僕の考えた最強のドラゴン

赤猫柊

 僕の友達グレイシスは世界最強の竜だ。

 最強は戦う場所を選ばない。どこにいても最後には勝利をつかみとる。たとえそこが――教室の片隅だったとしても。


「おいおい、五年生にもなってまだおままごとかよ、ツムギくーん。それとも、ツムギちゃんって呼んだ方がいいでちゅかー?」


 20分休みも終わる頃、教室に戻ってきたユキハルが僕をからかってきた。ユキハルはクラスを牛耳る男子だ。絡まれたら厄介なことになると経験的に知っている僕は、慌ててグレイシスを机の上から膝の上へと隠した。

 こいつ一息に燃やしてやろうか? 刺繍された瞳で訴えるグレイスに「そこまでしなくてもいいよ」と笑いかける。


「きっも。ニチャニチャ笑ってんじゃねえよ、チビツムが」


 蹴られた椅子がガンッと悲鳴をあげる。

 びくんと震えた僕から、ユキハルはグレイシスを連れ去った。


「かか、かえしてっ!」


 思わず伸ばした腕に、ユキハルの取り巻きたちが横からつかみかかってきた。女子たちは男子がまたなんかやってるよと呆れ顔。男子たちはくすくすと小バカにした笑い声。腕をムリヤリ後ろに回された僕の「痛い痛い」という叫びは誰にも聞こえていないようだった。


「ぬいぐるみなんかでムキになるなよ」


 ユキハルがおどける。ぬいぐるみじゃないグレイシスだ、と叫び返そうとしたけど、口からこぼれたのは「お願い、かえしてよ」という弱々しい震え声だけだった。

 最強の竜はグレイシスで、僕じゃない。僕には何もできない。

 ユキハルはそんな僕を鼻で笑うと、何か思いついた顔で「そうだ」とつぶやいた。


「今日の夜、神社に来いよ。肝試ししてやるから。逃げずに最後まで付き合ったら、こいつを返してやる。それでいいだろ?」


 いいだろ? なんて訊いてはいるけど、実際は一方的な命令だ。ユキハルは僕が何か言うよりも早く「はい、決定!」と宣言し、手を叩いた。その手に握られたままのグレイシスがひしゃげる。


「絶対こいよ。もしこなかったら、こいつビリビリに破って捨てるからな」


 グレイシスの瞳をデコピンしながら告げる。ユキハルの目は心底楽しそうに笑っていた。






 こなかったら、ビリビリに破って捨てる。

 ユキハルはそんなことを言っていたけど、グレイシスは最強の竜だ。そんなことできるはずがない。

 だから全部無視してもよかったのだけど、ここで何もしなければきっとグレイシスは僕に失望するだろう。それだけは嫌だった。


 夏の夜を照らす満月は思ったよりも明るかった。家からこっそり持ち出した懐中電灯は結局使わずじまいで、僕の手首でひまそうにぶらぶら揺れている。

 なんだ、夜道なんて意外とたいしたことないじゃん、と思っていたけど、やがて見えてきた無人神社は昼とはうって変わった不気味な雰囲気で、僕は思わず足を止めた。


「……だいじょうぶ、こわくない。こわくない」


 そんな呪文を唱えながら鳥居をくぐり抜けた。いつどこからお化けが飛び出してきてもいいように身構えながら、ざすざすと砂利を踏みしめていく。

 神社の奥から響くジャカジャカうるさい音楽が、ユキハルたちの先着を知らせていた。ユキハルと取り巻きの男子二人、そして僕、これで全員のようだ。

 僕に気づいたユキハルがスマホから顔を離す。


「おっせえ、チビツムのくせに待たせてんじゃねーよ」

「ご、ごめん」


 ユキハルは舌打ちしながら砂利を蹴ると、スマホをポケットにしまった。遅れて取り巻きの二人もぱらぱらと顔をあげる。

 僕は意を決して口を開いた。


「そ、それであのっ、僕のぐれ……ドラゴンは」

「あっちの森の奥の方に祠があるのは知ってんだろ」


 ユキハルは神社の周りに広がる森の小道を指さした。楽しそうに「そこに置いてきた」と笑う。


「一人で祠に行って、大事な大事なぬいぐるみを取って戻ってくる。いい、肝試しだろ?」

「そんな」

「安心しろよ。隠したり、どこにあるのかわからなくなるような汚い真似はしてねえから。ただ、明日になってもそこに置いてあるかはわかんないけどな! あはははは!」


 取り巻きの男子たちも一緒になって笑い声をあげる。いったい何がそんなにおかしいのだろう。

 これ以上なにか返すのもばからしくなって、僕はさっさと森の中へ向かっていった。後ろから「死んだ猫が化けて出るらしいから気をつけろよー!」なんてたいへんありがたい忠告が飛んでくる。

 お前らなんか、全員化け物に食われちゃえばいいんだ。心の中で吐き捨てながら、ユキハルたちが化け猫から逃げ惑う姿を想像する。そうしている間だけは足が震えずにすんだ。






「なぁツムギ、ぬいぐるみを学校に持っていくのはやめないか?」


 そんな台詞をパパがつぶやいたのは、学校でグレイシスを先生に取り上げられた数日後のことだった。つけっぱなしのテレビのCMとママが食器を洗う音が響くリビングで、僕はいつものようにグレイシスと遊んでいた。

 ちょうど昨日もママに「もう三年生だし、男の子なんだから、人形遊びはそろそろ卒業しましょ」と言われたばかりだ。先生も、パパもママも、よっぽど僕をグレイシスから引き離したいらしい。

 僕はグレイシスをぎゅっと抱きしめた。


「ぬいぐるみじゃない、グレイシス」

「あぁ、ごめん。そうだな。グレイシスだな」


 パパは頭を掻いた。


「誤解しないで欲しいんだがな、パパも別にツムギとグレイシスをばらばらにしたいわけじゃないんだ。あくまで学校に行くときは我慢しようって話だ」

「……どうして?」

「他のみんなはグレイシスみたいなドラゴンの友達を連れてきていないだろう?」


 だからグレイシスと遊ぶのは家だけにして、学校ではクラスの友達と遊んだらいい、とパパは続けた。

 僕は小さくため息をついた。

 残念ながらパパは何もわかっていない。学校を平和な場所か何かだと勘違いしている。僕が学校に行けるのはグレイシスのおかげで、グレイシス無しではそもそも学校に行けるはずがないのだ。

 けれどもそう言ったところでパパはわかってくれないだろう。仕方ないので、僕はパパの鞄を指さした。


「パパだって仕事に友達連れてってるじゃん」


 鞄の上に放り出された鍵には、さっきまでテレビでやっていたアニメのキーホルダーがついていた。

 パパがばつの悪そうな顔を浮かべる。


「いや、それは友達ってわけじゃなくてな。……まぁ、お守りみたいなものというか」

「だったら、グレイシスもお守りだもん。僕を守ってくれるんだからね」


 僕の完璧な理論を前に、思わずパパも口ごもった。


「……あぁー、わかったわかった。でも、グレイシスを学校に連れていってること、ママには言わないようにな。それと、学校に持って行ってもランドセルからは出さないように」

「どうして?」

「お守りっていうのはそもそも、むやみに見せるものじゃないからだ。パパだって職場で鍵を取り出したりはしない。神社で買う普通のお守りも中を開けてみたりはしないだろ」

「でも、それじゃあグレイシスも僕を守れないよ」


 口をとがらせる僕の頭に、パパはそっと手を置いた。


「逆だよ。ツムギがグレイシスを守るんだ」

「……パパ、何言ってるの? グレイシスは最強のドラゴンなんだよ」

「だとしてもだ。ツムギはグレイシスもお守りだって言ったけどね。お守り自体に誰かを守る力が宿っているわけじゃないんだ」


 まるでグレイシスは大したことがないと言われたみたいで、僕は頬を膨らませた。そんな僕を「まあまあ」となだめながらパパは話をつづける。


「お守りはね、持ち主にとってどれだけ大切なものかが重要なんだ。大事だからそれを守ろうとするし、そのために頑張ろうと思える。そして、そういう頑張りが回りまわって本人を助けてくれる。守ってくれるから『お守り』なんじゃなくて、守ってあげたいからこその『お守り』なんだよ」

「でも、グレイシスは最強だもん」

「最強のドラゴンだって守ってもらい時くらいあるさ」


 パパはグレイシスの体を優しくなでた。






 舗装も何もされていない、踏みならされてできた土の道を歩いていた。あれほど頼もしかった満月も木の影に隠れて姿が見えない。さすがに懐中電灯をつけ、顔にまとわりつく羽虫を払った。

 虫の声のような何でもない音がいつもよりやけに大きく聞こえる。枝を踏んでパキっと音を鳴らすたび、体がぶるりと震えた。

 今すぐ帰りたかった。何もかも全部投げ出して逃げてしまえたら、どれほど良かったか。

 それでも、この先にグレイシスが一人置き去りにされていると思うと、不思議と足は前に動いた。パパの言っていた意味がようやくわかったような気がした。


「だいじょうぶ、だいじょうぶ」


 自分自身に言い聞かせながら進んでいく。

 やがて懐中電灯が小さな祠を照らし出した。


「……グレイシス!」


 それまで感じていた恐怖も忘れて祠へと駆け寄る。グレイシスはまるでお供え物のように、祠の小さな扉の前に座っていた。

 隠されたりしてなくて本当によかった。


「こんなところにいないで、もう帰ろう」


 グレイシスへと手を伸ばし、抱き寄せる。

 違和感に気づいたのは、その直後だった。

 感触が違う。重さが違う。そして何より、変な生臭さがある。

 嫌な予感をかき消すように、僕は懐中電灯でグレイシスを照らした。

 刺繍の瞳。やわらかい角。大きな翼。

 いつもと変わらない見慣れた姿の中、ひとつだけ不自然な変化があった。

 今日まで傷一つなかったお腹にできた、手術跡のような縫い目。

 親指でお腹をゆっくりと押す。

 ぬちゃり。

 布越しに何かを揉むような感触が伝わる。綿とはぜんぜん違う、もっとドロリとした得体の知れない何か。

 見ないでよツムギ、とグレイシスが怯えた声でつぶやく。君には見てほしくないんだ。

 僕はそれを無視して、震える指で縫い目をこじ開けた。






「ツムギのやつ、そろそろ見つける頃かな」


 ツムギの消えていった道を見ながら、ユキハルがつぶやいた。その口許には隠し切れない笑みが浮かんでいる。対象が何であれ、壊すという行為は基本的に楽しいものだ。そうでなければ、ユキハルだってわざわざ夜中に神社に呼び寄せようとは思わない。それはユキハルの友人二人、タカシとマサヤも同じだった。


「あいつビビりだし、そもそも祠までたどり着けないんじゃね」とマサヤが笑う。

「それはつまんねーよ。せっかくの仕込みがムダになるじゃん」


 ユキハルが眉をひそめると、タカシが「いや、それやったのほとんど俺だけどね」とため息をついた。辟易した顔で両手を揉み続けている。


「タカシ、さっきからずっと手こすって、どうしたんだよ」

「なんか、臭いが落ちてない気がしてさ。すげー気になるんだよね」

「呪われてんじゃね」

「やめろってそういうの」


 タカシは両手に顔を近づけ、鼻をすんすんと鳴らした。


「なあ、臭くないか嗅いでみてくれない?」

「嫌に決まってんだろ。猫の死体触った手、近づけんな」

「ひっでぇ。そもそも、やれって言ったのはユキハルだろ」


 元々、ツムギに仕掛ける嫌がらせはビリビリに破ったぬいぐるみを祠に置くというものだった。話の流れが変わったのは、車に轢かれたと思わしき黒猫の死体を見つけてからだ。ぬいぐるみをただ引き裂くよりも、猫の中身を詰めた方が面白そうだとユキハルが言い出した。


 彼らの加害衝動に倫理観などという高尚なブレーキはついていない。無邪気に残酷に、ただ楽しそうというだけの理由でアクセルをベタ踏みする。ブレーキの大切さに気づくのは概して盛大に事故った時だ。

 そして、その瞬間は存外早く訪れた。


「ウみゃァaああア」


 猫のような、しかし猫と言い切るには不協和音に満ちたひどく不気味な声が響いた。

 何かがいる。

 聞いてはいけない。見てはいけない。認識してはいけない、何かが。


「ね、ねこだ」


 マサヤが震える指で鳥居をさした。

 月明かりに照らされ、一匹の猫が座っている。

 猫だ。その印象的なシルエットは猫以外にありえない。誰が見ても一目で猫だとわかる形状。

 しかし、猫と呼べる要素はそれ以外何ひとつ持ちあわせていなかった。






「ごめん……グレイシス、ごめんね」


 お腹の傷から肉を覗かせるグレイシスを抱えながら森を走る。無理やり縫い目をこじ開けたことで、僕の指は黒だか赤だかわからない色に染まっていた。

 グレイシスの返事はなく、僕の腕の中で力なくうなだれている。


「ごめんね、ごめん、ごめんなさい、ごめんなさ――」


 懐中電灯を前に向けることもなく走ったせいで、木の根につまづいて転んだ。膝と鼻を思いきり打ちつけ、口の中に土と血の味が広がる。抱きかかえていたグレイシスは押しつぶさずにすんだけど、服には赤黒いシミがべったりついてしまった。うずくまって頬をぬぐう。涙はとっくに流れていた。

 後悔しかなかった。

 ユキハルたちの言いなりにならなければ。学校でグレイシスを取り返していれば。パパの言うとおりグレイシスを学校で見せなければ。いや、そもそも学校に連れて行ったりしなければ。無数のたらればが脳内を埋めつくし、頭に収まりきらなかった分が嗚咽となって口から漏れた。

 擦りむいた膝を払い、ゆっくりと立ち上がる。


「グレイシスは世界最強の竜だ。まだ……まだ負けてない」


 自分に、グレイシスに、言い聞かせながら立ち上がる。前を見ると樹々が途切れていた。どうやら夢中で走っているうちに神社まで戻って来ていたようだ。

 僕はユキハルたちに立ち向かう覚悟を決め、足を踏み出した。


「うっうぁぁあ! くるなぁアっ!!」


 聞こえてきたのは想像していた笑い声ではなく、振り絞るような悲鳴だった。

 ユキハルが腰を抜かしてへたり込み、黒い何かを見上げていた。黒猫ように見えるけれど、それにしては大きさが明らかにおかしい。いくら座り込んでいるからといって、猫を見上げることがあるだろうか。

 あれだけ大きな態度を取っていたユキハルが、みっともなくわめき声をあげて後ずさる。周りには見覚えのある体が二つ、ぞんざいに転がっていた。本来なら首があるはずの場所からどくどくと黒色が流れ続け、石畳を汚していく。


「な、なんでだよっ、おオレたちが見つけた時にはッ、もうっ、車に轢かれて死んでたじゃん! 恨むなら轢いたヤツにしろよ!」


 悲痛な叫びを上げるユキハルを、黒猫の形をした何かはただ見下ろしていた。いや、本当に見下ろしているのか、それすらわからない。

 黒猫には目がなかった。目だけでなく、口も鼻も何もついていない。黒い影を集めて猫の形にした何か。そうとしか言いようのない『それ』が、ユキハルに向けて言葉を発した。


「    」


 にゃあ、と聞こえた気がした。

 気がしただけだ。

 実際は何なのかもさっぱりわからない、得体の知れない音だった。

 もしも地獄に猫がいるとしたら、こんな声で鳴くのかもしれない。

 全身に鳥肌が立つ。気づけば僕は吐いていた。


「あうあああうあぁぁ!」


 僕より近くで聞いていたユキハルの取り乱し方は、比べものにならなかった。

 鼻水と涎を垂らしながら、血だまりの上をのたうち回る。


「オレはわルっ、わるグナい! ぐるなッ、来るなよぉ!」


 少しでも『それ』から離れようと石畳の上を這う。血の海を這いずる姿は、まるで浅瀬に打ち上げられた魚のようだった。

 ユキハルと目が合った。


「助けて」


 ユキハルの顔はくしゃくしゃに歪んでいた。


「助けて、たすけて、たすけてタスケテ」


 うわ言のように四文字を繰り返す。

 僕は怖くなり、ユキハルから目を逸らした。

 『それ』を直視しないよう目を伏せ、グレイシスを抱きしめたまま走り出す。


「タスケテタスケテタスケテタス――」


 遠ざかっていくユキハルの声がぷつりと途切れた。

 それでも後ろを振り返ることなく、ひたすらに足を動かす。

 砂利を踏み鳴らし、石畳をかけ抜け、鳥居をくぐる。

 誰もいない夜の街に、僕の鼓動と足音だけが響いていた。


 気づけば家の前に来ていた。息切れを起こした僕は、ようやく足を止めておそるおそる振り返る。『それ』は追ってきていなかった。

 夜の静けさを前に、まるで今までのすべてが夢だったかのような感覚に襲われる。


「だいじょうぶ、だいじょうぶだよね」


 グレイシスに問いかける。

 そのままお腹の傷をなでようとしたところで、グレイシスにあったはずの縫い目が無くなっていることに気づいた。


「……え」


 懐中電灯でグレイシスを照らす。

 僕の服にもグレイシスの体にも相変わらず血はついたままだ。それなのに、ざっくり裂かれていたはずのグレイシスのお腹はなぜか傷一つついていなかった。


 当然だろ、とグレイシスが得意げに語る。だって俺は最強の竜なんだぜ、傷つくわけないだろ。今日あったことは何もかも全部悪い夢だ。


「うん、そうだよね。夢だよ。夢に決まってる」


 体に残る血の匂いが、そんなはずはないと告げている。それでも僕は自分が見たことの何が本当で、何が嘘なのかわからなくなっていた。

 だってありえないじゃないか。

 あんなに簡単に人が死ぬだなんて。

 夢に決まってる。きっと明日なれば、いつもと同じ朝が来る。ユキハルたちは学校にくるし、グレイシスのお腹も元通りだ。

 そして今度こそ、僕は一人で学校に行くんだ。グレイシスに守ってもらうんじゃなくて、僕がグレイを守ってあげられるくらい強くなれるように。


 僕は家のドアを開けた。

 家の電気は明るく、ようやく夜の世界から帰ってこれた実感がわく。

 ただ、家から出る時に電気なんてつけていただろうか。

 もしかしたらパパとママが、僕がいないことに気づいたのかもしれない。なんて言い訳しよう。そんなことを考えながら、リビングのドアノブに手をかけた。


「パパ、ママ? …………っ!?」


 ドアの先には惨劇が広がっていた。

 血飛沫のかかったソファ。

 倒れたテーブルと椅子。

 血の海に沈む二つの体。

 錆びた鉄の匂い。


 僕はその場にずるりと崩れ落ちた。

 腕からグレイシスが落っこちる。懐中電灯がからからと転がる音が聞こえた。


「そんな、どうして」


 あまりにも凄惨な殺人現場。

 現実を受け入れられない僕を見下ろすように、リビングの真ん中では『それ』が座っていた。


「にゃア」


 顔の無い『それ』がこちらを見つめ、声をあげる。

 返せ、と言われている。そんな気がした。

 でもそれはこっちの台詞だ。

 僕も、パパもママも、グレイシスも、みんな普通に暮らしていただけだ。

 それなのに、どうしてこんな目に遭わなくてはいけないのか。

 理不尽だ。

 パパを、ママを、僕らの普通の生活を、今すぐ返して欲しかった。


 『それ』の形がぐにゃりと歪んだ。

 猫の前足にあたる部位が黒い触手となり、真っ赤に染まったフローリングをひたひたと這い寄ってくる。

 僕は足がすくんで動けなかった。

 もうすべてがおしまいだとそう思った時、触手がつかんだのは僕ではなく――僕の足元に転がるグレイシスだった。


 パパの言葉が頭をよぎる。


『最強のドラゴンだって守ってもらい時くらいあるさ』


「うっ、うああぁぁぁ!」


 気づけば僕は、グレイシスをつかむ触手を全力で踏みつけていた。懐中電灯の持ち手をガンガンと叩きつけ、グレイシスを無理やり引き剝がす。『それ』の声にならない叫びが部屋中にこだました。


「ぐっ、グレイシス、逃げよう!」


 グレイシスを抱えて走り出そうとしたが、足が動かずつんのめる。足首を見ると、どす黒い触手がびっしり巻きついていた。

 足首を凄まじい力で引かれ、その瞬間、視界が揺れた。

 強烈な浮遊感。全身を襲う強い衝撃。身体中に激痛が走る。砕けてはいけないものが砕ける感触がした。

 赤く滲む視界の中、『それ』はすぐそばで僕を見下ろしていた。

 声が出ない。

 体が動かない。

 呼吸ができない。

 それでも、グレイシスだけは放さないよう翼を握りしめる。


「ニゃあ」


 カエセ。

 黒い触手が僕の腕からグレイシスを奪おうと迫ってくる。

 グレイシスは強引に引っ張られ、僕の手にはドラゴンの片翼だけが残った。

 『それ』はグレイシスをつかみ上げると、自らの顔の前へと近づけた。猫の形をしていた顔が、まるでつぼみが花開くように中心から割れていく。グレイシスは黒い花の中にずぶずぶと沈んでいった。


 もし、ユキハルたちがこれを見たら笑うだろうか。最強だなんて嘘じゃないか、やっぱりただのぬいぐるみだと。パパやママだって、そう思うかもしれない。

 でも、だとしても、グレイシスは最強の竜だ。

 どこにいても最後には勝利をつかみとる。

 空想でもなんでもいい。

 僕は信じている。

 だから、きっと――。


 グレイシスを飲みこんだ途端、『それ』の動きがぴたりと止まった。

 猫の形に戻った頭が、まるで内側から何かに叩かれているかのように歪む。あれほど恐ろしかった怪物が、苦しみもがくように身をよじらせる。にゃあと響く声は、困惑に満ちていた。『それ』の頭を突き破って、とても小さな、けれども世界で一番頼りになる影が現れる。

 僕はもうほとんど動かない手で竜の翼を握りしめた。


 あぁ、そうだ。

 君は世界で一番強いんだ。

 どんな怪物でも、君を止めることはできない。

 ねぇ、そうだよね、グレイシス。


 薄れゆく意識の中、最期に友達の名前を呼んだ。

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僕の考えた最強のドラゴン 赤猫柊 @rorororarara

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