第三話 金魚は魂

 謹慎二日目、謹慎せず。


「やあ、夏生君。よく来たね」

「……どうも」


 俺は朝から金魚屋へやって来ていた。あまりにも怪しいことが多すぎるからだ。

 こいつ何で俺の名前を知ってるんだ。

 沙耶はこの店に入って行った。恐らく沙耶から聞いたのだろうが、病院から出たことのない沙耶がどうしてこんな奇天烈な女と知り合えるというのか。

 だがおかしいのはそれだけじゃない。


「どうだい? ご飯は口に合ったかな?」


 あの後逃げ出そうとした俺を引き留めて、女は金魚柄の大きな紙袋を俺に寄越した。さあさあと差し出されたのそれはずしりと俺の手を引っ張り、想像以上に重かった。中を覗き込むとそこには大量のタッパーが詰め込まれている。ふわりと炊き立ての白米の香りがして、煮物や漬物、カレー、缶詰やら果物まで詰め込まれている。この数年冷めたコンビニ弁当が主食の俺の喉がごくりと鳴った。

 しかし今さっきあんな目に遭わされて食べ物なんて受け取る気にはなれない。


「お気持ちだけ頂きます」

「お~やおやおや! 遠慮はいらないよ! 気にせず持って行くがいいよ!」


 ほらほら、と女は勝手に俺のリュックを開けて残しておいたコンビニ弁当をぽいぽいと捨て、そこにもタッパーを詰め込んでいく。詰め込まれすぎてリュックは登山者のように膨れ上がった。


「やあやあ、詰めすぎてしまったかな。でも男の子はこれくらい食べるだろう?」

「い、いりません。帰ります」

「いいからいいから。それにこれは有名なお店のケーキなんだ。きっと気に入る」


 ほらほら、と女は勝手に俺のリュックを開けてタッパーを詰め込んでいった。結局俺はその勢いと美味しそうな香りの誘惑に負け、タッパーが温かいうちに自宅に着いた。机に並べてタッパーを開けるととても良い香りが広がり、すると我ながら単純なもので気が付けばそれを頬張っていた。


「うまっ」


 同じ肉じゃがでもコンビニとはまるで違う。俺の手は止まらなくなりどんどん食べ進めると、タッパーではない入れ物があったことに気が付いた。


「そういやケーキもくれたんだっけ」


 有名店だと言っていたが、ケーキなんて贅沢品は買った事がない。そんな俺が店の名前など知ってるわけもない。それでも店名を見ようと包装紙を掴むと、それは聞いた覚えのある店だった。人生で一度も有名店に触れたことの無い俺が知っているたった一つの店。


「ジャン=ポール・エヴァン……」


 入っていたのは艶やかな茶色をした美しいチョコレートケーキだった。それは沙耶が食べたがっていたケーキだった。


 これだけ揃って偶然であるはずがないが、俺にはもう一つ分からない物がある。それは宙を泳ぐ金魚だ。

 この金魚何なんだ。金魚の弔いって何だ。

 調べたいところだが、あの内臓が引き出されるような恐怖を思うとうかつに踏み込んではいけないと本能が訴えてくる。でもここで引いては沙耶への手がかりが消えてしまう。

 どうしたらいい。

 どくどくと自分の心音が耳につき冷や汗が流れたけれど、女はそんな俺をくすりと笑って身を翻した。


「さあて、僕は仕事に行くよ。君はどうするんだい? どうするどうする?」


 女は細長い和綴じの冊子を持っていた。真っ赤で金魚の鱗のような地模様が浮かぶ起毛生地でみるからに高級品だろう。しかし気になるのは表紙だ。そこには金で『金魚帖』と型押しされている。

 また金魚だ。

 何だかは分からないが、この女は沙耶だけでなく金魚と関りがある。なら沙耶と金魚も何か関りがあったのかもしれない。俺はぐっと拳を握りしめた。


「付いて行ってもいいですか?」

「おお、ついに興味を持ってくれたのだね。よしよしよいよい。来るが良いよ」


 わざとらしい。

 苛立ちからか俺は無意識に唇を噛んでいたようで、女がするりと俺の唇をなぞった。白く細い指と金魚と揃いの赤に塗られた爪が恐ろしくて、けれどそれが女性の手である事に俺は顔が熱くなった。


「っな、なんですか!」

「血が出ているよ。噛むのはお止め」


 女はふふと含み笑いをすると、何でも無いようにひらひらと指を遊ばせた。動揺する俺なんか相手にならないとでも言うかのように背を向けスタスタと歩きだしてしまった。

 俺は弄ばれた口惜しさを堪えて後を付いて行った。女は金魚帖を片手にあちこちをうろうろと歩き回っていた。やたらと信号機や電柱を見て同じところをぐるぐると歩くばかりで何をしたいのかさっぱり分からなかった。

 しかし金魚帖を覗き見てふと気づいた。


「もしかして迷子になってます?」

「ええ⁉ どうして分かったんだい⁉」

「どうもこうも……」


 金魚帖には住所がずらりと書いてあった。しかし地図は載っていないから住所を示す何かを探していたのだろう。女がここに行きたいんだよ、と指差した住所を見て俺はスマホを取り出した。


「次の交差点を右ですね。もう一本向こうの通りですよ」

「へええ! 君は賢いのだねえ! 僕はこういうのはからきしなんだ!」

「はあ……」


 たかが地図アプリなのに女は凄い凄いと目を輝かせた。無邪気な姿に毒気を抜かれ、警戒しているこっちが馬鹿みたいだ。

 よし行こう、と女は意気揚々と俺の腕を引っ張って駆け出した。そうして目的の住所に着くと、女はいたいた、と何かを指差した。


「金魚⁉」

「そうだよ。よしよし」


 女は金魚帖でつんつんと突くようにして金魚の頬を撫でた。すると金魚は気を良くしたようにふよっと飛んで、女の右肩あたりに身を置いた。


「連れて行くんですか?」

「そうだよ。金魚屋だからね。さあさあ次へ行こう。次はここに連れて行っておくれ」


 そしてまた同じように金魚帖に載っている住所へ向かうと金魚がいて、次も、次も、次も、次も――……そんな事を三時間近く続けるとニ十匹以上の金魚を捕獲していた。そうして日が暮れ空が金魚色になった頃、女はようやく帰ろうか、と言って金魚屋へ帰る事となった。女の周りは金魚だらけで、長い髪に埋もれている金魚はまるで女を彩る美しい髪飾りのようだった。

 女は大量の金魚を引き連れて例の葬儀場に入って行き、葬儀場に着くと金魚はうろうろと水槽の周りを泳ぎ回った。この前一斉にいなくなってしまったから水槽はがらがらだ。

 女は一匹ずつ水槽へ案内し、お前はここだよ、お前はこっちだ、とちゃんと振り分けている。何かの規則性があるようだった。


「決まったね。では水槽に入れるとしよう」


 女が両手を広げると波が押し寄せたような感覚に襲われた。それと同時に、俺は足に枷が付いたように足が重くなり、そのまま水槽へ引きずられるように転んだ。


「な、何だ⁉ 何⁉」

「おお、いけないいけない」

「……は? 何?」


 女がぱっぱっと俺の足を叩くとふっと軽くなった。すると同時に、さっきまでいた金魚達はすっかりいなくなっていた。その代わり水槽にはニ十匹ほどの金魚が収まっていた。さっき連れて来た金魚達を入れたようだ。

 それは変だ。

 この水槽は天井まで続いている。横から開ける場所なんて無いのにどうやって中に入れたんだ。


「これ、どうやって入れたんですか」

「すいっとね」

「俺の足、何か引っ張りましたよね」

「そういう感じですいっとね」


 まさか、あのまま引っ張られていたら俺も水槽に入れられていたのだろうか。だが何のためか分からない。女を見てもにこにこと微笑んでいるだけだ。


「……この金魚何なんですか」


 女の瞳に金魚の赤い光が反射した。

 そして女は、いつものように大きな身振りで水槽を背負うように手を広げた。


「金魚は魂。未練を残して死んだ人の魂さ」


 女の瞳は金魚よりも美しく、けれどぎらぎらと光っていた。

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