第一話 空飛ぶ金魚

 三月下旬になり桜も開花しすっかり春めいていた。風が強く吹けば花びらは儚く舞い散り、人がそれを踏みつけ地面を汚していく。踏みつけられる花びらの悲鳴は聞こえないけれど、俺の耳には汚い言葉が聞こえていた。


「うわ、宮村夏生来てる。刑務所出たんだ」

「心中って刑務所入るの?」

「知らん。噂で聞いた。でも精神状態が普通じゃないから責任能力無しとかなんとか」

「それ犯罪じゃなくて?」


 俺と沙耶のことはそこそこの騒ぎになったようだった。

 目が覚めたのは病院だった。身体はあちこち傷だらけで指先を動かすだけで腕に痛みが走り、それでびくりと揺れれば他の箇所に痛みが走る。一人で歩けるようになるには三か月かかり、ようやく退院したらマスコミだの記者だのに追いかけられて気の休まる時も無い。だがそれがどういう発表がされたのかなんて、テレビを持ってない俺には知りようも無かった。分かることといえば、名前も知らない学生の噂話くらいのものだった。

 好きに言えばいい。言われたところで俺の現実が変わるわけじゃない。

 最初は睨み返す程度のことはしていたが、一週間すればそれすらも億劫になった。何をしても空しいだけだ。何しろ俺にはもう何もない。


「でも悲惨だよね。妹だけ死んで自分だけ奇跡の生還ってさ」


 ――沙耶だけ死んだ。

 気が付けば俺は、そう言って笑った男子生徒の胸倉を掴んで地べたに転がし踏みつけていた。


「今何て言ったんだよ! 沙耶が死んだって言ったのか!」


 俺と沙耶の心中が風化しない理由は心中という行為自体じゃない。沙耶だけが死んで俺だけが生き残ってしまったからだ。だがこれは正確じゃない。


「沙耶は死んでない! 見つかってないだけだ! すぐに戻ってくる!」

「悪かった! 悪かったって!」


 沙耶は遺体が見つかっていない。俺は岩場に引っかかっていたところを発見されたらしく、崖から落ちてこの程度の怪我なんて奇跡だと言われた。だが沙耶は遺体もあの赤いワンピースも、飛ばされた黄ばんだストールも見つかっていない。

 警察は沙耶の病状から考えれば生きてる可能性はゼロだと言うけど、俺の中で沙耶はまだ生きているのだ。


「のうのうと生きてるお前に沙耶の何が分かるって言うんだ!」

「宮村! 止せ!」

「うるさい! 放せ!」


 俺は見ず知らずの男子生徒に羽交い絞めにされ、集まって来た教師に連行され謹慎を言い渡された。謹慎と言われてもバイトを一日でも休めば生活していけなくなるからするつもりはない。教師の「お前も大変だと思うが頑張って」なんて何の助けにもならない言葉に背を向けて、俺は大学を後にした。

 来なくていいのはいっそ楽かもしれない。電車賃を使わなくて済むし羨むことも無い。通り過ぎるしかないフェンスの向こう側にはテニスコートがあり、多くの生徒がテニスをしている。それは俺が失ったものだった。

 俺が沙耶と心中するに至ったのは二年前、両親の心中が始まりだった。それは俺が大学に入ったばかりの頃の話だ。奨学金で入ったから成績はキープしないといけなくて勉強ばかりしていたが、見かねた友人がテニスサークルに誘ってくれて思いのほか熱中した。そのせいで沙耶の見舞いに行くのを忘れ、悪い事をしたと思う反面、自由に過ごす事の楽しさに浸っていた。だが帰ると両親の姿は無くて、翌日になっても帰ってこなかった。しかしその夜ドアをノックする音がした。鍵でも無くしたのかと思ったが、そこにいたのは警察官だった。そして告げられたのは両親が心中し遺体が打ち上げられたという事だった。

 そこで俺は初めて両親が三百万円という借金をしていたことを知った。福祉制度を使っても沙耶の治療費は満足に用意できず、もう返済ができない状況になっていたという。

 これは両親が死んだことで俺に課せられる事はなかったが沙耶の治療費は別だ。これからもそれは必要で、俺が稼いで支払って行かなければいけない。コンビニのバイト時給九百五十円でどうにかできるわけもなく、用意するには借金する必要があった。だが両親の死を目の当たりにした俺にそれを選択する勇気はなく、とにかく働いて何とかするしかなかった。せっかく入った大学は寝るために行くようなもので、サークルで遊ぶ暇はない。俺は自由を捨てて働き続けた。

 けれどあの時、何かがぷつりと切れた。沙耶の見舞いで病院に行ったところまでは覚えている。けれど次の記憶は東尋坊へ飛んでいて、最後は風に揺れる沙耶の赤いワンピースだけだ。

 あれこれと検査をされた結果、俺は精神状態が正常では無かったため責任能力無しとされた。ただ沙耶の遺体は見つかっていないため、それはまた別の事件になっている。

 俺にはもう何もない。何をするために生きるのかも今はもう分からない。いずれ死ぬために生きる人生に何の意味もないのではないか。ならそれを途中で終わらせることは意味があるのじゃないだろうか。何もしない人生で唯一できる何かだ。

 そんなことを考えていると、気が付けば俺は沙耶を失った崖の上にいた。あの時ここから落ちた。でももう沙耶はいない。いるのは俺だけだ。

 足が一歩前に出た。このまま行けばそこにあるのは空だけで、いずれ大地は無くなるだろう。そして沙耶と同じように俺も無くなるのだ。あと一歩だ。あと一歩で――しかしその時、俺と空の間を何かが横切った。視界が真っ赤に染まり、俺は思わず後ろに尻もちを着いた。


「何だ一体」


 虫でも飛んで来たのだろうか。俺は何がいるとも分からない視界を手でかき混ぜると、その正体が見えてきた。それは、沙耶のワンピースよりも金魚に近い色をした金魚そのものだった。


「金魚って空飛ぶのか……」


 呆けている自分が発した言葉に首を傾げ、俺は勢いよく立ち上が上った。


「飛ばねーよ!」


 俺は宙を泳ぐ金魚をじっと見た。肉厚なたい焼きくらいあるだろうか。真っ赤な夕暮れに溶け込むように金魚が泳いでいる。


「金魚? 金魚、だよな……」


 よく見るとそこら中で金魚が宙を泳いでいた。だが金魚は木々も崖も通り抜けている。俺に向かって飛んで来た金魚がいたが、それもするりと俺を通り抜けていく。金魚は何にも触れる事なくただただそこに漂っていた。

 どうする事もできないでいると、一匹の真っ赤な金魚が俺の目の前にやってきてじいっと見つめて来た。グラデーションといいヒレの形といい、沙耶のワンピースそっくりだ。目が離せず金魚の行先を見ていると、辿り着いた先にはまるで金魚とお揃いのような赤いワンピースの少女が立っていた。


「……沙耶?」


 金魚のようなワンピース。れは紛れもなく沙耶のワンピースだった。俺は手を伸ばし全力で沙耶に向かって走った。


「沙耶! 沙耶!」


 しかし何故か沙耶は俺から逃げるように走って行った。まるで金魚が泳ぐようにゆらゆらと木々を流れて遠ざかっていく。

 俺は工事現場や力仕事のバイトもしているおかげで肉体は頑丈で足も速い。少し歩くだけで咳き込んでいた沙耶に追いつくなどわけもない。それなのに、どうしてか俺は沙耶に追いつく事ができなかった。

 そのまま沙耶を追いかけてると、住宅街から外れた場所に佇んでいる観賞用アンティークのような洋館に入っていった。今日のケーキやランチメニューの看板が立っている。どうやら喫茶店のようだったが、こんな所にこんな店があっただろうか。

 だが沙耶はここに入っていった。とにかく店に入ろうと扉に手をかけると、俺が開けるより早く内側からがちゃりと開かれた。


「うわっ!」


 急に開かれて後ずさると、中から一人の女が顔を出した。それは沙耶ではなく、薄墨色の髪と目をした二十五歳くらいの着物姿の女だった。着物はとても色鮮やかで、黒地に萌黄色に若紫の花は清楚ながらも目を引く。帯は黄金色の市松地模様で、ため息が出るほどの高級感が漂っている。おっとりした印象の顔立ちで、ほのかに色づいた薄桜色の唇は陶器のような白い肌に温かみを与えている。大和撫子とはこういう人の事を言うのだろう。

 あまりの美貌に釘付けになったが、何よりも目を引いたのは女の右肩に浮遊している金魚だった。沙耶のワンピースとお揃いとも思えるグラデーションとヒレ。俺は何を言えば良いか分からず唇を震わせていると、女はにこりと微笑んで両手を広げた。


「ようこそ金魚屋へ。君が来るのを待っていたよ」

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