あやかし金魚屋の葬儀帖
蒼衣ユイ
第一章 宮村夏生の夢現
プロローグ
俺は妹の
「げほ、げほっ!」
「沙耶!」
病院を抜け出してから一時間ここまでおぶって来たが、身体を揺らされ続けたのは相当堪えたようで肩で息をするその顔は真っ青だった。冷や汗で額が濡れ目は虚ろだ。身体もぐらぐらと揺れている。ゆっくり腰を下ろしたけど沙耶の呼吸は整わない。当然だ。沙耶は生まれつき心臓が弱く、心臓に負荷のかかる運動はもちろん、走る事はできないし歩く事もままならない。発作が起きたら人工呼吸器だって必要だ。延命治療による注射の後は既に消えなくなっていて痛ましい。
もはや大丈夫と強がることすらできず、沙耶は目に涙を浮かべて顎がカタカタと震えている。きっと喋ることすら辛いのだろう。医者でも看護師でもない一介の大学生、しかも文学部の俺には抱きしめて背中をさすってやるくらいしかできない。
咳き込んだ拍子に沙耶の手から黄ばんだストールがすり抜け飛び去って、それでもコピー用紙を手放さず握りしめていた。
「ああ、ぐしゃぐしゃになっちゃった……」
「ごめんな。誕生日プレゼントがこんなで」
「そんなことありません。凄く嬉しい……」
沙耶はコピー用紙を広げてそっと撫でた。そこには俺がバイト先で貰ったボールペンで書いた『ハッピーバースデー沙耶』とだけ綴られている。プレゼントどころかカードですらない。
それでも沙耶は微笑んで大事そうに握りしめてくれた。
「沙耶、来年のお誕生日はジャン=ポール・エヴァンのチョコレートケーキが食べたい」
「よく知ってるな、そんな店」
「ちゃくちゃんが教えてくれたの。お誕生日に食べたんだって……」
「隣の病室の子だっけ。分かった。いつか用意してやる」
そんなつまらない嘘を吐いて、俺は沙耶を抱きかかえて崖の縁に立った。目の前に広がる空は夕日で真っ赤に染まっていて、俺は妙に冷静にその美しさに浸った。
「お父様もお母様もお兄様も沙耶も、最期は同じ場所なのね……」
沙耶は何も見たくないとでも言うかのように、俺の胸に顔を埋めてがたがたと震えている。小さく唇を動かして何か呟いていたけれど、それは俺には聞こえなかった。
一歩踏み出せばそこに大地は無い。それだけで全てが終わる。
俺の手の中で沙耶が震えている。俺に残されたたった一つ大切だったものが。
それが分かっていたけれど、俺は沙耶を抱えたまま一歩踏み出した。
その数秒後、ぐちゃりと肉の潰れる音がした。最後に見えたのは風にはためく沙耶の赤いワンピースだった。
それは、さながら金魚のようだった。
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