまりこの二人は同じ状態にいるようなものなのだ。もしかしたら金魚間テレパシーでもあるのかもしれない。
弟が指差す桃色金魚を覗き込んで見ると、ふと気が付いた。
「あ、もしかして好きな子?」
少年はぴくりと揺れた。けれど不満そうな顔をしてじいっと俺を睨んでくる。
「何だよ。教えろよ」
だがやはり弟は何も言ってくれない。くそう。仲良くなれそうだったのに。
それでも弟は桜子の傍から離れようとしないが、一体俺はどうしたらいいのか。何となく弟と一緒に水槽を覗き込んだ。
「桜子だっけか」
『はいっ』
「ん?」
会話のできない金魚しかいない店内に女の子の声が響いた。金魚屋の女よりも高くか細い声で、どこから聞こえてきているのかも分からない。空耳だろうか。
『なつきさん』
いや、いる。誰かが呼んでる。でも店内には誰もいないし、いるのは弟だけだ。女の子なんていない。まさか幽霊か。いや、金魚がいるんだから幽霊も何もない。
じゃあ一体これは――
『なつきさん。こっちです。水槽です。桜子です』
「え⁉」
俺はべたりと水槽に張り付いた。桜子に変わったところは見られないが、確かに声が聞こえてくる。
「お前喋れるの⁉」
『誰でもというわけじゃないんですけど。特別です』
桜子はえへへ、と照れ臭そうに笑うとくるくると旋回した。表情豊かだとは思っていたがまさか喋り出すとは。
しかしここで俺は漸く気が付いた。俺は金魚に憑かれている。理由は未練があるからだろうが、その未練が俺自身に対してとは限らない。未練があって、それを果たすために俺を利用している可能性もある。
そういえば俺をここへ案内したのは桜色の金魚だった。きっと俺に憑いているのはこいつだ。
「俺に何か用なの?」
『はい。お願いがあるんです』
「俺にできる範囲ならいいけど。何?」
『あの、お兄ちゃまを助けて欲しいんです!』
「兄貴?」
『はい。私腎臓の病気だったんです。お母ちゃまは死んじゃって、お父ちゃまはお仕事でずっといなくて。だからお兄ちゃまがずうっと一緒にいてくれたんです』
病気で死んだ妹とそれを気に病む兄とは、それはどこかで聞いた覚えのある関係だ。俺は床に座って桜子の水槽に寄り掛かった。
『生まれてからずっと具合悪かったんですけど、手術うまくいかなくて死んじゃったんです。だからきっとお兄ちゃん気にしてるだろうなと思ってたんですけど……』
しゅんと桜子が小さな体で俯いたのが分かった。そして、この話の先も俺に助けを求めた理由も分かってしまった。
「兄貴が出目金飼ってる、とか?」
『はい……』
それはそうだろう。俺とは少し違うけど、自分の選択で妹が死んだのなら出目金にならない方がおかしい。
『夏生さんの中にも出目金がいるの見えてました。でも沙耶ちゃんとお話して消えたからもしかしたらって……』
それで助けて欲しいという事か。だが二つ返事で引き受けられない。俺の出目金が消えたのはほとんど沙耶のおかげで俺の努力ではない。無関係な俺が、一体何をすれば出目金を消してやれるのだろう。仮に兄貴をここに連れて来て出目金の断罪をしたとしても、それは生者の魂を削るという事だ。既に死んでいた沙耶とはその意味が違う。仮に断罪できても、心が生み出すのだからそのうちまた出てくるのではないだろうか。生者の出目金は断罪すればいいわけじゃない気がした。
それに俺と沙耶は穏やかに話し合いをして解決したわけじゃない。沙耶が自分が人である事を捨てて助けてくれたのだ。それを桜子に求める事はできない。
それに身の安全の問題もある。弟がいなければ俺はとっくに出目金に殺されていただろう。出目金を相手にするのは俺にとってはリスクが大きい。かと言ってことで突き放せるほど人でなしでもない。
「分かった。金魚屋に相談してみよう」
『は、はい! 有難う御座います!』
金魚の事は金魚屋だ。俺は弟を連れて金魚屋の女に相談をしてみたのだが。
「駄目だね」
そんな気はしていた。
「けど俺みたいになる前にどうにかしてやりたいんです。そうすれば」
「あのねえ君ねえ沙耶もだけどねえ! 金魚屋は便利屋じゃなくて葬儀屋なんだよ! 勝手な事をするでない!」
「俺の時は色々してくれたじゃないですか」
「あれは沙耶が頑張ったんであって僕は口を動かしただけさ。僕だって可愛い弟がいるからその気持ちは分からんでもない。だから個人的にちょこっと手を貸したに過ぎないんだよ。でもあの子はぼんやりと水槽に守られたまま大変で危険なとこはまるっとぜぇんぶ君にどうにかしてもらおうって言うんだろう?なんて図々しいんだ。駄目に決まっているだろう。駄目だ駄目だあ!」
それはそうだがそこまで言わなくても。
女は鼻息荒く地団駄を踏み、ぺんぺんと俺の頭を叩いた。
「とにかく駄目だ。君はもう金魚とのお喋りは禁止だ。金魚鉢でも洗っておいで」
「うげっ」
大きな金魚鉢をどかどかと押し付けられ、転ばないように慌てて抱え込んだ。女は弟を抱き上げると、お前も勝手な事をするんじゃないよ、と軽く叱った。俺を桜子問題に巻き込んだのは弟だぞ。何だこの扱いの差は。
……まあ弟が可愛いのは分かるが。
「てなわけで、ごめんな。金魚屋の手は借りれなそうだ」
『そうですか……』
「あ、でも見に行くくらいは出来るから。苗字は? 住所とか教え」
「駄目だと言ったはずだぁよ」
ゴンっと金魚鉢で後頭部を殴られた。しかも水が入っていたので零れて来た。もう少し穏やかに登場できないのか、この女は。
けれど相当怒っているようで、頬をぎゅむむむと強く引っ張っりながら出入り口までずるずると引きずられた。
「金魚とのお喋りは禁止と言ったはずだよ」
「けど可哀そうじゃないですか」
「駄目駄目。金魚のプライベートに関わるのは禁止だよ」
「けど」
「ああああもうもう! 駄目と言ったら駄目なんだよ! もう出禁だぁ!」
「あー!」
俺は店の外に捨てられた。
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