一杯の珈琲を②

鳥栖:市街地



 百寿を越えてしまうと、流石に体の自由が利かなくなるものだ。

 むしろつい半年ほど前まで、普通に野山をほっつき歩いたりしていたのだから、常人では考えられぬほどの健康体だったと言うべきかもしれないが……妖怪御老人の高谷翁も、流石に寝ていることの方が多くなっていた。それでも世の移ろいと子孫達の動向への興味はあったから、ベトナムだか何処だかの強烈なコーヒーをがぶ飲みし、何とか起きていようとするのである。


 それでもカフェインの効用など、暖かな春の日差しを浴びているだけで、あっという間に打ち消されてしまう。

 加えて最近流行りの電脳通信なんてものをやったりすると、電子掲示板に『天鷹』や自分についての戯けた書き込みがあって、カンカンになって鍵盤を叩き壊しそうになったりするのだが……何より両眼がチカチカして仕方がない。そのため早々にゴロンと寝転がり、ウトウトと微睡んだりする訳だ。すると何時の間にやら日が暮れていて、朝から夜だったような気すらしてくる。畳の上では死ねぬ身と、若い頃に覚悟を決めていた割には、随分と贅沢極まりない余生と思えてならなかった。

 ただ昭和68年から修文元年と改まって間もない今日は、些か事情が違ったようだ。夢を見始めるや否や、数年前に先立ってしまった次男坊が待っていたのである。


「おう……何だ、浩二じゃないか」


「すいません、父さん」


 浩二は済まなそうに詫び、


「自分から先に逝ってしまった親不孝をお許しください」


「戦争中はまさにお前の発明に助けられたんだし、その後も電気通信事業とか色々盛り上げて、ひと様以上に立派に生きただろうが。まあ先立っちまったといっても、おおよそ平均寿命くらいだったろ。むしろ俺が長生きし過ぎちまっただけだ」


「きっと知らずのうちに、わんさと恨みを買っていたのですよ」


 傍らより響いてきた、些か嬉しそうな苦笑は、糟糠の妻なる則子のものだった。

 懐かしき彼女の外見は看取る直前のようでもあり、また初めて会った時のようでもあった。よく見てみれば浩二についても同様で、生きたすべての時代の面影が、それぞれ独立しながらも、名前によってまとめられたひとつの系をなしているようだった。


「憎まれっ子世に憚る。あまりにも憎まれ過ぎて、世間様が手放してくれなかったのでしょう」


「なるほど、寂しい思いをさせて悪かったな」


「いいえ。海軍将校の妻ですから、慣れたものでしたよ」


「そうか。何にせよこうしてまた再開できたんだ、それですべてよしとしようじゃないか」


 高谷は気さくに笑い、同時に遂に自分にも迎えが来たのだと理解する。

 もしかしたら20世紀を丸っと生き抜いてしまうのではないかと思っていたが、流石にそれは無理だったようだ。といってももはや思い残すことなど何ひとつなかったから、この辺りでちょうどいいのだと実感する。


 そうしてふと周囲を見渡すと、既に故人となった一族郎党が勢揃いしてくれているではないか。

 しかも皆何処までも朗らかで、祐一は高谷家の誇りだと盛り上げてくれている。まあ確かに航空母艦『天鷹』とともに八面六臂の大暴れをし、テニアンでの原爆奪取作戦までやってのけた上、衆議院議員になってドイツの総統と殴り合ったりもしたのだ。両親などは「こんな聞かん坊が将来どうなることやら」と心配ばかりしていたようだが、蓋を開けてみれば郷里の英雄という訳で、万々歳としか言いようがないだろう。

 なお海軍へと進む切っ掛けとなった本家の叔父貴は、残念ながら大戦勃発の直前に亡くなっていていたが……草葉の陰から、自分の活躍を大層興味深く見守ってくれていたようである。


「もっともそうした意味では……」


 己が生涯は五十を過ぎてからが本番だったかもしれぬ。高谷は己が大器晩成ぶりを改めて実感する。

 大東亜戦争中は兵学校時代の同期などと、様々なる因縁があった。艦隊を率いる者としての覚悟を示してくれた山口には、史上初の陸海軍合同艦隊の司令長官として活躍した旨を自らの口でもって伝えたいところであったし、自害して果てるその瞬間まで親友であり続けてくれた大西に対しても、感謝と労いの言葉をかけたくてならぬ。それからまた剣道大会でも催して、今度こそ優勝を掻っ攫いたくもなった。


 ただ何より思い出深いのは、やはり航空母艦『天鷹』に乗り組んだ仲間達に違いない。

 いったいどうした経緯があってか、海軍中から集められてきた問題児ども。つまるところその筆頭が自分であるとはいえ、一癖も二癖もあるような連中とともに幾つもの海を股にかけ、幾多の苦難を乗り越えてきたのだ。その記憶は今でも黄金色に煌いていて、何物にも代え難い。まあ我武者羅にやっていた当時は、どうして戦果が挙がらぬとヤキモキさせられ、更には他の艦の連中に侮られて随分と機嫌を損ねたりもしていたものだが……今となっては何もかもが懐かしく、また毎度のように米英海軍の作戦計画を気付かぬうちに覆していたというのだから、こんなに愉快なことはない。

 そしてあれこれ懐古しているうちに、見知った顏がぞろぞろと現れてきた。おおよそ若い頃と老けた後が混ざっていて、中には20歳ほどから変わっていないのもいる。戦死者は何時までも若いままで、相に怨恨の色がないのが、何よりの救いであった。


「中将、お待ちしておりました」


「おう、今度はダツオか。久しいな」


「ええ。待ち草臥れていたくらいで」


 真っ先に声をかけてきた打井が、例によって減らず口を叩く。

 肩が少しばかり寂しそうに思えるのは、超毒舌オウムのアッズ太郎がまだ現世にいるからだろうか。ただ戦闘的というか蛮族的な雰囲気は昔のままで、他のガラッパチ連中と比べても、それが際立っているようだ。


「それでは中将、挨拶が済みましたので、自分は次へ征こうかと思います」


「うん? 出し抜けに何だダツオ?」


「いや中将、率直に申し上げましてここは退屈極まりない。人間死んじまって魂だけになった後は、こうやって己が生涯を省みたりしながら、次にどうするかをゆっくり考える訳ですが……張り合いがなさ過ぎて到底自分には耐えられませんな。とにかく早く次の人生を得て、世に蔓延るチンピラゴロツキを千切っては投げて連戦連勝したくてたまりませんし、その激烈なる渦中にこそ命の輝きがある訳です。恐らくは中将も、暫くすればまったく同じ感想を抱くようになるかと」


「ちなみに自分もそろそろ生まれ変わろうかと思っております」


 続けて響いてきたのは、陸奥の軽佻浮薄な台詞。


「ここも悪くはないのですが、その、何もかもがプラトン的と言いますか……」


「ムッツリ、お前はもう少しばかり反省しとけ。つまるところ女とまぐわえんとでも言いたいのだろ」


 高谷はズバリ言ってやり、集いし乗組員がどっと笑う。

 とはいえ陸奥の滾らせている情欲の類も、まああまりにも不埒に発散させ過ぎているとはいえ、案外と重要なものかもしれぬ。何故なら人間というのは、夫婦の縁が結ばれた結果として生まれてくるからで……そこに思い至るや否や、爆発的考察を絶やさなかった義兄の気配が感じられた。


「そうだ祐一君! すべては縁なのだよ!」


 浦は大変に興奮しているようで、


「僕はここに辿り着いて、縁だけの存在となって初めて理解し、実感することができたのだ。ただの原子の集合をひとつの個体とするものこそが縁であって、縁とはすなわち魂であり生命であったのだとね。それから世界中に溢れたる無数の縁は常に相互作用をし続け、男女のそれのみならず、様々な形の縁を新たに生み出していく。それこそが人生だとか生命だとかの本質であって、ひとたび役割を終えた縁はこうして縁のみの空間へと戻った後、また新たな縁を生み出すために旅立っていく。これがこの世が終わりを迎えるまで、まあ終わるのか弥勒様が現れるのかよく分からんが、それまで未来永劫続いていく。かくしてこの5次元的宇宙は縁で満ち溢れていくのであって、彼等は早々にその崇高なる仕事に戻るというのだから、心からの餞が必要だ」


「義兄さん、何時の間にか哲学者にでも転職されたんですか」


「いやいや祐一君、きっと君もここにいればすぐに先述の構造が理解できるはずだ。そういう訳だから祐一君、早くこちらへ来たまえ。宴の準備はできておるんだからな」


「あ、自分も相伴に与らせていただきます」


「ヌケサクこの野郎、あの世でもタダ飯にありつこうって魂胆か」


 相も変わらぬ吝嗇ぶりを発揮する抜山に、高谷は大いに相好を崩して応じた。

 そうして振り返ったりすることなく、皆の待つところへと一歩踏み出し、


「フギャー!!!」


 という強烈な悲鳴を浴びせかけられた。

 何のことはない、40年以上前に寿命を迎えた猫のインド丸が足許にいて、その尻尾を踏んでしまったのだ。思わぬ奇襲に高谷はびっくり仰天。その瞬間に目は醒めて上半身は跳ね上がり、親族や一族郎党、『天鷹』の仲間達の姿などは、あっという間に霧散してしまった。


「な、何だ……ありゃあ夢か?」


「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます」


 点け放していたテレビジョンから、アナウンサーの緊迫した声が響いてくる。


「大本営統合部、5月13日午後2時半発表。帝国陸海軍は先程、ドイツ軍と戦闘状態に入れり。帝国陸海軍は先程、ドイツ軍と戦闘状態に入れり。大本営統合部よりこのように発表されました」


「ああいや、こっちが夢だな。違いない」


 高谷は勝手にそう結論付け、身を横たえて眠り出す。

 そして大陸間弾道弾多数が接近中、ただちに避難をといった警告が喧しく響く中、今度こそ息を引き取った。享年102歳の大往生で、稀代のバンカラとして名を馳せた彼の死に顔は、遂に勃発した第三次世界大戦と対照的なくらいに穏やかだった。

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