一杯の珈琲を⑧
地球周回軌道:日本海上空
「せっかく英雄になったんだ、英霊にまでならなくたっていいだろ」
天野中尉はそう励ましながら、帰還した同期の宇宙服を急ぎ脱着させる。
随分と加熱されていた。宇宙空間において体温を保つための循環冷却水が、見事なまでに熱湯になってしまっていたのだ。当意即妙の一撃でもってドイツ製大量破壊兵器を撃破した高谷中尉は、五右衛門風呂で釜茹でにされたも同然で、意識も朦朧としていて大変危険な状態にあった。
ただ介抱している余裕もありはしなかった。
部分軌道爆撃弾に合わせて減速したが故、彼等が乗る曳航艇5号は地球へと引き寄せられ始めていて、放っておけばそのまま流れ星になってしまう。とすれば操縦を優先せねばならぬことは明白。天野はただちに己が席へと戻り、迅速なる状況把握に努めた。第一宇宙速度へと復帰し、母艦の『天鷹』あるいは僚艦に回収してもらうのは、燃料の残量からして物理的に不可能だった。
「不時着以外にないか」
何処か他人事のように呟いた後、ただちに帰路を設定する。
時間的制約から細かい確認は省略。諸々の諸元を脳に叩き込みながら、大気圏突入を終えた後が勝負の分かれ目となりそうだと判断した。そこまでであれば自動航法が対処してくれるものの、燃料が十分でないから速度を殺し切れぬようで……成層圏で空中分解せぬよう艇を上手く減速させ、落下傘を開けるようにせねばならぬ。
「本来こういうのは、あいつの方が得意なのだが……」
「ボルト5号、聞こえるか?」
唐突に母艦より通信が入り、
「目標の撃破を確認した。大手柄だったな。あとはどうにか無事に地上に凱旋してくれ。ドイツの弾道弾もようやく撃ち止めの模様で、この狂った戦争も間もなく終わるだろう」
「了解。生きて尽忠報国せんとす」
天野は落ち着いた、しかし気色のある返答をした。
続けざまに気閘に倒れ伏す同期の方を一瞥し、帰投への意欲を増進させる。高谷は挺身攻撃の予定を土壇場で修正し、敵弾を見事仕留めたのだ。とすれば次は自分が有言実行する番に違いない。
「実際、ここで終わる訳にはいかんよな」
艇が大気を掠めて微振動し始める中、天野は不敵な面持ちで独りごつ。
語り継がれる物語としてであれば、案外ここで空の星になってしまった方が綺麗かもしれない。未曽有の危機にあって己が身を躊躇なく投げ出し、何十万という人々を守った末に散華した若き英霊。恐らくそれは未来永劫美しいままで、晩年を汚したりすることも決してないからだ。
ただ今後を考えるならば、もっと人間臭い方がいいのかもしれないと思えた。
人々から英雄と称賛される豪傑であれ、調子に乗ることもとんでもない間違いをしでかすこともあるかもしれぬ。だがこの地獄と化した世界に必要なのは、七転びしようと八起きしして進める者だろう。そしてその肖像として、高谷はなかなか相応しく振る舞ってくれそうな人物と思え……操縦桿を握った手に、生への渇望が漲った。
先程まで大気圏外にいたはずが、見覚えのある門が目の前にあった。
適当に手入れされた生垣と違法建築めいた見張り台、アマチュア無線用のでかいアンテナがやたらと目立つ、鳥栖は田代町の高谷本家に違いなかった。毀誉褒貶の激し過ぎる曾祖父が、妖怪めいた余生を過ごしている屋敷で、小中学校の頃には剣道の稽古をつけて貰いに通ったことが思い出された。
もっともそうした懐かしさは、程なくある種の諦観へと変わった。
つまるところ自分は既に霊魂だけとなっていて、故に先祖のおわす地に帰ったのだろう。曳航艇の外へと飛び出し、アンカーで部分軌道爆撃弾を狙い撃つなんて業をやってのけたのだから、戦死と相成ったとしても別段不思議でもなかった。まあ思い出してみれば、最期の辺りは熱くてたまらなかったかもしれぬ。それでも故郷を水爆の脅威から守り抜いたのだから、悔いなど露もないといったところで、まったく清々しい気分がしてきた。
「おう、秀典。相変わらず元気そうだのう」
「あッ、爺ちゃん」
何時の間にやら傍らには祖父がおり、実に柔和な面持ちをしていた。
任官して間もない頃に、癌で亡くなったはずだった。とすれば宇宙士官としての活躍ぶりを、草葉の陰から見守ってくれていたに違いなく、自慢げな気分が満ちてくる。
「ちょいとばかり早いけど、一世一代の大仕事をやってきたよ。二代目『天鷹』の艦載機乗りとして、故国に迫る弾道弾を千切っては投げてきた」
「ああ、見ておったとも。見ておったとも」
祖父は涙ぐまんばかりに喜ぶ。
「土壇場で起死回生の手を思いついて、見事やってのけたんじゃろ。本当に大したもんじゃ。お前は元々自慢の孫で、高谷一族の誇りじゃったが、もはやそれどころでないの」
「ははッ、そうかもしれねえ」
相好は自ずと崩れ、
「実際、曾爺ちゃんにも負けねえ手柄を挙げたんだし……」
「クソボケがーッ!」
憤怒に塗れただみ声が耳を劈き、刹那の後、何かが額を直撃した。
下駄のようだった。十数間ほど先の玄関口に現れた、とんでもない狂相の持ち主が放ってきたようで……それが破天荒の限りを尽くした曾祖父だと気付くのに、少しばかりの時間が必要だった。
「ヒデてめえどういう心算だ、舐めたこと抜かしてるとぶち殺すぞ!」
「えッ」
「どれだけの手柄を挙げた心算か知らんが、ここはお前が来るには百年早い。とっとと現世に戻りやがれ。俺以上に生きてからでないと、敷居を跨ぐことまかりならん」
激烈なる言葉とともに勢いよく投擲されたのは、軍人精神注入棒と書かれた樫の棒。
例によって豪速ですっ飛んできたそれは、避ける間もなく脳天を直撃した。すると刺激的で爽やかなる電流が、鈍痛とともに全身だか全霊だかを駆け巡る。それまで認識されていた世界は急速に暈けていき……代わって四肢や五臓六腑から伝わってくる感覚が、意識にドッと注がれ始めた。
「おい、目を醒ましたぞッ!」
間近で発せられた驚異の声は、どうしてか英語で発せられていた。
ガヤガヤという騒めきと、規則的な機械音が聴覚を叩く。何処かに横たえられているらしい己が肉体には、きっちりと重力がかかっていて、更にゆっくりと揺すられているのが知覚された。地表、恐らくは洋上で、どうやら無事に降下できたのだろう。安堵とともに瞼を開いていくと、見知らぬ天井がまず目に付き、それから欧米系と思しき眼鏡の軍医が顔を覗き込んできているのに気付いた。
「日本空軍の、高谷秀典中尉ですね?」
「ん、ああ」
猛烈なる倦怠感の中、高谷は何とか声をひり出し応じる。
軍医は何とも寛大なことに、たどたどしい日本語でもって説明をしてくれた。それによると、ここは米海軍の航空母艦『キティホーク』であるようだった。大気圏突入をどうにか成功させた曳航艇5号は、グアム島南方120海里に不時着。その付近に居合わせた彼女に拾われ、そのまま集中治療室に搬送されたとのことだった。
その実、かなり危険な状態であったようで、一度は心臓が止まったりしていたようだ。
とすればなかなか奇跡的な話なのかもしれない。だが高谷は紛れもなく、身の危険を顧みず責務の完遂に務める空軍軍人だった。自分が意識を喪っているうちに、祖国に災厄が降りかかっていたりはしないか。かくなる懸念はたちまち面に滲み、それを敏感に察したかのように、ペアを組む人物が颯爽と姿を現す。
「貴様が寝ている間に、戦争ならおおよそ終わったぞ」
天野は安堵の相を浮かべ、穏やかな口調で続ける。
「少なくとも日本は、無傷とはいかんがまだましな方ではある。水爆が十数発落ちはして、舞鶴や平壌、旭川などは酷い状況のようだが……東京や大阪、名古屋などは無事とのこと。貴様の故郷についても、既に避難命令が解除されたはずだ」
「ああ、そいつは……」
不幸中の幸いなのだろうか。そうとでも言おうとし、慌てて口籠った。
自分は今、米艦に収容されている。あちらも『レイク・シャンプレイン』などが頑張ったはずだが、米本土はもっと凄惨なことになっていて、親族や故郷を失った者が大勢いるやもしれぬのだ。
「中尉、お気遣い無用に願いますよ」
軍医が如何にも米国人らしく笑い、
「貴官は本当に勇敢に戦われ、故郷を守り抜いたのですから、それを何より誇りに思うべきですよ。確かにステイツもかなり手酷くやられ、シカゴは蒸発、ニューヨークとボストンも水爆魚雷で壊滅したとのことですが……我々のタフさを舐めて貰っちゃ困りますね。あの地獄めいた戦争をどうにか生き残った国の人間同士、これから世界の復興のため力を合わせていかねばならないのですから」
「おっと、これは失敬」
高谷はすかさず詫び、頼もしげなる軍医を見つめる。
実際ヤンキー魂というのは、大和魂に勝るとも劣らぬほど強靭なのだろう。そう強く実感できた。何千何万という原水爆を投げ合い、人々をひたすら残虐に殺戮せんとする、人類史上最悪の惨劇。耶蘇でいうところの黙示録が如きそれを経ても尚、不撓不屈の精神性を保たんとする姿勢こそ、今後何より重要となりそうだった。
もっとも希望や楽観は、そう容易くできる訳ではなさそうでもあった。
大陸欧州とロシヤ、中東などは、致死性の放射線を放つ奇妙な黒い穴ぼこだらけの無人地帯と化し、インドやアフリカなども総じて地獄絵図だという。絶滅的戦争の正面から比較的距離のあった共栄圏や中南米においても、百万都市が幾つも蒸発するなど被害甚大とのことだった。直接の死者は概算で15億人超。またそれと同じあるいは更に多くの人命が、食糧と医薬品の不足、社会秩序や公衆衛生の崩壊などによって半年以内に喪われると見積もられているようで……つまるところ総人口は一挙に半減し、文明そのものが過去形となったところも多くあるのだった。
「であればこの戦争を生き延びたすべての国の軍隊は、当面の間は、避難民の救済と国土の再建に全力を尽くさねばなりません。自分の兄が所属している空挺部隊も、既に奇跡的に難を逃れたロンドンに降り立ち、英本土への支援に当たっておるようです」
「とすると俺も艦載機乗りは休業かな」
高谷はにこやかに言い、心残りの類を軽々と弾き飛ばす。
「一生分の仕事をやってのけた気もするし、既にだいぶやられもしちまっただろうが、馬鹿高い軌道艦に予算投じている場合じゃなさそうだしな。輸送機の免許でも取ったらいいのかもしれん。食糧や日用品を運ぶ仕事はなくならんだろうし……何にせよ曾爺ちゃんに追い返されたんだ、存分に働いてやるさ」
「ん、ヒデ、どういうことだ?」
「ああ。俺は死にかけて、あの世の本家の門まで逝っちまったんだよ。そうしたら曾爺ちゃんが顔真っ赤にして、あと百年生きてからじゃなきゃ門を潜らせねえと、下駄とか精神注入棒とか飛ばしてきてな」
「なるほど、なら死んでも生きるしかないな」
天野が爽やかに破顔し、唱和が病室に木霊していく。
未曽有の惨劇を経たこの世界が、この後どうなっていくのかはまるで分からない。それでも大東亜共栄圏がユーラシア共栄圏になったりするような、何がしかの人類史的地殻変動は、間違いなく生じはするのだろう。とすればそれを良性のものとする以外、あまりにも大きな犠牲に報いる方法はなさそうで……そのために自分にできることをしてやろうじゃないかと、高谷も退院後の人生計画を考え始めた。
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