第十三話 人を殺す夏生の言葉

 出禁を食らった翌日、大学が終わって金魚屋に――いや、金魚屋が見える程度の距離にあるベンチに直行した。真正面から入っても追い出されるだけだ。なら女がいない間に桜子に話を聞いてしまえばいい。金魚屋の女は出かけてる時間の方が多いんだ。特に金魚の回収に出たら夜までほとんど帰って来ない。

 実際、金魚の回収はやってみると相当ハードな仕事だ。何しろ徒歩でそこら中を歩いて回らないといけないから単純に疲れるし時間がかかる。休憩しながら行く事になるから彼女は帰って来たくても帰って来れないのだ。

 なるべく金魚屋からは見えないように身を隠して三十分ほどしただろうか。いつものように弟の頭を撫でて姉は金魚屋から遠ざかって行った。


「よし、行ったな」


 出かけてしまえばこっちのもんだ。俺は急いで金魚屋に潜り込み、桜子のいる水槽へ急いだ。

 水槽に着いてみると、出禁になった時より金魚が増えていた。何匹いるかは分からないが、あの時よりもうんと視界が赤い。こうなると桜子を見つけられないが、呼べば気付いてくれるだろうか。俺は試しにコンコンと水槽を叩いてみた。


「桜子。いるか?」

『なつきさん! どうしたんですか? 出入り禁止になったって聞きました』

「そうなんだよ。金魚のプライベートに関わるのは禁止だとかでさ」

『あ……私迷惑かけちゃったんですね……』

「いいって。それより兄貴の話聞かせてくれよ。ノーヒントじゃ探せない」

『でもダメって言われたんですよね……』

「バレなきゃいいって。まずお前は何歳?」

『十歳です。お誕生日のあとすぐに死んじゃったんです』

「そっか。じゃあプレゼントぶんどってこないとな。兄貴何歳?」

『なつきさんと同じくらいだと思います』

「具体的には?」

『えっと……』


 桜子はしょんぼりして少しだけ沈んだ。十歳の子供には歳の離れた兄貴の年齢など分からないのなのだろうか。俺も親の年齢なんて気にした事無かったしそういう感じだろう。

 だが外見年齢は参考にならないな。俺はかなり童顔だし背も高くない。学年は大学三年生だが、基本的に一年生、下手すりゃ高校生に間違われる時もある。せめて身長が高ければ違ったかもしれないが、百七十二センチメートルと至って標準だ。何より、感情的で理性的な行動を取れないせいもあり成人に見られない事の方が多い。捜索範囲が高校生にまで広がるとなると、これは相当厳しい。もっと限定する情報が無いと無理だ。


「名前は? それさえ分かればまだ」

「何をしてるんだぁ!」

「いってぇ!」


 ゴオンという除夜の鐘かと疑うような音が響きつつ、俺の後頭部に鈍い痛みが走った。何だか分からないうちに後ろから襟首を引っ張られ、振り向くとそこには目を吊り上げデカい金魚鉢を振りかざして怒りを露わにした金魚屋の女が立っていた。

 完全に鈍器じゃねーか。暴行罪だ。


「危ないでしょうが! 頭割れたらどうすんですか!」

「ばぁか! 金魚屋の金魚鉢が割れたりすもんか! 割れないんだよ!」

「俺の頭の方ですよ!」

「うるさあい! あのねえ! 君ねえ! 駄目だと言ったろうに!」

「放っておけないじゃないですか!」

「放っておくのだよ! こっちへおいで!」


 俺はそのまま引きずられて、俺の名を呼ぶ桜子から引き離されてしまった。それどころか店の外に放り出された。


「出禁」

「待ってください! あいつの兄貴に何かあったらどうするんですか」

「気持ちは分からんでもないよ。でも駄目」


 気持ちは分かる。そうだ、分かってくれているはずなんだ。金魚になった弟と生き続けるこの女は金魚の悲しみを誰よりも知っている。それにずっと沙耶の味方でいてくれた。


「僕はあなたのアルバイトですからあなたを見習いますよ」


 金魚屋は困ったように笑うと大きくため息を吐いて、滑り落ちたストールを羽織り直した。そして俺の顔を見て深くため息を吐くと、ちょいちょいと指先だけで俺を呼んだ。


「……付いておいで」


 女は手に真っ赤な金魚帖を持ち、ニ十分ほどうろうろして一軒のビルに到着した。

 そこは様々な店がたくさん入っている七階建ての雑居ビルだったが、一階の居酒屋はまだ昼だというのに随分と派手な客引きをしていた。ビール半額やアプリで獲得できるクーポンと併用可、女性向け・男性向けそれぞれのランチも用意しているようで、かなり必死なように見える。駅から徒歩五分で人通りの多い路面店なのにそこまでする必要はないように思える。


「ここで人が死んだんだよ」

「えっ」

「立ち入り禁止の屋上に入り込んで投身自殺さ。ビルは管理不行き届きを指摘され幾つかのテナントも退去して管理人は相当大変だったようだ。客足も遠のいて、無理な集客をせざるを得ないけどあの有様さ。ちなみに死亡場所はあの居酒屋の出入り口の真ん前だよ」


 それはあの居酒屋のせいではないだろう。だが居酒屋もランチする店も他にいくらでもある。わざわざこの店を選ぶ必要は無いだろうし、無関係だったとしても選択肢から除外されるのは分からなくもない。誰かが死んだ道路を踏んで飲食店に入るのは何となく気が向かないだろう。

 これはさすがに不憫だ。だがふいに居酒屋の出入り口の真ん前に金魚が張りついているのが見えた。おそらく死亡した場所だ。


「あの子の恋人は奥さんがいる事を黙ってたんだ。彼女の方が浮気相手だったんだよ。いつか結婚すると言ってくれてたから両親にもそう言ってしまったし、貯金を崩して彼を支えていたのに返済されなかった。おかげで生活は苦しくなって両親に助けを求めたけど、彼女を愚か者だと罵倒し突き放した。孤独と貧乏に耐えかねて自殺したんだよ」

「その恋人に未練があるんですね」

「いいや。恋人の奥さんを殺せなかった事に未練があるのさ」

「え? でも悪いのは彼氏ですよね」

「どういうわけか金魚になる女は浮気した恋人じゃなくて相手の女を恨む傾向にあるね」

「けど殺したいって、それってあの人出目金になりませんか?」

「なるだろうね」


 女はまるでそれが自然の摂理であるかのように眉一つ動かさずシレっと言った。

 これが当然なのか。じゃあ妹を亡くした兄貴が出目金になる事も、この女には珍しくもない日常の一コマだというのか。それが当然だとでも言うのか。出目金になるのを放っておくのが当然なのか。


「出目金化を防ぐ手立てが一つだけある」

「あるんですか⁉ 最初に教えて下さいよ! どうやるんですか⁉」

「簡単さ。あの子の未練を無くしてやればいいのさ」

「……相手の女性を殺すってことですか?」

「違うよ。未練の対象を変えるのさ。例えば君に」

「は?」

「いいかい? 傷心の彼女の前に手を差し伸べてくれる異性が登場して恋に落ちたとしよう。そしたら過去の恨みなんてどうでもよくなる。けど金魚は新たな異性と出会うことはできない。見えないのだからね。だが君は違う。運が良いのか悪いのか金魚が見えてしまう。だからもし君があの子に話しかけて優しく優しく親身になってしまえば――」


 女は急に手を広げた。そして人目もはばからず手を広げて踊り出し、ミュージカルのように声を張り上げた。


「この人は特別だわ! 私の死はこの人に会うために必要だったんだ! 死んだ事に意味があったんだわ!」


 周りの人々はぎょっとして俺達を振り返った。それこそ当然だ。見るに決まってる。というかこれは俺がこの女を口説いた結果のように見えるのではないか?

 止めてくれと訴える俺の頬を何故か金魚帖で引っ叩くと、俺の肩を抱き寄せて金魚を指差した。


「あの子に告白されたらどうするんだい?」

「ど、どうって……」


 どうもできないだろう。死んでる金魚と生きてる俺では想いを通わせる事などできないし、できたとしても死んでやるわけにもいかない。俺から出る回答はいずれの場合でも拒否となるだろう。

 しかしそれは彼女の未練を俺が恨みに育ててしまうわけで、そうすればきっと出目金になるだろう。放っておけばこのまま金魚として弔ってもらえたかもしれないのに、出目金にされて断罪を受ける羽目になる。

 ああそうか。そういうことか。

 もし俺が桜子のために兄貴を探し、見つかっても見つからなくても桜子にとって俺は特別な事をしてくれた特別な人間だ。見つかればいいが、見つからなかったら余計に俺に執着させる可能性もある。もしあの水槽の中で出目金になったら金魚を食い荒らし、それは俺の行動であの人数を殺すという事になる。


「君は優しい青年だ。だから桜子は君に頼んだのだろう。でも覚えておいで。人の心を揺るがす言葉は時として呪いとなる」


 女は俺の心臓あたりを指差した。


「君の言葉は金魚を殺すのだよ」


 俺は今いつもの公園でぼうっとしていた。

 金魚と話をする事が殺す事に繋がるなんて思ってもなかった。金魚と話をして、話が付けばいいが揉めたらそれも出目金へのきっかけとなる。つまり対話は必ず一発成功しなくてはならない。そうなるとこうやって金魚観察をしてうっかり目を合わせると、それすらも危険な気がしてくる。

 そんな事を考えたばかりなのに――


「うっわぁ!」


 目の前に大玉スイカくらいはあるのではないかと思うくらい大きい金魚が出て来た。

 近い!

 金魚は明らかにじいっと俺を見ている。認識された。話してはならない、目を合わせてはならないと思った矢先からこれか。

 俺は足早に公園を出たが、金魚はその大きい肉体に反して軽やかに舞いつつ俺の周りを飛び回った。

 どうするだこれは。そして考えた結果。


「あのねえ。君ねえ。君の仕事は客引きじゃないんだよ」

「そ、そこを何とか……」

「出禁のくせに本当に図太いアルバイトだ」


 しょうがないじゃないか。

 専門分野は専門家。金魚の事は金魚屋だ。

 女は呆れかえって俺の額をつんつんと強めに突いて来る。


「幸いこの子は金魚帖に記載があるからいいけどね。軽率に連れてくるんじゃないよ」

「すみません……」


 女はおいでと金魚を連れて行ってくれた。

 そして俺は女が開けっ放しにしたのをいいことに、出禁と言われた店内へこそこそと潜り込んだ。桜子のいる水槽に行くと、いつものように桜子がぴゅっと寄って来る。


『あの大きい子、なつきさんが連れて来たんですか?』

「連れて来たというか付いてきちゃったというか。まあ怒られたよ。あはは」

『でもあの子嬉しそう』

「ならよかったよ」

『……どうして金魚にそこまでしてくれるんですか? 金魚屋さんの言うとおり、関わらないのが普通です』

「見えてるのに無視はできないだろ。同じ人間なんだしさ」

『金魚を人間って言ってくれるんですか?』

「そりゃそうだろ。金魚も出目金も姿が違うだけじゃないか。なら俺らだって同じだ」


 肉体は無くなってしまったとしても本質は人間だ。俺だって今ここで見た目が金魚になっても自分は人間だと思うし。魂の形が金魚の形を取っただけで同じ人間だ。


『……やっぱりなつきさんに助けて欲しい』


 桜子はつんっと水槽の壁をつついてくる。


「なあ、お前の兄貴って」

「何をしてるんだぁ!」

「いってぇ!」


 またこれだ。また金魚鉢だ。こんなデカい金魚鉢振り回すとかどんな腕力だ。見ろ。桜子がびっくりしてるじゃないか。


「懲りないね、君も」

「どうしても駄目でしょうか……」

「僕の話聞いてたかい?」

「それでも放っておけません」

「放っておくんだよ」

「できない! 妹が泣いてるのに放ってなんておけない!」


 桜子は沙耶じゃないし、俺は桜子の兄貴じゃない。けどそっくり同じ境遇にいる兄妹を放っておくなんて、俺にはできない。

 俺はじとっと睨みつけられて、女はため息を吐きながらも俺の頭を撫でてくれた。


「そこまで言うのならやってみるが良いよ。ただし僕の見てる範囲だけにしておくれ」

「はい! 有難う御座います!」

「だ~だ~しっ! 幾つか条件がある。金魚屋として遵守しなくてはならないルールだ」


 こっちにおいで、と女は俺を連れて庭先に出た。やはり金魚に聞かれてはならないこともあるのだろう。


「まず一つ。金魚にプライベートを聞いてはいけない。出生や死因といった金魚になるきっかけを知る事は特に駄目だ」

「金魚から言って来た場合は?」

「言わせてはいけない。言おうとしたら拒否するんだ」


 という事はやはり桜子から兄貴の事を聞くのは駄目なのか。それじゃあ今と何も変わらないじゃないか。


「もう一つは名前だ。君はもう既に掟破りをしてくれたが、本来金魚に名前を聞いてはいけないし教えてもいけない」

「知ってしまったんですが」

「名前だけならセーフとしよう。個人を特定できるフルネームは駄目。ようするに個人情報を手に入れてはいけないという事だ。人間もそうだろう? 個人情報保護とか個人情報の流出とか」

「一企業である意識を持てって事ですか」


 では結局何も変わらないのではないか。

 ただ金魚屋の許諾が取れただけで出来る事は変わらない。むしろやってはいけない事を明確にされたので動きにくくなっただけな気がする。本来それが正しいのだが。


「それだけ気を付けてくれれば、殴ろうが蹴ろうが好きにおし」

「そ、それはいいんですか?」

「いいよ。どうせ触れるのは出目金だけなのだからね。攻撃したってやり返されて君が殺されるだけだ」


 そらそーだ。


「で? 具体的に何やるんだい?」

「まずはあいつの兄貴見つけます。そうすれば出目金だけ何とかすればいいし」

「ふうん……」

「だ、だめですか」

「いいよ。好きにおし。ああ、そうそう。言い忘れていたけど桜子の弔いは今日を入れて三日後の十三時だからね」

「は⁉」

「時間とは有限なのだよ」


 やられた。女はくくっと笑い、ひらひらと手を振って弟の元へ行ってしまった。

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