煉獄への階段④
イスタンブール:市街地
「なるほど、あの辺りをオスマン艦隊が越えてったのか」
「蒸気機関すらない時代に、そんなこと実際できるんかね?」
観光名所たるガラタ塔の展望台に、イタリヤ海軍の制服を着た者どもの雑談が響いたりする。
地中海のあちこちに名を残したる、サン・マルコ海兵師団に所属する精兵達であった。本来であれば彼等は今頃、オデッサの近傍に展開しているはずだった。同地において合同軍事演習が予定されているためで、そのために強襲揚陸艦『カブール』に搭乗したのである。ただいざボスポラス海峡を通らんとする段になって、
「とにかく航空母艦の通航は認めん。モントルー条約に傷がつくからな」
などという従来にない文句を、トルコ高官が勝手に言い出した。
その意図するところはまったく判然としない。同国の政治情勢はこのところ混迷を極めていて、誰が何に対して責任を負っているのかすら分からないような状況だったから、まともな理由など元々なかったのかもしれない。ただ結構な外交問題に発展してしまったのは事実で、それ故に足止めを食らう破目となったのだ。
結果、乗組員も海兵隊員もひたすらに退屈し、市街に上陸してしまっていた。
確かに軍や国家は、大きな損失を被ったと言えるだろう。それでも陽気なる将兵にとってみれば、仕事が観光旅行に変わったようなものだ。故に彼等はバザールに繰り出してあれこれ土産物を買い込んだり、現代に蘇ったローマ帝国の一員としてかつてのコンスタンティノープルを偲んだりしながら、存分に羽を伸ばしていたのである。
「それに……おや、何だ?」
「どうしたね、マルコ?」
「いや、急に騒がしくなったような気がするんだが」
マルコと呼ばれた一等兵が首を傾げ、辺りをサッと見渡した。
実際、付近にいる人々がガヤガヤと騒ぎ始めていた。ただトルコ語を聞き取れる人間がいなかったので、イタリヤ海軍の兵隊達は首を傾げるばかり。
そうして暫く困惑していると、ざわめきが一層大きくなった。
出入り口の辺りを見てみれば、息を切らしながら駆け込んでくる人物の姿があった。大慌てで姿勢を正し、敬礼。突然として現れたのは、鬼より恐ろしい分隊長に他ならなかった。
「お前等、すぐ艦に戻れ。上陸は終わりだ」
「はいッ」
条件反射的なる応答。分隊長はそれを認めるや、また何処かへ駆けていく。
兵隊達はお互いの顔を見合わせ、すぐに帰艦に向けて動き出す。途中、同郷と思しき観光客が混乱していて、どうやらアンカラでクーデターが勃発したらしいと判明した。それから電気屋の店頭に据えられたテレビジョンに、緊迫した面持ちで話すアナウンサーが映っていて、直後にそれがプツリと切れた。
「何だかヤバいことになってんな」
「それよりあれを見ろよ」
誰かが西北西の指差し、飛来したる軍用機と思しきに視線が集中する。
動体視力に優れた者が、ドイツ空軍のJu931Mだと判別した。恐らくは威嚇的な意味合いもあって、低空飛行でイスタンブールを航過していった高速爆撃機は、そのままアンカラ方面へと消えていく。それらが自分達にとって友好的な存在でなくなる可能性を把握していたイタリヤ人は、この段階ではあまり多くいそうにない。
ベルリン:総統大本営
「昨日、現時間午後4時頃に勃発した軍事クーデターにつきましては……」
地下88メートルの大指揮所。大帝国の中枢たる面々を前に、国家情報本部次長のクメッツ中将が説明する。
声色は強張ってはいたが、悲観的な要素は含まれてはいなかった。つまるところ、随分と前から蜂起の可能性に備えていたのだ。それ故、事態が出来してから数時間ほどのうちに、ドイツ空軍はアンカラの放送局および電話交換局を爆撃。更に攻勢的な電波戦や新時代の通信網擾乱戦、諸々の特殊作戦などを展開し、枢要なる部隊を孤立させることに成功した――おおよそ報告はそのような形でまとめられた。
「なおこれに呼応して国境を突破したソ連軍は、現在トラブゾンからエルズルムに至る線にまで到達している模様ですが、トルコ軍部隊の抵抗に遭い、速度を大幅に落としております。また懸念されていた水中翼船部隊ですが、こちらは出撃準備中に"炉心融解事故"を起こしております」
「ふむ」
現在の大ドイツ国を統べるギースラー総統は、机上に広げられたる地図を一瞥する。
トルコ南部を蛇行してイラクへと至る太めの線に、彼の鋭利な眼光は向けられていた。色でもって友軍であることを示された駒の、沿線地帯に集まりつつある様子が、まあ一目瞭然となっている。
「バグダッド鉄道線およびパイプラインについては、問題ないのだな?」
「はい。鉄道防衛隊が万難を排して警備に当たっており、ただちに増援を送り込める態勢を整えつつあります」
「なるほど。よく理解できた」
ギースラーは落ち着いた声で肯き、若干物憂げな表情を浮かべる。
旧時代の貴族然とし過ぎた感のある新指導者の内心はしかし、相当に荒れ狂っていた。スペインで戦端が開かれてから既に2年近くが経過したにもかかわらず、国防軍および親衛隊は戦局を打開できずにおり、戦死および行方不明はとうに10万人を超えている。そんな状況で二正面作戦となったら、悪夢としか言いようがなく、フランコ独裁体制の終焉を脅威と捉えてマドリードで携行型原子爆弾を起爆させた前任者を、呪い殺したい気分にもなっていた。
とはいえ今更何を言ったところで、時間遡航と歴史改善などできやしない。
ならば一番重要となるのは、どう事態を切り開くかに他ならぬ。それを考察する上で重要となるのは……基礎体力に優れているのならば、多少の躓きがあったとしても、取り返しは幾らでもつくという鉄則だ。世界最大の産業地帯と教育水準が高く遺伝的にも正しい億単位の人口を有している以上、焦りはまったく禁物というもので、下手に動いても事を仕損じるだけであろう。トルコ人が起こしてくれた騒乱についても、冷静沈着に対処していけば、じきに有利な形で決着させらえるはずである。
(それに加えて)
地中海沿岸の戦争に関しては、頼りになる同盟国が存在する。
こちらも一筋縄でいかないのも事実ではあった。カビの生えた迷信を後生大事にしている民族で、旧時代の産物たる教会の敷地や資産を有効活用しようとする度、信仰が云々とつまらぬ文句を連ねてくるので辟易とさせられる。一方で長靴めいた国土は統一感に欠けていて、それを理由にイベリア半島への出兵を躊躇したりもするのだが、頭の中身が奇妙なローマ帝国贔屓で汚染されている以上、アナトリアに対しては行動に出るだろう。
「そういえばイスタンブールに、ちょうどイタリヤの水陸両用艦隊があったな」
ギースラーは再び地図を見やった後、
「外相、かの国の状況について改めて教えてくれ」
「はい、総統閣下」
俳優然とした風体の、というより実際それに近い出自のブラウン外相が即応する。
「先日ご報告いたしました通り、ブルーノ統領はアナトリア方面への本格介入を確約いたしました。既にイタリヤ軍は動員を開始しており、およそ10万の兵力が展開される見通しです」
「補足いたしますと」
今度は国防軍最高司令部総長のミュラーで、
「フォルゴーレ空挺旅団麾下の即応連隊は既にイスタンブールに到着、サン・マルコ海兵師団の一部と合流したのを確認しております。またイタリヤ空軍の輸送機隊が本土とロードス島を往復しており、武器弾薬の事前集積が十全になされている同島を拠点として、爾後の作戦行動を……」
「総統閣下、緊急事態です」
突如として大音声が割り込み、詳細なる説明が遮られる。
ギースラーは猛烈に嫌な予感を覚えた。総統大本営における議事がこのような形で中断されるとすれば、何処かの馬鹿者が原子爆弾を炸裂させたとかいった事態が発生した場合のみであるはずだからだ。そうして司令部要員が慌ただしく駆け回り、テレビジョンの周波数がイタリヤ国営放送に合わせられ、大指揮所に居合わせた全員が愕然とした。
「い、イタ公ども、土壇場で裏切る心算かッ!」
「許さん、許さんぞッ!」
「ただちにローマを駐車場に変えてしてしまうべきでは!?」
陸海軍の長が揃って顔を紅潮させ、満腔の怒りに声を震わせる。
イタリヤの指導者が堂々と、何の恥じらいもなく、鋼鉄協約の見直しとトルコの新政権への協力を表明しているのだ。先程まで増援と認識されていた地中海帝国の軍勢は、この瞬間より敵対的な存在となるのだろう。それどころかアルプスの独伊国境まで侵犯される可能性まで出てきて、将軍達は気が狂わんばかりだった。
またこの緊急事態を察知し損じた者どもは、完全に硬直してしまっていた。
特に見事なまでの道化を演じていたブラウンは、綺麗なナチ式敬礼をきめて総統閣下万歳と絶叫した後、己が舌を噛み切ってしまった。一応は救急隊が駆けつけ、蘇生措置を行ったものの、まったく徒な結果に終わる。突如として針の筵に立たされることとなったクメッツもまた、近いうちに同じ運命を辿りそうであった。
(糞ッ、俺は逃げる訳にはいかぬのだぞッ)
ギースラーは歯を軋ませながら、どう対処すべきか思案していった。
イタリヤも原水爆で武装している以上、ローマを駐車場にするという訳にはいかない。それでもアンカラを一気に吹き飛ばし、原水爆戦争の恐怖によって伊蘇の介入を阻止するという選択肢は、検討に値するかもしれなかった。激怒に満ち溢れたる将軍達も、恐らく同意してはくれるだろう。
ただ何より以上に恐るべきは、東部戦線だろうと確信された。
アーリア人種および欧州文明の宿敵たるソ連邦は、この状況を最大限活用してくるに違いない。とすればいざとなったら、そちらについても先手を打ち、共産主義者の目論見を木っ端微塵にする必要があるはずで……決断によって齎される甚大という他ない被害の予測と、決断せぬ場合の更に地獄めいた展望が、ギースラーの精神を拷問めいて苛んだ。
おおよそ80年前に立案され、第一次世界大戦において惨憺たる結果を齎したシュリーフェン計画。その亡霊がここにきて蘇り、何千という原水爆を携え、笑顔で手招きしてきているようだった。
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