冥夜の向こうへ

ウッタル・プラデーシュ州:ガンジス川流域



 危うく人類を終わらせかけた第三次世界大戦。それが齎した二次被害は、予想を幾分上回るほどとなってしまった。

 絶滅的な戦争に追い討ちをかけるように、記録的な冷夏が世界中を襲ったのだ。原因については諸説ある。フィリピンのピナツボ火山が爆発し、巻き上げられた大量の塵芥やら硫酸性微粒子やらが太陽光を遮ったというのが定説だが、何千発と炸裂した原水爆の影響との見方も根強い。ただ間違いないのは、食糧不足がどうしようもなく深刻化してしまったことで……更に20億もの人命が、飢餓とそれに伴う無秩序によって喪われたと推定されていた。


 そうした打撃に特に見舞われた地域のひとつが、インド亜大陸だと言えるかもしれない。

 防空能力があまり拡充されていなかったこともあって、まずデリーやボンベイ、カルカッタといった主要都市が、集中的な水爆攻撃のため悉く蒸発。当然ながら英印政庁は統治能力を喪失し、残存した軍部隊がどうにか駐屯地周辺の秩序を保っているといったあり様となった。それらが流れるように軍閥と化し、植民地分割統治の一翼を担っていた諸々の勢力と結び付いていったことは、まったく想像に難くないだろう。そうして傷つき飢えたる流民が怒涛のように雪崩込む中、異教徒や異民族は口減らしの対象とすべしといった発想がごく自然的に蔓延し、たちまち最悪の内戦状態に陥ってしまったのである。

 もちろん本来であれば、英軍が真っ先に駆けつけ、神経化学兵器を用いてでも治安を回復させただろう。とはいえブリテン島の首都圏を除いたほぼ全域が焦土と化してしまった状況において、そんな余裕があるはずもなかった。


「流石に見ておられん。本格的な武力処理をもって秩序を回復すべし」


「今こそ、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去せねばならんのだ」


 かような意見が東京で出始めたのは、大破局から何年も経過してからのこと。

 ようやく共栄圏諸国の復興が軌道に乗り、政情不安が解消され始めたことで、軍事力を対外投射する余裕が生まれてきていたのだ。また少し前に米軍が北アフリカに続いて大陸欧州の跡地へと進出し、ナチ残党の携行型原爆テロ攻撃にもめげずに民生支援を開始していたので、それへの対抗もあったかもしれない。もっともインド地域はその間、救世主のいない世紀末の惨状を呈したことから、修文5年頃には人口が日本を下回ったとすら見積もられていた。

 そのため報道各社と口さがない者どもが、


「ベンガルで数千万人を見殺しにしてかの介入か」


「緬印国境は既に白骨だらけ」


 などとしたり顔で騒ぎ立てたりもした。

 もっとも彼等の大半は、旭川や舞鶴の復興を最優先とすべしとか、米穀の対外供給は一切まかりならぬとか、戦争直後にはまったく別の主張をしていたものだ。結局のところ、自分達の胃袋が満たされなければ他人の心配などできぬというのは、何処までいっても変わらぬ世の理なのかもしれない。


 そして遣印された帝国陸海空軍と共栄圏諸国連合の45個師団は、あまりに陰惨な世界に直面することとなった。

 文明と言えそうなすべてが崩れたそこで、如何なるものよりも荒れ果てていたのは、やはりと言うべきか人心。自分の子のためにと隣家の子を誘拐し、鍋で煮て調理するといった末法的光景が、どうしようもないくらいに溢れ返っていたのだ。最新鋭短距離離着陸輸送機たる飛鳥を駆って、かつてデリーと呼ばれていた大廃墟に程近い飛行場跡に真っ先に降り立った高谷大尉などは、その日のうちに激しく嘔吐せざるを得なかった。毀誉褒貶の激し過ぎる曾祖父が、チッタゴンで米騒動作戦に加担していた時の話をしてくれたこともあったが……目の当たりにしたのは、その比でなく餓鬼道めいた現実だった。


「それでも、生き残った者はその務めを果たすべきでしょう」


 酷く痩せ衰えた感のあるバラモン僧侶は、穏やかに微笑みながら、決意に満ちた口調でそう言った。

 雄大なるガンジスの畔に聳える、水爆攻撃とその後の大混乱を辛うじて生き延びたらしいヒンズー寺院。彼の切り盛りするそこは、河川舟艇部隊がピストン輸送した物資の集積拠点のひとつとなっていて、恐らくはつい最近まで武器を手にしていたであろう修行者達が、着の身着のままの者達に米と豆スープを振る舞っていた。時折爆発音や砲声が響いてきたりはするものの、それは匪賊討伐が進捗していることの証明で、人々の眼にも希望の光が灯りつつあるようだった。


 そうした中、諸々の手伝いにやってきた高谷は、ささやかだがあちこちが飾り付けられているのに気付く。

 間もなく訪れる春を前に、祭りでも催す心算なのではないか。人はパンのみにて生きるに非ずとは、旧約聖書に記されているモーゼの言葉であるが、ユダヤ教徒でなくともそれは変わらないだろう。特に身の回りにあったすべてを失った人々には、心の拠り所となるべき信仰が、まさしく食糧と同じくらい必要であるはずで……かようにとりとめもない思考をそこはかとなく巡らせていたところ、件の僧侶が英語で話しかけてきた。


「間もなく偉大なるシヴァの夜ですので、我々はその準備をしておるのですよ」


「なるほど、そのような祭が」


 高谷は肯きながら、結跏趺坐する神像の穏やかなる相を見やる。

 この寺院で祀られているのはシヴァ神で、そういえば破壊を司ってはいなかったか。とすれば人類史上最悪の大戦乱をどう解釈しているのかと、まったくいい加減な知識を基に訝ったところ、僧侶は事情を察したかのように語り始める。


「破壊の後には、必ず再生があるものですよ。ちょうど何もかもを呑み込むガンジスの氾濫が、その後に大いなる実りを齎すように。シヴァはその因果を巡らせているのです」


「そうなのでしたか」


「ええ。先の戦争は叙事詩にて語られたそれすらも児戯と思えるほどの悲劇を生み、死と混沌ばかりが待ち受けているかのようでしたが……」


 僧侶は若干言葉を詰まらせ、


「こうして復興が始まったのですから、これもまたシヴァの大いなる思し召しと信じ、誰もがこれからの世界を溌溂と生きていくべきでしょう。破壊の規模が大きければ、将来の可能性もそれだけ大きくなるでしょうから」


「むしろ積極的に大きくしていかねばならぬかと。自分はそのためにここにいます」


「任務だからではなく?」


「暫くは長期休暇中ですので」


 高谷は得意げに微笑む。

 凄まじく多忙なことで有名な輸送隊の司令から、貴官は過労死しかねんから休めと厳命されていたような気がするが……この方が気が休まりそうだった。報道写真やニュース映像とは比べるべくもない、あまりにも生々しい惨状。それを直接目にしてしまうと、おおよそ誰であっても使命感に駆られてしまうだろうと彼は思う。


「でしたら、いっそ大尉も祭に参加してみては如何ですかな?」


 僧侶が些か楽しげに提案する。


「祭といっても、なかなかに厳粛な催しとなりますがね。夜通し祈りが捧げられる中、断食をしながらひたすらに瞑想を続けるというものですから。そうしてシヴァ神の荒々しい側面――すなわち破壊や殺戮を生み出す暗黒が、自分自身の内面にも存在すると自覚し、それらを克服して生まれ変わらんとする意志を抱きながら、新たな朝を迎えるのですよ」


「まさしく今の世にこそ必要なものに思えます」


 高谷は隈なき声色で応じ、


「自分は一応仏教徒なのですが、それでもよろしければ」


「もちろん歓迎いたします。我々からすれば、仏教もまたヒンズーの……」


 もしかすると余計な方向に発展したかもしれぬ会話に割り込だのは、まったく不躾なる怒号。


「ちょっと何とかしてきます」


 高谷は不敵に笑み、とにかく颯爽と駆け出した。

 恐らくは物資の配給か何かを巡って、ろくでもない騒動でも起こったのだろう。例によって圧死者だらけとなり、警備の満洲国軍が実弾射撃を実施するまでに至ったらしい初日と比べれば、これでも相当に治安が回復してきているとのことだが、まったく世に争いの種は尽きまじといった具合である。


 それでも明けない夜はない。そう信じるのが良さそうだった。

 あまりにも絶滅的な戦争を切っ掛けとしてではあったが、生き残った列強たる日米が主導する形で、恒久的平和構築に向けた取り組みがなされ始めているらしかった。それを現実味のあるものに変えていくには、世界の隅々にまで共存共栄の理念を行き渡らせることが重要に違いない。そしてそのために自分の人生を使うのも悪くないし、国益にも叶うはずだと確信しながら、問題を起こす不埒者を高谷は殴り飛ばした。

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