第十一話 金魚屋のアルバイト復職

 久しぶりに金魚屋の中に入ると、本棚や食器棚などのインテリアが増えていた。机と椅子も増えていたし食器類も増えている。本格的にカフェを始めるのだろうか。だが入れてくれたコーヒーはインスタントで、温くて苦くて粉がそのまま浮いている。


「せめて混ぜてくださいよ」

「ばぁか! 粉が溶ける前に飲めるかが勝負なんじゃあないか! 負け戦でどうする!」

「そんな戦いはいりませんよ」

「うるさいね君は。大体なぁんで君が来るんだい。沙耶はもういないよ」

「それは俺にも分からないんですけど。あなたが呼んだんじゃないんですか?」

「金魚屋は人間なんて呼ばないよ。勝手に憑かれて勝手に来るんだ」

「けどまた金魚が見えるんですよ。これ憑かれてますよね」

「だあろうね。君を恨んでる誰かが死んだんじゃないかい?」


 恨まれるほど深い人付き合いなどできていない。むしろ遠巻きに見られているだけだ。

 いや、もしかしたら大学でキレて殴ったあの生徒だろうか。だがあいつは生きてる。歯が折れたとか聞いたけど生きている。


「まあ考えても分からないね。さっさと犯人を見つけておいで」

「見つけてってどうしたらいいんですか。そもそも憑くってどういう事なんです? 金魚が張り付いてるならともかく何にも無い」

「知らん。そんなのあの子に聞いておくれ」


 女はくいっと顎で弟を指した。弟は四六時中姉の傍にいるわけじゃない。姉に対して特別変わった行動をするわけでもなくて、ただ一緒に暮らしているだけだ。となると、憑くというのは物理的な行動ではないのだろう。


「つーても金魚絡みなら放っておくわけにもいかない。とりあえずここでバイトするがいいよ。君に恨みがあるなら頼まなくてもあっちからやってくる」

「でも現時点魂減ってるんですよね。先に俺が死んだらどうするんですか」 

「それは無いよ。魂は心だ。生きてる限り人の心は無くならない。食われたって人生を感情豊かに生きてさえいれば心はどんどん生まれるんだ。ただ憑かれる人間はえてして感情の起伏が無く生きる意味を見失ってるケースが多い。だから死んでしまうのであって、言ってみれば結果論なのさ。でも今の君は何だか楽しそうじゃないか」

「友達いなくて寂しいですけど」

「寂しいと感じるのは楽しいと感じる時があるからさ。浮き沈みのある人生を遅れてるのなら魂ひと欠片食われても死にはしない。業を煮やした金魚の方からフラフラとやってくるだろうよ」

「けど出目金て物理的に襲ってくるじゃないですか。あれで死にますよ」


 どちらかというと問題はそっちだ。目を合わせない努力はするが、金魚と違って触れてしまう。もしすれ違いざまにぶつかりでもしたらバレる。


「逃げるのにも限界あるんですよ。てか怖いですし、普通に」

「そうだねえ。それじゃあ君が外を歩く時はこの子を連れて行くといいよ」


 女は足元をちょろちょろ走り回っていた弟をひょいと抱き上げた。弟はじたばたと暴れて必死に戸棚に手を伸ばしている。おやつでも盗み取ろうとする微笑ましい光景に見えるが、弟の取ろうとしてるのは金魚鉢だ。食事をしたばかりだろうと姉に額を小突かれているがほのぼのとは言い難いものがある。

 けど対出目金となれば百人力だ。


「有難いですけど、お前はいいの?」


 弟はいつも無表情で一言も喋らない。自我が無いのなら嫌われているわけでは無いのだろうけれど、それでも不安はある。

 試しに頭を撫でてみようと手を伸ばしたら大人しく撫でられてくれた。それどころかすりすりと頬を摺り寄せてくれた。


「おお……」


 可愛い。

 俺は達成感と感動で震えた。弟は俺を気に入ってくれたのか、姉の手を降りぴょんと俺に飛びついてきた。


「おやおや。人に懐くなんて珍しい事もあるものだ」

「そうなんですか?」

「そうさ。普通は君のように長居しないし何度も来ない。この子と遊ぶほど心の余裕は無いんだよ」


 確かに。という事はこの子も友達がいなくて寂しいのかもしれない。


「よし。じゃあ今日から友達だな。なあ、名前何て言うんだよ」


 だがこれには答えてくれなかった。もう少し仲良くならないと駄目なのか。


「無駄だよ。この子にとって生者は金魚を生み出す自動調理器みたいなものだから」

「あ、そういう……」


 浮かれた自分がちょっと恥ずかしい。けど腕の中にすっぽり収まる様子は沙耶の小さな頃を思い出して悪い気はしなかった。だが。


「とりあえず噛むの止めてくれる?」


 俺は食えないぞ。


 金魚屋のバイトに復帰して二週間ほど経った。四月と五月は繁忙期と言っていたが、確かにちらほらと客が来る。誰も彼もが暗い顔で俯いているのだが、すぐに金魚屋の女が金魚を連れて来て、少し話すと満足げな顔をして帰って行く。そうなると金魚もいつの間にか消えていて、きっとあれは輪廻転生したのだろう。

 だが中には金魚を連れて帰る人間もいる。弔いもせず通いもせず、ふらりと立ち寄って連れて帰ってしまうのだ。


「連れて帰るのは何なんですか?」

「連れて帰るのさ」


 だからそれは一体どういう事なんだと聞いているのだ。金魚を弔うのが仕事なのにああやって連れて行かれたらまた浮遊金魚になってしまったりしないのだろうか。金魚のままという事は未練は解消されていないのだし。


「弔わないでいいんですか?」

「金魚帖から名前が消えているからね」

「消える? まさか人間に戻るんですか?」

「戻らないよ旧ネアンデルタール人。輪廻転生の輪に乗るためには現世を離れる必要があるがその手段は問わないのだよ」

「必ずしも金魚屋で葬儀をするわけじゃないって事ですか?」

「そうだよ。ここに来るのは自力で昇天できない金魚だけだ。金魚屋(ぼくら)はその手伝いをするだけさ」

「じゃあ迎えに来てくれれば本来昇天できた場所に帰れる?」

「そうだね。だから金魚は弔われるまでの間ここで迎えを待っているのさ」

「あ――」


 俺はここに来て最初に言われた歓迎の言葉を思い出した。

『ようこそ金魚屋へ。君が来るのを待っていたよ』

 あれはこの女が俺を待っていたという意味ではなくて、金魚が未練の主を待っていたという意味なのか。


「自力で昇天ってのはどうやるんですか?」

「んあ~! 質問の多い子だねえ。そんなの知らないよ。自力で昇天できた子はここに来ないんだから」


 つまりそれは金魚屋が人間に戻った場面を見た事がないだけで、金魚が人間に戻ってる可能性もあるという事ではないのか。ああやって連れ帰られた後で人間に戻っていたら金魚屋はもう分からない。金魚帖に名前が無ければ関与を許されないし、その必要が無い。金魚屋が必要無い金魚は人間であるはずだ。

 何より気になるのは弟だ。女は自我が無いと言ったが、自我が無いならとっくにどこかへ飛んで行ってる気がする。ここに留まっている時点で彼には自我があるという事だ。

 確かに喋らないし無表情ではあるが、それが異常に感じるのは生前の弟とあまりにも違うからで、だから金魚に支配されたように見えているだけではなかろうか。たまたまその様子が金魚と同じだというだけで、それを除けば仲の良い姉弟に見える。

 この女も金魚について詳しいわけじゃないのかもしれない。言っている事は辻褄が合っているが、それが全てではない気がした。

 ただまあ、事実がどうあれ俺がここで出来るのは入店時の挨拶と座席への案内のみだ。今日は珍しく三人ほど立て続けに訪れて、また一人扉を開けて入って来た。

 

「いらっしゃいませ。当店はインスタントコーヒーしかありませんがよろしいですか」


 嫌味たらしく聞いてみるが答えては貰えない。それはそうだろう。俺もそうだったから気持ちはわかる。ここは無理に突っ込んでも何にもならないので、俺の仕事はこれで言って終わりだ。あとは金魚屋の女が相手をするのだが――


「何だい、いらっしゃいませって」

「え? 喫茶店だし」

「いつから喫茶店になったんだいうちは。金魚屋だと言ったろう」

「最初に喫茶店って言ってましたよ」

「言ってないよ。多分きっとおそらくきっと言ってないね」

「はあ。じゃあそういう事で」

「ほらほらまた一人やって来た。ちゃんと僕がやっているようにやるんだよ」


 接客をしたところなんて見たことがないのに僕がやっているようにとは何だろうか。


「喫茶店を模してもここは金魚屋だ。金魚屋なら金魚屋が伝えるべき言葉があるだろう」


 金魚屋は金魚と生者を繋ぐ場所だ。待っているのは金魚屋ではなく金魚達で、できるのは彼らの気持ちを代弁してやる事だけだ。

 なら伝える事は一つしかない。


「ようこそ金魚屋へ。あなたが来るのをお待ちしていましたよ」


 女性客は一瞬吃驚したような顔をしたけれど、少しだけ微笑んだ。

 なるほど、これか。

 注文を聞いたらコーヒーで、と言ってくれた。柔軟性の高い人だ。この店のコーヒーはあの粉っぽくて不味いコーヒーが出てくるのでお勧めはしないのだが。

 せめて女にやらせず俺がやろうと思ったのだが、既にキッチンで準備をしていた。すまん、客よ。


「ふふん。いいねいいね。執事のようで女の子にウケるんじゃないかい?」

「別にウケる必要ないでしょう」

「無いけど有るに越した事はない! ここで得たものは魂に蓄積され彼らの力になるかもしれないんだ!」

「蓄積って何ですか?」

「それくらい自分で考えたまえアルバイト」


 女は俺にコーヒーを持たせると、ナンパしちゃ駄目だよ、とだけ言ってどこかへ行ってしまった。


 金魚屋の一日来店者数は平均0名、多くて五名。要するに基本誰も来ない。来たとしても俺がやるのは案内だけだからどのみち暇である事には変わりがない。これでバイト代が出るのだから驚きだ。

 今も客は一人もおらず、静まり返った店内にいるのは接客担当の俺と聳え立つ水槽に住む無数の金魚だけである。

 掃除でもしようかと思ったが、何しろ開閉できない巨大水槽なんて掃除のしようがない。じゃあもう水槽を眺めるしかする事はないので試しに何匹いるか数えてみたが、整列してるわけじゃないので無理だった。

 ようするにこのバイトは眠気と戦って一日を終わえるだけだが、決して少なくない時間をここで過ごすうちに分かって来た事がある。いや、気になる事ができたと言った方が正しいか。

 ここには同じ種類の金魚がいない。金魚すくいの金魚はどれも同じ種類だろうけれど、ああいうように同じ種類がいないのだ。色や形、大きさ、泳ぎ方。どれをとっても同じ種類と断定できる共通点は存在しない。

 同じのがいないと分かると同時にもう一つ分かって来た。


「あ、お前また来たな」


 顔が違うのだ。

 全て個性があると分かったら、いつも同じ場所にいる金魚は覚える事ができた。中には俺が近付くと必ず寄ってくる奴もいて、こつこつと水槽を突くと同じだけ突き返してくれたりして、思いの外交流を図れるようになっていた。

 それにどうもこの金魚達は動物の本能で泳いでいるわけではないように見えるのだ。特定の相手と常に一緒にいたり、やたらと水槽の隅にいたりと特定の意図で行動している。ぴったりくっついて離れない大きい金魚と小さい金魚がいるのだが、どうもこれは顔が似ているように見える。大きい方が面倒を見るように常に小さい方を気にしているあたり、もしかしたら親子ではなかろうか。

 金魚の雄と雌の見分け方は分からないが、おそらくあれは父親と娘だ。顔や肉付きで何となく性別が感じられる。


「あ、分かった。兄貴いるだろお前」


 兄妹のような金魚をじいっと見ている金魚がいるが、桜色をしたこの金魚は俺が水槽を突くと近付いて来る金魚のうちの一匹で恐らく女の子だ。

 桜色の金魚はくるくると周り、つんつんと何度も水槽を突いた。


「何? 兄貴と俺が似てるとか?」


 正解かどうかは分からないが、喜んでいるように見える。こんな感じで、意外にも彼らはコミュニケーションが取れるのだ。ただ言葉や表情が分かりにくいだけだ。

 和やかな気分に浸っていると、突如俺の頬を黒い物が掠めた。


「君は一体どんな魔法を使ったんだい?」 

「うわああ!」

「うわあ。いつも元気だね君は」

「だから首から出てこないで下さいって!」


 もっと普通に登場できないのか。女は突き出した首をくりくりと回して、鼻が潰れる距離まで水槽に顔を近づけた。

 しかしさっきまで楽しそうに舞っていた金魚はぴゅうっとどこかへ逃げてしまい、そのまま俺の足元へと寄って来た。このエリアは足元も水槽だ。


「ええ~⁉ 僕が主なのに何だいお前は!」

「いつもいないから誰だか分かって無いんだと思いますよ。犬だって餌をくれる人を主人だと思うっていうし」

「餌なんて無いじゃないかお前達は。いやしかし金魚と意思疎通をするというのは実に珍しい出来事だよ」

「そうなんですか? こいつらだって生きてるんだからそういう事もあるでしょ」


 しゃがんで水槽をつつくと、やっぱりこいつは嬉しそうに水槽をつつき返してくれる。それを見た他の金魚も寄って来て、いつの間にか俺の足元は密集地帯になっていた。

 俺の手や足があるところを突きたがるので床に寝そべってみると、何匹もの金魚が集まって来てドクターフィッシュのようだ。女はおお、と低く唸るとどすんと俺の背中に座って来た。


「ぐえっ。ちょっと。降りて下さいよ」

「ようし! 君は接客係クビ! お喋り係りで採用だ!」

「接客するほど客は来ないんで構わないですけどね。で、お喋り係りってなんですか?」

「お喋るんだよ。そうやって金魚と仲良くなってみておくれよ」

「遊んでればいいって事ですか?」


 それは楽だ。というか今までと変わらないのだが。

 俺は隣の水槽にぺたりと頬を当ててみた。すると初対面の金魚が不審そうにうろうろとし始める。大きな金魚が連れて行ってしまったが、あれはきっと親子だ。


「全部の水槽でお喋りすればいいですか?」


 女の方を振り返ったが、そこに女は既にいなかった。


「……自由すぎだろ」


 せめて何を目的としてお喋りすればいいのかは教えてくれ。

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