米経済黄金戦略

ワシントンD.C.:ホワイトハウス



 紆余曲折はあれど、おおよそ四半世紀に亘って相対的低成長に悩まされ続けた合衆国経済。

 それが1972年の末頃には、転換点と呼べそうな好況に沸き始めていた。何が起因したかは、誰の目にも明白という他ない。すなわち旧大陸のあちこちでろくでもない紛争が連続し、相当数の原子爆弾が飛び交うなどした結果、日英独のいずれもが供給不足に陥ってしまい――ほぼその余波を被らなかった北米大陸に、それぞれが溜め込みまくっていた金準備を大幅に切り崩してでも、依存せねばならぬ事態となったのだ。


 もちろんホワイトハウスとヴィルヘルム街77番地は、未だに断絶状態にあったりもする。

 しかしながら早々に国交を回復したイタリヤや、第二次大戦中から中立国だったスペインなどを経由し、大規模な迂回輸出がなされ始めているのだ。こちらの主だった品目は原油と穀物。英軍の原子爆弾によってキルクーク油田が壊滅し、かつてはウクライナと呼ばれていた穀倉地帯で不可解な疫病が猛威を振るったりしたが故で、"銀の靴"運動などいって一揆を頻発させていた農民達も、このところは畑仕事に勤しんでいるようだった。

 つまり結果論ではあるが、星条旗の一人勝ち。ジュネーブの常軌を逸した格闘大会では、英国人が優勝を掻っ攫ったかもしれないが……真に漁夫の利を得たのはアンクル・サムという訳である。


「ただ大統領閣下、残念ながら現状では、長期的な対欧州輸出の回復は見込めないとの見方が主流です」


 財務次官のモンローは、鋭利なる眼光を煌かせて断じる。

 続けて執務室に響いた小さな肯きは、その上司たるコナリー財務長官のもの。苦節の末、遂に大統領の座を手にしたニクソンは、コーヒーを黙々と味わいつつ、彼等の説く内容に耳を傾ける。


「確かにドイツ人が東方領などと呼んでいるウクライナやベラルーシの穀物生産は、このところ目に見えて低下しております。炭疽症と類似した疫病が各地で猛威を振るい、駐留する武装親衛隊が好き放題に現地住民を殺戮して回った関係で、生産量は1970年比で52%まで下落。更には風評被害その他が加わり……我が国の小麦や石油を迂回輸出せざるを得ない状況に追い込まれてはおります。とはいえ……」


「日英、あるいはソ連邦の生物兵器という見方も、あるんだったかな」


 ちょうど一服し終えたニクソンは、あれこれ思い出しながら遮る。


「まあだとすると、ナチどもが報復に打って出てそうだが……まあいい、続けてくれ」


「はい。とはいえ穀物および油田については代替生産地の整備が急ピッチに進んでおり、また原水爆の量産と合わせた簡易原子力発電所の増強などもあって……大陸欧州の混乱は長くとも5年程度で終息すると見られます」


「なるほどな」


「それから大統領閣下、乗用車や通信機器、航空機といった先端工業分野から見れば、大陸欧州は依然として閉鎖市場のままとなっており……昨年、イタリヤとの通商航海条約がベルリンからの恫喝によって頓挫したことからも明らかなように、ドイツ人は我が国の工業製品を受け入れる気がこれっぽっちもございません」


 モンローはそこで若干の渋面を浮かべ、


「またこれは心苦しい限りの話ではございますが……価格競争力の面において、フォードはフォルクスワーゲンの後塵を拝しているようでして」


「よろしくないな」


 強烈な顰め面をしつつ、ニクソンもまた報告書を捲る。

 リスボンやマドリード、ストックホルムのいずれでも、合衆国産の製品の売れ行きは、ドイツ製はおろかお高くとまった英国製にすら及ばない。端的に要約すればそうした内容だった。あるいは大西洋航路の運賃のせいではないかとも思ったが、次のページにそれを否定する内容がかなり詳細に記述されていて、苛立たしげに舌打ちしてしまう。


 あるいはもしかすると、関税と憎悪によって守られているのは我々なのかもしれぬ。

 過酷なる国際環境を鑑みればまず間違いなく非現実的な仮定ではあるが、もし今になって自由貿易が復活したら、あっという間に北米大陸がハーケンクロイツ印で埋め尽くされてしまいそうだった。とすれば大変に拙い。先端工業分野での優位とはすなわち軍事力の優位であるから、このままでは"新大陸要塞"すら瓦解し……流行り過ぎて暴力沙汰すら頻発させた最近のテレビドラマのように、ナチと手を組んだメキシコ人が、旧領奪還を掲げてテキサス州へと雪崩れ込んできたりするかもしれなかった。


「まったく……本当によろしくない」


「大統領閣下、仰る通りです」


 コネリーが沈黙を破り、穏やかだが力強い口調で続ける。


「故に、決断の時は今をおいて他にありません。金本位制を離脱し、ドルの切下げと金融緩和を断行いたしましょう。さすれば割高であった我が国の製品も売れ行きが改善し、北米大陸を覆う暗雲も何事もなかったかの如く晴れましょう」


「ああ、つまりはその話かね」


 ニクソンは大きく嘆息した。

 それから私をルーズベルトにしたいのかと付け加える。世界恐慌に誰もが呻吟する中、「幸福な日々がまたやってくる」などという陽気な歌とともに歴史の表舞台に現れ、史上初の四選を遂げた後に永続的狂気に囚われてしまったかの人物は……今ではろくでなしとほぼ同義語となっている。金泥棒だの独裁者だのは序の口で、対ソ支援のために市民を戦争に引き摺り込んだ共産主義者なんて評価すら、ごく当たり前になされたりするほどだ。


 だが直後に飛び出してきたのは、部分的にであれそれを肯定する返答。

 びっくり仰天のニクソンは、思わずコーヒーを溢してしまいそうになった。そうしてエスピリトゥサント島の戦いで中指の欠けた右手でもって、カップをゆっくりと執務机に置いた後、改めて正気の沙汰かと尋ね直す。驚くべきことに、結果は変わらなかった。相対するコネリーの眼差しは、これ以上ないくらいに真剣で、この上ない確信を表情に滲ませる。


「大統領閣下、戦争を上手く遂行できたか否かと、経済政策が有効であったかどうかは、まったく別個の問題と考えるべきかと。確かにルーズベルト政権が招いた戦争により、我々は大きな犠牲を払うこととなりました。しかし大恐慌を脱却するに当たって彼の実施した諸々の経済政策、つまりは金本位制離脱に基づく平価切下げと通貨供給量の拡大、中央銀行の統制強化、集中的な公共投資による景気刺激といった方策は、当時の日英独のいずれにおいても実施されており……それら諸国は我が国と同様に景気が回復、一方で金に拘泥した仏伊は、最後まで不況を脱し得なかったという歴史がございます」


「だが裏付けのない通貨など、破滅的なインフレを招くだけではないかね? それこそ……」


「1923年ドイツの事例は、あまりにも有名かもしれませんが、あれは特異的な経済現象と解釈した方がよろしいかと」


 予期していたとばかりにコネリーは見解を示し、更に関連資料を追加する。

 物価が1兆倍になったのは、マルクの供給量を1兆倍以上にするという愚をライヒスバンクが犯したが故。その事実が、何とも分かり易く対数グラフに図示されていた。


「また第二次世界大戦が停戦を迎えた後の日英独は、戦後の狂乱物価を乗り切った後、インフレ率をバロメータとして通貨供給量を管理する政策で成功を収めております。1949年に列強で唯一金本位制復帰を果たした我が国と比べ、いずれも経済成長率は良好としか評しようがありません」


「ふうむ」


 ニクソンは不愉快そうに唸り、しかし報告書のページを少しばかり捲った。

 ちょうど目に付いたのは、技術革新やノウハウの蓄積などにより、長期的に見れば労働生産性は年平均2%ほど上昇しているとの説。それに人口増加率を乗算した数値と比べ、金準備の増加率は貿易赤字もあって低調で、すなわち本来的な経済規模の拡大にまるで見合っていないと結論付けられていた。


 ただそれならば何故、偉大なる先人達は金に通貨を連動させたのだろうか。

 口さがない経済学者達のように、未開時代の産物と断じるのは憚られる。とはいえなかなかピンとくる理由は浮かばなかった。物価の安定というのはあるにしろ、苦労して作ったものの売値が徐々に安くなっていくのでは、勤労意欲もなかなか上がらぬだろうとも思えてくる。


「黄金への執着が、かえって人々の輝きを失わせる……などということもあるのかね?」


「御明察の通りです、大統領閣下」


 コネリーの声が一気に熱を帯びる。


「すなわち我が国に本来備わるべき輝きを取り戻し、黄金時代を呼び寄せるには、まず黄金への執着を捨てねばなりません」


「ふむ」


 ニクソンは肯き、再びコーヒーカップを取った。

 そうして黒色の液体を飲み干しながら、ごちゃごちゃした思考を整理整頓し……十数秒の後に口を開いた。


「ちょいと議題を変えてみよう。先程のモンロー君の話では、対欧州輸出は率直に言って先がないとのことだったな。金本位制を離脱すればここでも地殻変動が起き、ナチどもが神経化学爆撃の謝罪と賠償をしてでも我が国の工業製品を欲しがるようになったりでもするのかね?」


「政治的にもそれはあり得ないかと。ただ……」


「何だね?」


「忌々しいジャップのダンピング製品を新大陸から駆逐し、東アジア一帯に経済的逆襲を仕掛けて奴等に吠え面をかかせることくらいは、十分以上に可能と見積もられます」


「ほう」


 右の中指を失った瞬間の記憶を蘇らせつつ、ニクソンは声を弾ませる。

 そうして先を話させた末に出てきたのは、一聞しただけではまるで意図の掴めぬ、利敵目的とすら思える手法。とはいえ詳細な説明がなされるに従い、彼の表情は獰猛さを増していく。

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