ペルシヤ湾大動乱・上

カフジ近郊:砂漠地帯



 黒き黄金を噴出せしめる油田は、洋の東西を問わず、熾烈なる紛争の種にもなっていた。

 故に係争地におけるそれともなれば、特段厄介なものともなる。例えば近年の調査の結果、北海に相当の原油・天然ガスの埋蔵量が確認されたが、軍用機や艦艇が頻繁に撃ち合ったりしていることもあり、油井の建設は遅々として進んでいない。一応、英独は最近になってようやく国交を回復させはしたものの、権益をどう分割するかといった議論は平行線のままなのだった。


 ペルシヤ湾岸のカフジなる地域にも、かような事情は当てはまった。

 第二次世界大戦に枢軸側で参戦したイラクが、英保護領だったクウェートを併呑したことを受け、それまで中立地帯とされていた一帯は、サウジアラビアの領土に組み込まれた。当時は遊牧民の通り道でしかなかったから、大した問題にもならなかったのだが……1950年代半ばに油田が発見されるや事態は急変。"旧領土返還"を要求する厚かましい放送がバグダッドより垂れ流され始め、それ以来緊張状態が続いているのである。

 そしてここ数か月、事態は更に悪化し始めていた。国境の向こう側に集結したおよそ10万の地上部隊が、頻繁に軍事演習を繰り返し、領空侵犯の件数も増大の一途を辿っているのである。


「とはいえ所詮、示威行為の類に違いありません」


 英印陸軍第15歩兵連隊のヒューズ少佐は、指揮戦闘車両の傍らで、甘ったるい紅茶で一息つきながら呟く。

 何かとざわめきがちなバルチスタン出身の下士官兵とは対照的に、補給参謀として勤務している彼は、ひたすら冷静に状況判断している心算だった。


「神は天にいまし、すべて世は事もなし……といったところでしょうか。何にせよ、連中の狙いはこちらを疲弊させることにあるようですから、どっしりと構えていればよいかと」


「ふゥむ、そんなものかね」


 作戦参謀のバーンズ中佐は、昼行燈という渾名の通り、これまた能天気な口振りだ。


「まあ物資集積が不十分なままなのだから、攻めてこれやせんのだろうが」


「本当に連中が侵攻してきたら、自分は鼻からスパゲッティを食べますよ」


 ヒューズは自信満々に断じ、分析の根拠を再確認する。

 アラブ国家社会主義を標榜するイラクはこのところ、軍の近代化にやたらと注力しており、ドイツ製のレオパルト戦車で固められた機甲師団を有していたりする。故にサウジアラビアやカタール、バーレーンといった湾岸諸国にとって、またそれら国々の安全保障を担っている英国にとって、大変な脅威となってはいた。


 ただ機械化充足率の高い部隊というのは、それだけ多量の物資を必要とするものだ。

 相手は産油国であるから、燃料に関してはまったく問題ないのかもしれない。それでも航空偵察の結果やスパイからの情報などを総合するに、弾薬は0.3から0.4会戦分しか保有していないと見積もられた。かような状況で侵攻を開始しようものなら、結果は見えているとしか言いようがなく、フサインだかいう指導者の気が狂いでもしない限り、戦端が開かれる可能性はないのである。


「つまりは……」


「な、なんだァ!?」


 訛りのきつい英語で、付近にいた色黒の下士官が叫ぶ。

 相当に目聡いらしい彼が空の一点を指さした瞬間、猛烈に甲高い音響が到来した。音源はあからさまなまでにジェット機で、その特性から判別するならば、イラク空軍が150機ほど導入したイタリヤ製のG.88軽攻撃機だった。


「えッ、どうして……」


「少佐、当てってのは外れるもんだ」


 動揺が走りまくる中、連隊長のタウンゼント大佐が乾いた声で言った。


「世の中の人間が君みたいに賢明な訳ではないし、故に奇襲効果も生じたりするから、こんなことにもなったりもする。ああ、鼻からスパゲッティは食わんでいいから、その分仕事をしてくれな」


「ア、アイサー」


 まったく条件反射的にヒューズは反応し、何とか正気を取り戻した。

 ともかくも部隊はただちに臨戦態勢に突入。事前に拵えておいた半地下陣地に逼塞し、直後に始まった長距離ロケット砲撃に抗堪せんとする。実際それは鉄の暴風と呼ぶべき熾烈さだったが、見た目ほどは打撃力を有さぬもので、将兵の人的損害はほぼ皆無とすることができた。


 それから補給面からの分析は、火蓋が切って落とされるか否かの予測には失敗したものの、その後随分と役立った。

 すなわち敵は相当な無茶をやっており、先鋒以外はまともな戦力となっていない可能性が高い。第15歩兵連隊はかくの如き予測の下、越境してきた5倍超の戦力を相手取っての防御戦闘を展開。リヤドの英中東軍司令部から後退を命じられるまでの間に、イラク共和国親衛隊最強とされたハンムラビ師団を半壊させてしまうのだから、まったく歴史的な粘り強さという他ない。





ホルムズ海峡:ハッサブ沖



「あー、遂にアラビアで戦争が始まっちまったと。船長、どうすっべか?」


「本社からの指示はまだじゃけど、これじゃバーレーンに近寄れそうにないのう」


 8万トン級の原油タンカー『東亜丸』。その船橋にて、乗組員達が話し合う。

 ラジオが伝えるところによると、イラク空軍機がサウジアラビア各地を空襲しており、また短距離弾道弾があちこちに撃ち込まれているとのこと。お陰でダンマームの石油積出港で大規模な火災が発生し、さっぱり鎮火の目途がたっていないというから凄まじい。


 なお目的地たるバーレーンは、今のところ局外中立姿勢を取っているようだった。

 とはいえその近傍で戦火が広がっている訳で、何時そちらに飛び火するかも分からない。実際、同国の軍事力は大した規模ではないから、空挺部隊が降下してそのまま占領ということも考えられる。あるいはそこまででなくとも、イラク海軍艦艇に拿捕されるという可能性もある訳で、ともかくも近付き難いことこの上なさそう雰囲気だ。


「となれば一旦、アブダビかドバイの沖にでも……」


「船長、本社からです」


 無線士が用紙を片手に飛び込んできて、


「ドバイ沖に避退し、無期限待機。泊地については現在調整中とのことです」


「うむ、君子危うきに近寄らずじゃの」


 川村船長はそう応じ、少しばかり安堵の息をついた。

 とはいえ安心するのはまだ早いかもしれない。最悪の場合、イラク軍はオマーン沖にまで攻撃の手を広げるかもしれないし、そうでなくとも各国のタンカーでドバイ沖はごった返すだろう。となれば海難事故を起こさぬよう、最大限の注意をする必要がある訳で……ともかくも安全第一と思った矢先、猛烈なる衝撃が船体を駆け抜けた。


「うわあッ!」


「な、何事だッ!?」


 悲鳴が幾つも木霊する。身体を壁面に叩きつけられ、川村も苦痛に呻く。

 ただ彼は状況をすぐさま察した。『東亜丸』は被雷したのだ。どうにか身を起こし、甲板の様子を伺ってみれば、左舷中央より黒煙が上がっているのが目についた。


 不幸中の幸いと言うべきは、命中した魚雷がさほど大威力のものでなかったことだろうか。

 往路であったため原油は搭載してはいないし、タンクの幾つかが駄目になった程度と推測された。何より重要となるのは乗組員の生命だが、こちらも軽傷者が数名といったところ。戦時中に乗り組んでいた標準船であれば、これで致命傷だったかもしれぬと思うと、文明や産業の進歩に感謝せざるを得なかった。


(とはいえ、当面は商売あがったりじゃの)


 状況確認と無線連絡を急がせながら、川村は唸る。

 雷撃を仕掛けてきたのは、イラク海軍の小型潜水艦に違いない。つまり彼等はサウジアラビアへの侵攻と同時に、ホルムズ海峡の封鎖まで仕掛けてきたということで……経済的な打撃は相当なものとなりそうだった。大東亜共栄圏では原子力電源整備が急ピッチで進められているものの、現代文明とはやはり石油なしには成り立たぬものなのだ。





マスカット:高級ホテル



 泰平が過ぎて極楽鳥になっている。かような一部の評判を覆すように、帝国空軍の反応はまあ迅速だった。

 大型タンカーの『東亜丸』の被雷が報じられるや、老骨に鞭打って就任したばかりの賀屋首相は大変に激昂。アラビア砂漠上空で熾烈な空中戦が繰り広げられる中、富嶽改およびその後継機たる蓬莱をもっての長距離爆撃が敢行され、対輻射源誘導弾の一斉射撃でイラク南部の防空網を麻痺させることに成功したのである。


 もちろんそれで収まるくらいだったら、最初から戦争には至っていないだろう。

 実際それから数日のうちに、義勇航空団を称する連中が手薬煉引いて待っていたとばかりにバグダッド入りし、戦闘は激化の一途を辿った。故に仏印有事に備えて現役復帰した戦艦『武蔵』を中核とする水上艦隊を送り込み、英軍と共同でペルシヤ湾の制海権を確保する運びとなった。世界最大の産油地帯たる湾岸地域がこんなあり様では、諸国の経済混乱は必至――というより既にあちこちでパニックが起きていたくらいだったから、ともかくも早急に事態打開を図らねばならぬのである。

 そして軍事的な動きと同期して、何とか油送を継続する算段を立てるべく、政治家達も動き出していた。そんな中には、衆院の喧嘩翁として名高い高谷代議士の姿まであったりするから驚きで、しかもそれが結構効いているようだった。


「いやァ、こういう状況では何処の国も苦しいのですよアドミラル」


「無論それを承知の上で、こうしてお願い申し上げておるのです」


 宮殿の広間が如き一室。そこに集いしオマーンの首長等を相手に、紋付袴姿の高谷は深々と頭を垂れる。

 かつてのペルシヤ湾作戦の無茶苦茶な顛末は、この辺りでは随分と伝説的に語られていたりする。ならば己が名声を活かすべき時は、今をおいて他にないという訳だった。


「私からもお願いいたしますよ」


 助け舟を出してくれたのは、三日月刀の縁あるバーレーンの皇太子。


「米国の方が高い代金を提示している、ということかもしれません。しかし大東亜共栄圏には大勢、イスラームの教えに帰依した者が住んでいる。その数およそ1億5000万人。ここで損をしたとしても、それは彼等への何よりの喜捨となりましょう」


「なるほど、なるほど」


 首長は考え込む。思案している振りなのかもしれないが、ともかくも懇願する他ない。

 ホルムズ海峡が機雷や潜水艦で封鎖されるかもしれぬ。そんな懸念からアブダビとマスカットを結ぶパイプラインが建設され、最近になってようやく稼働を始めた。絶対的な油送量ではまるで足らぬとはいえ、そのうちの1滴でも多くを確保することが、今や至上命題となっているのである。


「であれば些かばかりの……」


「おい、貴様等動くなッ! 動いたら殺すッ!」


 原油購入の交渉は突如、敵意満ちたる罵声に蹂躙された。

 見ればチェコの短機関銃で武装した兵隊が、入口にずらりと並んでいるではないか。これは如何なる狼藉かと、高谷はすぐに三日月刀を抜きそうになったが、流石に多勢に無勢と思って踏み止まった。使用人の悲鳴が今になって響いてきた辺り、ホテルの関係者が内通している公算が高いから、下手に動くのは危険だった。


 そうして抜け縄の態勢で縛られながら、高谷はどうにか様子を伺っていく。

 眼前の悪漢どもは恐らく、現役の陸軍将兵に違いない。とすればイラクの動きに便乗して、軍の不満分子が政権転覆に動いたということか。実のところそれは正鵠を射た推測で、しかも数時間後にマスカットの制圧と臨時政府の樹立が宣言されるなど、中東情勢はいよいよ混迷の度を増していく。

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