人間拡張主義の夢
モスクワ:レーニンスタジアム
10万を超える人々の熱気が競技場全体を包み、建物自体が歓喜に震えているようだった。
モスクワ川の畔に聳える、ロシヤ最大の規模を有するレーニンスタジアム。そこでは十月革命より半世紀の年となったのを記念して、世界友好体育大会が盛大に開催されていた。ベルリンを最後に国際オリンピックの伝統は途絶え、委員会もとうに解散してしまったが……かつてのそれに匹敵するような一大行事を挙行することにより、ソ連邦の国威と復興の度合いを示さんとする意図もあるようだった。
もっとも参加国は30程度と、正直なところ多いとは言い難い。
しかもそのうちの9か国はカザフやアゼルバイジャンなどソ連邦構成国で占められており、更に名目上は無国籍のなになに団などが多数と、ものの見事に水増しがなされている。他には日満にトルコ、イランなどといった具合で、スウェーデンとスイスを除く大陸欧州諸国の選手団は影も形も見当たらぬ。それ故、国際大会と銘打たれているものの、少々おざなりな雰囲気が払拭し切れていない感があった。
それでも正々堂々のスポーツマンシップが発揮されるのであれば、必ずや感動と興奮があることだろう。かような期待とは裏腹に、どの試合も奇妙なほど一方的な展開となっていた。
「いや、流石にこれはおかしくないか?」
1600メートルリレー走の様子を眺めながら、予備役の鳴門大佐は首を傾げる。
海軍で就ける役職がなくなってきた彼は、相応に達者な露語力をもって商社に潜り込み、情報活動を兼ねたような商売をしていた。それ故、何か収穫があるかと思って体育大会を見物していたのだが……目の前でとんでもないことが起きているのだ。
「ロシヤ、カザフ、タジクの順でゴール!」
「タイムは2分53秒35ッ! 世界新記録だッ!」
解説員の絶叫し。疾走し終えた選手が仲間に迎えられ、空が割れんばかりの大歓声が響き渡る。
米国チームが3分の壁を打ち破り、話題を総なめにしていたのが少し前。いきなりそれを6秒ほども縮めてしまったのだから、大変な記録であるのは間違いない。
ただそんな驚天動地の結果が、次から次へと出てくるものだろうか。
実際、カザフやタジクのチームまで2分台という恐ろしさで、祖国や盟邦の走者達はまるで揮っていない。しかもこうした傾向は、他の種目でも頻繁に見られていて、とにかくソ連邦の独壇場とばかりの状況だ。あからさまな反則が見て取れる訳でもなく、ホスト国の選手は様々な意味で有利とも言われはするが……やはり何かがおかしい気がしてならない。
「これこそが科学の勝利だ」
隣席に何時の間にかいた、同業者らしき男が無感情に呟く。
「きっとそんな風に、内々に喧伝されることとなるんでしょうな」
「ソ連邦はこのところ、スポーツ医学なるものに力を入れているのでしたっけ。熱血のバンカラで頑張るのでなく、人間そのものの研究に基づく鍛錬を積み重ねているとか。ただそれにしても人間離れしてますね」
「ははは、人間離れですか」
男は生々しい感情を滲ませた苦笑をし、
「まさにその通りかもしれません。何せスポーツ医学というものの定義も、ソ連邦と諸外国ではだいぶ異なっているようで。ああ、その意味では、栄冠に輝いたソ連邦スポーツ選手の今後を追うべきかもしれません」
「ふぅむ」
いったいどういうことだろうか。名の知らぬ男は去り、鳴門は改めて選手の姿を眺める。
外見的にどうというのは、傍目にはまったく分からない。あるいは人間離れという言葉が、特殊な手術や薬物投与などでもって選手を改造しているとかいった、非倫理的行為を意味したりでもするのだろうか。
(いや、まさか漫画ではあるまいし)
鳴門は己が妄想を打ち消し、次の種目に注目することとした。
ただ相変わらずその後もソ連邦の快進撃は続き、記録は片っ端から塗り替えられていった。事実は小説より奇というが、本当にその類なのかもしれない。大戦時の記憶を蘇らせながら、彼はぼんやりと思うのだった。
スヴェルドロフスク20:秘密研究所
「おおッ、球技でも上手くいっているようだ。素晴らしい、同志書記長もお喜びになるだろう」
テレビジョンの画面を眺めながら、ルイジンスキー教授は欣喜雀躍とした。
今まさに中継されているのは、世界友好体育大会のサッカー競技。生まれついた時からボールが友達だったと言わんばかりに、尋常ならざるドリブルを決めるグルシャコフ選手が、強豪スウェーデンを相手にまた新たに得点を決めた。これで試合は4対0で、まだ前半戦なのだから凄まじかった。
ただルイジンスキーはサッカーに詳しくなく、手を使ったら反則くらいの認識しか持っていなかった。
それでも至上の喜びに震えているのは、この閉鎖都市で進められている総合研究の成果であるが故であった。最先端の医学と生化学によって肉体を大幅強化し、集中力を極端なくらい高め、いずれは脳外科的手法によって知能や感覚すらも拡張させ、全人民の生産性を一気に向上させる。そうしたフョードロフやツィオルコフスキーが夢見ていたであろう宇宙主義的世界観を現実するための第一歩が、今まさにレーニンスタジアムにおいて盛大に踏み出されているのだから、まったく喜ばずにはいられない。
「いやはや、スポーツ医学なんて馬鹿なものだと思っていたが、かくも人民の幸福に繋がるとは思わなんだ。素敵過ぎて涙がちょちょ切れになってしまうわい」
「ええと、教授」
新任の政治委員なるシゾフは思い切り眉を顰め、
「レポートを読んだ限り、肉体への負荷が結構あるようでスけど、いいんスかそれで?」
「あ? 頭が悪い癖に知ったようなを聞くんじゃない。いいに決まっているだろう」
喜びに水を差され、ルイジンスキーは一気に不機嫌になった。
「スポーツ選手なんてのは本質的に穀潰しだ。国威発揚になるからって理由で国が育ててはいるが、おおよそてめえの欲求にしか興味のない人民の敵みたいなものだ。何故なら奴等が徒競走で勝ったりバスケットに玉を入れたりしたところで、空から小麦や肉が降ってきたり、鉄鋼生産が増大したりする訳ではないからな。そんな連中を使って人民の幸福を実現しようというのだ、党としては万々歳であるはずで、文句などつけようがないはずではないかね? だいたい見ての通り連戦連勝しまくってもおるだろうが」
「いやでもスポーツって正々堂々やるもんだと。それに薬品漬けだと選手が早死にしちまいそうなんスよね」
「黙れスカタンが!」
ルイジンスキーは更に憤り、語気を強める。
何時の間にやら、少年時代のことが思い出されてきた。健全なる肉体には健全なる魂が宿るという言葉があるが、記憶にある限り、他人に公然と暴力を振るったり金品を巻き上げたりするロクデナシばかりなのが実態だった。特に故郷の村にいたセルゲイというコサック気取りは最悪で……私憤を義憤に変え、研究の意義を改めて脳内で反芻した。
「いいか、スポーツ選手なんてのは所詮つまらぬ消耗品に過ぎぬ。それでいてなりたがる奴は幾らでもいて、勝つためであれば何だってやるような連中なのだ。であれば私はそやつらの願いを叶えているとすら言える。まあ体育大会の後に死んじまう奴が何人か出るかもしれんが、実験結果が積み上がっていけばそのうち死んだりしなくなるだろう。それに引退したスポーツ選手なんてのは、かつての思い出を抱えただけのゴロツキでしかないのだから、美しいまま死ねるなら幸福ですらあるんじゃないかね?」
「ええ……」
「ええだのああだのと、動物みたいな鳴き声を上げるんじゃない。ともかくもこの増強人間計画は、党本部によって正式に定められたものなのだ。邪知暴虐の糞ったれドイツ人とその手先どもと対峙する以上、人民そのものを増強することが我がソ連邦にとって決定的に必要となっているのだ。曲がりなりにも政治委員である貴様が、それを把握しとらん訳ではないだろう?」
「は、はい……了解したっス」
「よろしい。ならば貴様も、我が増強人間達の活躍をとくと見届け、増強技術が全人民に行き渡った時代を想像せい」
ルイジンスキーは早口で捲し立て、それから己が言葉を踏んだ。
集中力を極めた工員が高度な機器を製造し、筋力を強化された炭鉱夫が多量の石炭を掘り出していく。1人で5人分くらいの活躍をする兵隊が生まれ、社会を乱すアルコール中毒者は勤労精神旺盛なる農夫へと変わる。大嫌いなスポーツ選手どもが実験台となって、こうした輝かしい未来が実現するのであれば、本当に一石二鳥という他ない。彼にとってかような未来予想図は、最高級のウォッカよりも甘美に感じられた。
そしてそれこそが、"レッドコスモス"の提唱する社会であるはずだった。
数千万の生命を喪わしめた独ソ戦により、急激なる社会構造変化を余儀なくされたソ連邦。人類の後天的進化と能力拡張を掲げるかの勢力は、すべての共和国において着実に勢力を伸ばしており……いずれ共産党中央にまで影響が及ぶに違いない。そうなった暁には、シゾフのような時代錯誤的人間は真っ先に矯正手術対象となるはずで、一刻も早くそんな時代を招来させねばならぬと、ルイジンスキーは露ほどの躊躇もなく思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます