泰仏紛争再燃前夜

マラッカ海峡:メダン沖



 太平洋とインド洋とを結ぶ、海上交通の要衝たるマラッカ海峡。

 様々なる製品を積載した船舶が年に万も行き交うそこは、歴史的に見ても海賊の巣窟と呼ぶべき海域であった。もちろん海洋秩序を維持せんとする列強は、万国共通の敵なる者どもを除くべく努力を重ねていて、今も旭日旗を掲げた駆逐艦が定期的に一帯を巡回していたりする。それでも複雑怪奇な生態系を有するそれらの根絶には、未だ程遠いというのが実態だった。


 加えて著しく面倒なのは、地域に責任を負うべき国が、悪党どもを幇助していたりする現実に違いない。

 植民地主義の全盛期にあって東南アジアで唯一独立を守り抜き、大東亜戦争では見事戦勝国となり遂せたタイ王国。ビルマやらマレーやらの旧領土を奪還し、また独自の富国強兵路線をひた走って鼻息の荒くなったかの国は、アジアの猛犬やら共栄圏の問題児やらと暗に言われていたりする。しかも間もなく起爆式を迎えるクラ地峡運河の有効性を喧伝するため、インドネシア連邦からの離脱を唱える急進的アチェ独立派への"道義的支援"をやって、海峡を航行する船舶を襲撃させたりしているのだ。


「なるほど、あいつか」


 偽装小型漁船に船橋に陣取った海賊棟梁のモハメドは、双眼鏡でもって狙いを定めた。

 匿名での無線連絡があった通り、1万トンほどの貨物船が、夕陽の海原を案外ゆっくりとした速度で航行している。積荷は主に穀物とのことで、大勢の同胞を養える量だ。しかも異教徒の持ち者を有効活用してやるのだから、アッラーもお喜びになるに違いないと、信心深い彼は思った。


 ただ獲物が指呼の先にいるからといって、功を焦ってはならない。

 あまり仲が良好でなかった連中の話ではあったが、誤って満洲のタンカーを襲撃してしまい、手痛い反撃を食らった例がある。とすれば眼前の船舶を本当に狙ってよいか、慎重に見定めることが重要だ。モハメドは暫く観察を続け、船尾にフランス三色旗が掲げられていること、船名と船籍港が事前に知らされていたそれと一致することを確認した。


「棟梁、どうでやすか?」


「朗報だ、こいつで間違いなさそうだ」


 モハメドは上機嫌に応じ、


「コモドドラゴンを放てッ」


 と何とも豪快なる大音声で命じた。

 それは麾下の襲撃艇を意味する符牒だ。島陰に潜伏していたタイ製武装モーターボートの群れが、白波を蹴立てて進んでいく。対象船舶を取り囲み、獰猛に食らいついていく様は、まさに大型肉食爬虫類さながらだった。


 そうしてモハメドは自身の座乗する船の偽装を解かせ、急ぎ狩場へと向かわんとする。

 結果論的には、それは致命的な失敗だった。彼の観察眼がもう少し優れていたならば、あるいは回避を選択できたかもしれないが――貨物船は予想以上の武装をしていたのだ。船体各所より野太い光弾が連続的に発射され、20㎜級と思しき弾雨により、部下の乗る舟艇がたちまち蜂の巣になっていく。


「う、嘘やろ」


 あまりに惨憺たる光景に、モハメドはガックリと膝をついた。

 直後、白煙とともに何かが射出され、数秒後に彼の心身は爆発四散した。携行式発射基より放たれたドイツ製対戦車ロケット弾が、有効射程外であるにもかかわらず見事に命中したためで、絶望に苛まれる前に死ねただけ幸福かもしれなかった。


 そうしてフランス船籍の貨物船は、波間に浮かぶ海賊達が悉く射殺された後、何事もなかったかのように航行を再開した。

 カムラン湾へと向かうそれの正体については、まあおおよそ予想がつくだろう。このところ広西や雲南などでは、暴動やら武装蜂起やらが頻発しており、武器弾薬の供給源が仏印にあると見られていた。いずれそれが自国領内に波及するのではと懸念していたタイの軍事政権は、武器弾薬の密輸や戦闘要員の移送に絡んでいそうな船舶を幾つか見繕い……考えなしで欲深な海賊達が、それらを襲撃するよう仕向けていたのである。





泰仏国境地帯:ソンパミット滝付近



「助けて、助けてください! 何でもしますからッ!」


「坊主、いったいどうしたんだ?」


 タイ王国陸軍第6師団のプラヤー軍曹は、幼き国境侵犯者を何とか宥めんとする。

 思春期を迎えたくらいの、息子と同じくらいの年嵩だろうか。森林地帯を駆けてきたと思しきカンボジア人の少年は、酷く憔悴して錯乱気味で、恐怖に引き攣った面持ちをしていた。すかさずポケットから菓子箱を取り出し、これを食ってから話せとマンゴー味のキャラメルを手渡す。すると緊張はは少しばかり和らいだようで、この顏が鉄条網に絡み取られなくてよかったと心底思えた。


「坊主、落ち着いたか? まず、名前を教えてくれるかな?」


「ロン」


「じゃあロン、何処から来たんだ?」


「白人の村から逃げてきた。あそこは悪鬼どもの住む地獄なんだッ!」


 ロンはまたも顔を強張らせ、亡霊に憑かれたかのように痙攣し、とにかく助けてくれと訴え始める。

 いったいどういうことだろうか。国境の数十キロほど向こう側に、"尊厳開拓村"などという名の原始キリスト教系入植地が築かれていることは、プラヤーの知るところではあった。鬱蒼とした熱帯雨林をやたらと熱心に開墾し、身寄りのない子供なんかを受け入れてせっせと畑仕事に精を出し、地元住民に無償の医療すら提供している。評判はおおよそそんなところで、白人の植民地主義と絡み合った宗教に良い印象がなくとも、文句のつけようはなさそうだった。


 ただそうした一方で、相当にとんでもない噂も耳にしたこともあった。

 集落の指導者なるシーファーなる神父は、特殊というか異常かつ逸脱的な性癖の持ち主で、年がら年中男児に性的暴力を振るっているという内容だった。しかも恒常的に危険薬物を注射したり、頻繁に電気ショックを用いたりしているという具合。ほぼ流言飛語の類にしか聞こえず、また何故女児ではなく男児を歯牙にかけるのかさっぱり理解できなかったので、あるいは何かちょっとした事件が極端に誇張されたかしたのだろうと捨て置いてきたのだが……あまりの怯え方からするに、案外と本当のことなのかもしれないとも思えてきた。

 それから入植地では労働奉仕の免除と引き換えに、軍事訓練らしきものが行われている。ロンのあやふやだが真に迫った証言から、そんな実態が朧気ながら浮かび上がってきて、何やら拙い事態に発展しそうな気がしてくる。


「まあいい、とにかく少年を後送しよう。ガイ、無線機だ」


「はい……あばッ」


 無線手の断末魔が、甲高い銃声とともに木霊した。


「敵襲ッ!」


 咄嗟に大音声で叫び、ロンを庇って遮蔽物の陰に身を隠す。

 轟音とともに降り注ぐ弾雨。鉄条網の向こう側には、何時の間にやら凄い数の入植者が集まっていて、しかも揃いも揃って武装している始末であった。脱走者を絶対に逃がさぬという狂気じみた気迫が、ひしひしと伝わってくるようだ。


「糞ッ、本部に繋げ」


 プラヤーは命令し、敵襲の報告と応援要請はどうにか電波に乗った。

 ただ状況はまったく危機的だった。正規の訓練を受けた訳ではないからか、個々の入植者の戦闘技能は大したことはなかったが、どうあっても多勢に無勢。とすれば三十六計逃げるに如かずとするしかなさそうで、彼は迫ってくるそれらを銃撃で足止めしつつ、何とか脱出の機会を掴んだ。


 そして怯え切ったロンの手を引き、森林の中へと急ぎ避退しながら、忌まわしき戦闘風景を思い出した。

 襲ってきた者の何割かは、精々が十代半ばと思しき子供のようだった。つまり外道神父は年端もいかぬ少年達の尊厳を蹂躙し尽くした挙句、思考を操縦して私兵に仕立て上げていたという訳で……かような者どもの存在は絶対に許さぬと、プラヤーは大変に父親らしい憤怒を滾らせた。





バンコク:市街地



「ニュース速報をお伝えします。仏印政庁のアルベール総督は先刻、停戦監視団受け入れについて声明を発表」


「一方で衝突の契機となったスララウ事件について、フランス側は依然として関与を否定しており……」


 殺風景でヤニ臭い雑居ビルの一室。そこにはタイ国営放送のラジオと、旧式扇風機の動作音ばかりが響いていた。

 書類登記の上では、大東亜能率研究所という企業の事務所とされている。とはいえその実態は、"七支"などと呼称されたる特務機関の拠点であった。傍目には窓際族専用部屋にしか見えぬし、実際そういう用途に用いられていたこともあるそうなので、その筋の者にとってはなかなか好都合な空間だった。


 そうした中で"総務部長"の雲大佐は、黙々と文章を作成していく。

 貧乏臭くするのも擬装手段ということなのか、非効率で故障がちな扇風機を買い替える予算が下りず、室内はかなり蒸し暑い。それでも中央からは早急な報告が求められているから、不快感を煙草で紛らわせ、ひらすらに業務に邁進する。泰仏国境地帯で勃発した紛争は、双方が回転翼機やジェット戦闘機を繰り出す大規模武力衝突に発展したこともあって、タイ王国軍内ではインドシナ全面侵攻計画が議論され始めている。


「先の事件が如実に示している通り、白人主義者の横暴はもはや看過し得ぬものとなっております」


 何時の間にか始まっていた討論番組にて、インド戦線の英雄将軍なる代議士が獅子吼する。


「であれば今こそ、幼子すら歯牙にかける悪しき白人勢力をアジアより放逐すべき時でありましょう。忌まわしき者どもから旧領土を奪還し、インドシナ半島全域を共栄圏に組み込むべきでしょう」


「とすると戦争ですか。将軍、勝算はあるのですか?」


「無論。我等が国王陛下の軍は精強で、それだけの実力を疑いようもなく有しておりますぞ」


「ははッ、清々しいまでの猛犬振りだ」


 自ずと苦笑が漏れる。

 ただこちらには噛み付かぬし、独仏の怪しからぬ工作にすぐ勘付くなど、確かな嗅覚を有する猛犬だ。大変な失礼を自覚しながら雲は思った。大英帝国の分割統治さながらの悪辣さではあるが、タイがある程度横暴に振る舞ってくれているお陰で、マレーやインドネシアの人民の反目が日本へと向かぬという役得もあった。


 また先程の英雄将軍というのは、現政府高官や軍と相応の繋がりのある人物だ。

 旧領土の奪還とインドシナ半島全域の共栄圏への組み込みという表現は、明号発動をこちら側に促すものとも解釈できた。かつてヴィシー政府崩壊に備えて立案されたそれは、仏印政庁および駐留フランス軍を一気に武力処理してしまうという内容で……大東亜戦争が終結して20年以上が経過した今も、作戦計画としては存在し続けているはずである。


(とすれば……)


 雲は十数秒ほど思案し、表現をより踏み込んだものに変えた。

 それから鉛筆を運ぶ手を少しばかり休め、評価済みの写真に改めて目を通した。ちょっとした気分転換を兼ねた所作だったが、その瞬間、彼の背筋を言いしれぬ悪寒が走る。より事態は深刻かもしれないと、否が応でも考えざるを得ない代物が、写されていたように見えたのだ。

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