煉獄への階段③
アンカラ:官庁街
「政府が悪過ぎる。大統領は今すぐ辞任、政権を明け渡せ」
「物価は下げろ、賃金は上げろ。成せば成るんだ馬鹿野郎」
大統領府近傍に集った何万という群衆が、異口同音に絶叫する。
政治的混乱の続くトルコ共和国においては、デモなど年中行事のようなものかもしれぬ。とはいえ最近のそれは、加速度的に規模を拡大させていた。ある党が大々的に示威行為を行えば、敵対関係にある党も当然同じ手段を用いるからで、街角で出くわしたそれぞれの支持者が殴り合ったり撃ち合ったりと、政治絡みの事件も増える一方だった。
かくの如き状況に対し、時のアルブルン政権が無策だった訳ではない。
ただ案の定というべきか、選択されたのが恐怖と暴力であったりした。誰もが納得するやり方などないとかいった現実論をもって、それを弁解することも可能なのかもしれないが、まあ短絡的と評する他なさそうだ。
「ん、何だァ?」
隊伍を組んで叫んでいたうちの1人が、剣呑な者達の存在に気付く。
「お前等、準備はいいか? 俺はできてるぜ」
「もちろん。今日こそ思い知らせてやるんだ」
組合系の闘争的な連中が、早速投石の準備にかかる。
だが颯爽とその場に姿を現したのは、普段の治安警察隊ではなく、黒制服に覆面の悍ましき武装集団だった。古の時代の暗殺者集団を思わせる身なりで、まるで忍んでいないのが相違点だろうか。
「おい、あいつらまさか」
「構えッ!」
号令一下、StG54突撃銃が躊躇なく構えられた。
もちろんその後に起こったのは、情け容赦ない殺戮である。民の声とやらは発砲音に掻き消され、群衆はあっという間に壊乱。現場に残されたのは100を超える死体と、それ以上の数の負傷者で……何たる非道か、血を流しながら路上に蹲る者達を、黒制服が次々と射殺していくではないか。確かに経済学的に不可能な要求をする無教養なデモ隊だったかもしれないが、知能が劣っているから処分してよいなどという法は、ドイツくらいにしか存在しないはずである。
「野郎、何てことをしやがる」
庁舎で様子を眺めていた陸軍大佐が、やるかたない憤懣を表明する。
残虐非道の黒制服どもは、最近発足した大統領親衛隊に属していた。ドイツだかフランスだかに働きに出ていたはずの若いのが、何時の間にやら訓練を受けた末にかの組織に加わっていたりするのだ。もちろん陸海空軍とはまるで関わりがない。むしろ憲法秩序と自分達の立場を侵害する存在として、かねてから警戒していたほどだった。
そしてこの瞬間、懸念は目の前にある脅威へと変わった。
先の陸軍大佐は拳を握り、かの邪知暴虐の大統領を除かねばならぬと決意した。軍人には政治が分からぬやもしれぬ。それでも蹶起を断行せねばならぬのは明白で、急ぎ足で地下2階の通信室へと赴き、秘話装置の受話器を持ち上げた。
「もはや一刻の猶予もない。国民国家防衛のため、ただちにC号計画準備に移られたし」
イスタンブール:市街地
「つまり彼等は間もなく動き出し……それは貴国の与り知らぬことであると」
竣工間もない欧亜連絡橋を展望し得る一室に、相応の驚きを含ませた声が木霊する。
影の世界に生きる牧島中佐は、相手の顔色をサッと窺った。在トルコ英国大使館の駐在武官たるソマーズ大佐は然りと肯き、隠し事をしている雰囲気は見当たらなかった。微妙に張り詰めた沈黙。それを破るかのように、ブリタニア嬢の代理人は小ぶりなカップを取り、現地風の濃く淹れられた紅茶を優雅に口にする。
「まあ驚かれるのも無理はないでしょうし、そうした反応は少しばかり誇らしくあります」
ソマーズは苦笑気味に言い、
「とはいえまことに残念ながら、現在の我々がアナトリア地域に関して我々ができているのは……海峡委員会に人員を送り、行き来する艦船を眺めたりすることくらいのものですよ」
「なるほど、我々は似た者同士と」
牧島も平淡な微笑でもって応じる。
なお海峡委員会というのは、1936年に締結されたモントルー条約に基づきダーダネルス・ボスポラス両海峡の監視に当たる国際組織のことで、それからほぼ半世紀が経過してしまった今も、日英仏蘇の代表が名を連ねていたりする。第二次世界大戦においてトルコが明確に枢軸側に加担し始めて以来、ほとんど有名無実化してしまったところがありはしたが……同国の微妙な外交的舵取りの結果として、未だに解散だけはしていない訳であった。
「ただアナトリアにおいて軍事動乱が勃発するならば」
牧島は少しばかり眼光を澄ませ、
「イベリア半島の戦局を、一気に打開する好機となると考えられるのではないでしょうか。現に貴国の勇猛果敢なる将兵は、今この瞬間も、ビルバオにおいて未曽有の激戦を繰り広げておられる」
「確かにそう考える者も多くおりますよ、特に大西洋の向こう側には」
少しばかり転調させた声色で、ソマーズもまた同意する。
「ただこれは私見ですが、些か厄介な事態となり過ぎる。チャーチル首相の言葉に、中東の喪失はロンドンの喪失よりも危険だというものがありましたが、現状においては、ロンドンをベルリンと言い換えてしまえるのでしょう。であればアンカラにおいて政変が勃発した場合、新政権が中立の強化程度の要求しかしなかったとしても、ドイツ人は直接行動に移るでしょう」
「中立を蹂躙する伝統が、彼等にはありますからな。ただ……」
「ソ連邦もまた介入する、でしょうかな」
「ええ。ソ連邦もまた政治介入の伝統を有しておりますが、他に頼るところがない以上、そうならざるを得ないでしょう。現にトビリシの領事館で予定にない人事異動があったことくらいは、我々も掴んでおります」
それから少し間を置いて、カスピ海での機動演習も記憶に新しいと付け加える。
やたらと巨大な原子力水中翼船まで用いたそれは、いざとなれば真っ先にイスタンブールに赤軍を投じる用意があるという意思表示と見て間違いない。
「もっともドイツに二正面作戦を強いられるのであれば、相応の危険があるとしても、それ以上に大きな見返りも見込めるのではありませんか? 先程の議題にもあった通り、我々はどちらも……それから北米大陸の住人達も、アナトリアにはあまり関わり合えていない。それは経済関係においても当然同じでしょうから、単純に考えたならば、貴国はイベリア半島での軍事的圧力の軽減という実だけ得ることができる。最近ハリウッドで流行ったSF映画の台詞を用いるならば、勝手に戦えとなりましょう。まあ勝った方が次の敵になるかもしれませんが」
「仮にトルコ人がまた別のところから、援軍を得る心算だとしたら如何でしょうか?」
「というと……」
牧島は言葉に詰まり、思考を一気に加速させる。
頭の中に一帯の地図を描き、関係各国の利害関係と最近報じられたニュース、それから歴史年表を一気に追記していく。幾つかこれはと思うものもあったが、どれも決定打にならなさそうだった。物心ついて間もない頃には、第二次バルバロッサ作戦が発動しかけたこともあったそうだが、その経緯はあまり参考になりそうにない。
とすればもう少し時系列を遡り、現行の国際秩序が成立する前まで見通すべきなのだろうか。
かような考えの下、更に情報を追加していったところ、まさかと思える事例があった。大戦勃発の6年ほど前の1933年9月2日に、伊蘇友好中立条約が締結されていたのだ。鋼鉄協約から現在に至るまで、幾つかの例外的な時期を除けば、ベルリンとローマの関係は安定しているが……もしかすると決定的な亀裂が、水面下で生じているということかもしれない。その場合に焦点となるのも、ここイスタンブールだろう。モントルー条約締結の経緯と相反するようではあるが、イタリヤとトルコ、ソ連邦の潜在的な同盟関係は、かつてドイツを悩ませていたという。
そしてこれかと踏んだところで、牧島は改めて眼前の人物を見据えた。砂糖と蜂蜜が過剰なくらいに使用された菓子を頬張っていたソマーズは、ゆっくりと咀嚼した後、真剣な面持ちを返した。
「お分かりいただけましたかな。無論のこと、より大きな優位が確保できると考えることも可能でしょうが、複雑怪奇な事象をそこまで単純化できるのは植民地人くらいのものでしょう」
「お察しします」
米国人に対する感想を共有しながらも、牧島は憂慮を深めていく。
昭和45年の亜細亜原爆動乱の影響もあって、対独感情はおおよそ最悪という他ない。それでもドイツという国は、サラエボ事件直後のフランス侵攻が如実に示すように、条件が満たされると機械的に異常攻撃行動を開始するという悪癖を有している。その何割かは、地政学的な悪条件に由来しているのだろうが、イタリヤが離反にまで踏み切った場合、本当にろくでもない形でそれが再現される可能性がありそうだった。
(であれば、いったいどう対処すべきなのだろうか)
その疑問に答える権限は、牧島もソマーズも持ち合わせていなかった。
ただ前提となる情報が掴めていなければ、解決策が出てくるはずもない。また20世紀後半には原子爆弾が飛び交う危機が何度か起こったが、世界原水爆戦争のような最悪の事態だけは避けられてきた。とすればそこに希望を見出し、意志に基づく楽観を保つことことが、今は死活的に重要なのだろう。
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