月穿ちの大計・下
月面:静かの海
地球を発ってからほぼ3日。人類史に残る偉業が、今まさに始まらんとしていた。
すなわち月面への第一歩である。重厚なる宇宙服に身を包んだ合衆国空軍のミラー大佐は、イーグル着陸船のラダーを着実に降りていく。前人未到の表面は見たところ滑らかで、細かな砂が新雪のように塗されている。何処か幼げな興奮を覚えながら、彼はゆっくりと右脚を伸ばしていき、遂にはっきりとした足跡をレゴリス土壌に残した。
「この小さな一歩は、人類にとっては大きな跳躍となろう」
教科書に記されそうな台詞を口にしながら、全身に迸る歓喜を噛み締める。
船外活動は密なスケジュールが組まれているから、感慨に浸っていられる時間はそう長くはない。それでもアポロ10号を送り出してくれたすべての人々と、類稀なる運命を与えてくれた神に、何よりの感謝を表明せざるを得なかった。誰かがミスをしていれば、計画そのものが破綻していたかもしれない。あるいは世界大戦を生き残れなかったり、父母の選択が少しばかり違っていたりしたら、この場に立つ自分そのものがあり得なかった。
そうして低重力下での歩行を色々と試し、自分達の着陸を記念するプレートを設置した後、24万マイル彼方の青く美しい惑星へと視線を向ける。
望むことができるのはその片側のみで、しかも満地球とはいかない。それでも生きとし生ける誰もが、国家社会主義者であれ共産主義者であれ変わりなく、テレビジョン中継に釘付けになっていることだろう。第二次世界大戦が凄惨に過ぎる終わり方をして以来、人類という単位で物事を考えることの有用性は、もう際限ないくらい低下してしまっているが……この瞬間ばかりは、国籍や人種を超越した何かの存在を、それから憎悪と偏見の風化した果てに来る平和な未来を、僅かであれ信じられるかもしれなかった。
「さて」
現時点で月面最大の人工物を、ミラーは改めて眺め、
「ジョー、星条旗はそろそろかな?」
「もう少々お待ちを」
少しばかり甲高い声が、インターコムより響いてくる。
最年少にして紅一点のグッドウィン少佐のものだった。低重力下での星条旗の展張は、特筆すべき器用さとを誇る彼女をしてもなかなか困難なようで、その間ミラーは所定の作業をこなしながら待機する。
要した時間は、それからおよそ5分程度といったところだろうか。
恐らくは晴れがましい表情で、上手いこと地球を背にしながら、グッドウィンが恭しく星条旗を立てる。愛国的という他ない光景だった。先程抱いた感慨とは微妙に食い違う気もちょっとするが……ほかでもないアメリカ合衆国の総意が、この偉業をなしたのだから、別段問題ないだろうと思う。
「合衆国に51番目の州ができるとすれば……」
ミラーはそこで唐突に目を瞠り、
「うん、何だあの光は?」
「マイケル、どうかなさいましたか?」
「地球近傍の暗がりに、奇妙な点滅が見えた。まあ気のせいかな」
そう言って陽気に笑い、ミラーは偉大なる瞬間をカメラに収める。
ただ驚くべきは、まるで気のせいでなかったことだろうか。実際この瞬間、信じ難く巨大な飛翔物体が地球周回軌道に乗らんとしており……しかもそれは従来型のロケットと比べるとあまりにも異質な推進系を有していた。そしてその報に接した某局の名物アナウンサーは、興奮して以下の通り絶叫したという。
「糞ッ、何てこった! 記念すべき月面着陸に、ジャップが原爆ロケットをぶつけてきやがった!」
地球周回軌道:北太平洋上空
大東亜の期待を背負いたる原爆推進実験船『天照』は、離陸から7分ほどで第一宇宙速度を突破した。
燃料庫にずらりと並べられていた、出力0.3キロトンに抑制された指向性原子爆弾800発。推進剤と合わせ0.5秒間隔で投射されたるそれらの連続爆発が、5500トンというかつての軽巡洋艦を思わせる総重量を有する彼女に、必要十分な運動エネルギーを与えてしまったのだ。
あまりに常軌を逸した、暴挙と区別を付け難い快挙であったかもしれぬ。
とはいえ空中爆発痕を真珠の首飾りの如く棚引かせたる『天照』の飛翔は、途中でイタリヤの不運な人工衛星1基をお釈迦にしてしまったことを除けば、大方の予想に反して順調だった。平均2Gでの加速が終了すると同時に起動した、補機として搭載されたる原子熱ロケット推進系も、まったく問題なく水素ガスを噴射し続けた。かくして彼女は高度500キロの地球周回軌道に乗り、「天岩戸開く」という大変分かり易い電文が発せられたのである。
そして空軍所属の乗組員達は口々に成功を祝い、また将来の宇宙開発について語らい合う。ただ一番喧しい声で喜んだのは、急遽追加搭乗することとなった人物で……これが高谷代議士であることは言うまでもなかった。
「わはははッ、これが宇宙の無重力か! まったく長生きはするもんだ!」
「それにしても日本列島がよう見える、鳥栖はあの辺りだろうかね?」
プカプカと船内を漂いながら、高谷は心底上機嫌に朗笑する。
腕力でもって物事を進めることにかけては右に出る者のない彼は、誰もが呆れるようなやり方で宇宙行きの切符を強奪し……本業のことなどすっかり忘れて楽しんでいた。
「それに加えて、アメ公どもの悔しがる顏が目に浮かぶ。あいつらは今頃月面でよろしくやっているのかもしれんが、宇宙開発の将来性という意味では、こちらの方が重要に違いない。実際原爆推進ならば、火星だろうと金星だろうと自在に行き来できるとのことであるし、何より宇宙聯合艦隊が編成できるようになるだろう」
「まったくで」
追従を述べるのは、居住区画の責任者らしい榎本なる中佐。
「ところで先生、そろそろお戻りいただけないかと。その、規則ですので」
「ああ?」
高谷は目をぎらつかせて凄み、
「貴様、俺をお荷物だとでも言う心算か?」
「元々そういう名目でお乗り頂いておりますよね」
「ん、そうだったかな?」
都合が悪くなると途端に惚け、80過ぎだから記憶が曖昧だと言ってのける。
なお実際、高谷は員数外の貨物という扱いになっていた。原爆推進時の身体への負荷が思ったより小さく、また数千トンほどもある搭載量の大部分が鋼材やら貯水タンクやらで占められていると遅まきながら知った彼は、追加で1人くらい乗せる余裕があるだろうと、関係各所に押しかけて三日月刀を振り回し……貨物あるいは実験機材としてなら搭載可という回答を得た。
もちろんそれが最大級の罵倒を含んだ拒絶表現であったことは言うまでもない。
しかしながら高谷は、真に受けることで対処してしまった。元々危険を省みる性質でなく、余命も大して残ってはいまいと自覚していた彼は、上記の内容を受け取るや否や破顔。
「おう、乗れるのだったら実験用ネズ公の代わりだろうと問題ないぞ」
「キリスト様だって馬小屋で生まれたんだ、俺だって貨物室で構わねえ」
などと無茶苦茶を言い出し、見事に勢い付いたのだった。
そして一応の訓練課程も、年齢を踏まえれば異常としか思えぬ体力で乗り切ってしまった。結果、コクピットには立ち入らせぬ等の条件付きで、"搭載"の許可が下りたというのが事の顛末である。人で試す前に海兵隊員を用いるという冗談が、何処かの国にはあったりするが……帝国空軍はその何歩か先を行くことになってしまったようだ。
「しかしまあ、いいか」
すったもんだの末、高谷はようやく引き下がった。
「貨物室にも窓はあるし、同じく無重力であるからな。おい煙草はないか、一服したら貨物室に戻る」
「あの……」
休憩中の幾人かの失笑を背に、榎本はどんより呆れ果て、
「宇宙空間は火気厳禁です。煙草は残念ながら1本もございません」
「おい、どういうことだ? 酸素を消費しちまっても、搭載しとる原子炉のエネルギーでもって、二酸化炭素を分解しちまえるんじゃないのか?」
「先生、それは宇宙旅籠や軌道御殿が稼働するような未来の話です」
「ううむ、宇宙というのは思ったより……」
窮屈だ。あまりにも当たり前のことを口にしようとしたところ、唐突に胃がむかつき始めた。
典型的な宇宙酔いである。存在そのものは把握していたものの、たいていのことは気合で抑え込めると信じて疑わない高谷にとって、それはなかなか奇襲的に作用したようで……たちまち吐瀉物が居住区画に漂った。まったく迷惑千万という他ない。ついでに体調は帰還艇でマーシャル諸島沖に着水するまで回復せず、彼の初めての宇宙空間体験は、ゲロゲロな結果に終わってしまったのだった。
まあそれはともかくとして、これを機に列強間の宇宙覇権争奪戦は、一気に過熱していくこととなる。
月面着陸にぶつけられた米国は当然として、ドイツや英国、ソ連なども、踵を返すかのように原爆推進の実用化に向け舵を切る。数千あるいは数万トンという大質量を、一度に軌道上へと持ち上げられることが実証されてしまった以上、まったく自然という他ない成り行きで……酷く不安定なまま技術加速していく世界の辿り着く先は、現時点ではまるで分からない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます