狂気のタンポポ作戦計画⑥

ヴィンニッツァ近郊:総統大本営



「おい、いったい何がどうなっているのだ!?」


「事態は急を要する、早くしないと手遅れになってしまう」


 手の施しようのなさそうな混乱が、西ウクライナの大地下施設に巻き起こっていた。

 新たなる対ソ侵攻が発動される直前に、特大の摩擦が生じていたためだった。事実、ブルガリヤが理解し難い軍事的冒険主義に打って出たのを契機としてソ連邦が臨戦態勢に入り、また同国が核実験を連続で成功させるなどしてしまった。そのためレーヴェンツァーン作戦の前提は見事に崩壊し、予想される損害も鰻登りといった具合であった。


 とはいえ国防軍の枢要なる面子は、予定通り事を進めるべしとの考えで一致していた。

 仇敵なるスターリンとその取り巻き達は、既にウラル山脈の何処かにあるとされる秘密施設に移ったかもしれない。開戦劈頭に大々的に実施される原子爆弾攻撃の威力も、奇襲効果が喪われたことで半減してしまったかもしれない。それでも大威力兵器を自由に戦術使用できるという特大の利点が消失した訳ではなく、また今ほどの好機は未来には存在し得ないとの認識を誰もが抱いていた。


「であれば100万の犠牲が追加で出るとしても、将来の1000万人を救うべし」


 計画立案者たる新進気鋭の少将はそう力説し、大勢の同意を得た。

 だがまったくもって致命的なことに、最終的な決断は未だなされていなかった。何故ならそれを下すべき人物が、未だ到着していないためだった。それどころか総統官邸を出ていないとの話で、挙句の果てに連絡すらつかぬ始末である。


「それで、総統閣下はどうしておられるのだ?」


「ボルマン官房長によりますと、その……」


 ゲーリング国家元帥の詰問に、秘書官がしどろもどろな口調で回答する。

 何でも昨晩から、ヒトラー総統は自室に引き籠ってしまったというのだ。原因については一切が不明。旧来よりの側近が心配して扉を叩いても、


「畜生め!」


「大嫌いだ馬鹿! アンポンタン!」


 などという絶叫しか返ってこないとのこと。

 まるで錯乱したとばかりであるが、何日か前に空軍の防空演習を視察し、その様子がテレビジョン中継されてもいた。ならば健康状態に異常などないはずで、率直に言ってあまりにも支離滅裂。作戦指導のため参集していた元帥達はひたすらに困惑し、そのうちとんでもない可能性に思い至る者まで出てきた。


「まさか……いや、あるいは……」


 参謀総長のクレープス元帥が顔を歪め、僅かに躊躇した後、口を開く。


「親衛隊のど腐れどもがボルマンだのゲッベルスだのと結託し、総統閣下を秘密裡に監禁しておるのではないか?」


「何だとッ!?」


「つまりはクーデターかッ!」


 驚愕の反応が波濤となり、会議室を酷く掻き乱す。

 確かに支離滅裂に過ぎる状況を鑑みれば、その可能性がある気がしてきた。この期に及んでそんな愚行をする理由はまるで分からぬが、元々レーヴェンツァーン作戦の骨子がそうであったように、理解し難いが故に奇襲が成立するということもあり得る。


 それに作戦部隊から武装親衛隊の師団を排除しまくったのも、ろくでもない結末に繋がってしまったのかもしれない。

 忌々しいロシヤ人を核分裂の炎で焼き払うのであるから、ドクロ印のあの連中も大満足のはずである。直接の手柄を挙げる機会はないとしても、原子爆弾を手にする前に共産主義政権を粉砕するという意義は、間違いなく理解できているだろう。もしかするとそれらは単なる希望的観測でしかなかったのかもしれず、秒が過ぎるごとに疑心暗鬼が増幅されていくようだった。


「糞ッ、とにかくベルリンの様子を逐一報告させろ」


 クレープスは部下に命じ、情報収集を急がせる。

 あるいは必要とあらば、部隊を率いて乗り込む必要が生じるかもしれない。ベルリンとの通信が遮断されたとの連絡があったのは、そう思っていた矢先のことだった。





ベルリン:総統官邸



 国防軍の予想に反して、ヒトラー総統はこの時、別段監禁などされてはいなかった。

 だがその精神は、恐るべき牢獄に囚われていたも同然だったかもしれない。何故なら信じて送り出した一世一代の作品が、党主催の芸術祭において屈辱的なまでに酷評され、あろうことか1マルクで落札されてしまったためである。もう少し愚鈍な人間であったならば、ちょうど休暇中の家庭教師たるベッヒャーをひたすらに罵ったことだろうが……結局は自分の判断力が足らなかっただけだと、聡明なる彼は理解せざるを得なかったのだ。


 そうした結果、肝心かなめの時に、ヒトラーは一時的狂気に陥ってしまった。

 また如何ともし難い激情の末、絵画など本質的に無価値で頽廃であるとの確信を抱くに至った。画家を目指して四苦八苦していた若き頃の己を全否定するようではあるが、すべては脱皮できない蛇は死ぬというニーチェの箴言の通り。科学技術の進歩によって風景をそのまま切り取り、あるいは映像として残すことすら可能になった今、かようなものは滅びるべきである。絵具を壁に叩きつけ、筆を悉く圧し折り、イーゼルを粉砕したりしながら、彼は更なる芸術排斥を決意した。


「そうだ。絵画などゲルマン民族に相応しくない」


 かような言葉が口許から滔々と漏れ、


「情報伝達の手段が限られていた近代以前ならいざ知らず、総天然色の写真やフィルムが存在する現在においては、まったくの無用の長物であったのだ。有意なる人材がかような作業に時間を費やすなど、民族の損失と言う他なく……」


「総統閣下、失礼いたします!」


 万雷の如き大音声とともに、居室の扉が突然蹴破られる。

 現れたのは金髪碧眼で筋骨隆々とした親衛隊士官。少し前に総統警護隊に転属してきたマイントイフェル大尉で、一部の隙もないナチ式敬礼を決める。しかし無作法という他ない入室だった。


「マイントイフェル君、いったい何事だね? 誰も通すなと言ったはずだ」


「総統閣下、ご無礼をお許しください。反逆者どもが迫っております。ただちにご避難を」


「なッ、何だと……?」


 ヒトラーは思わず目を剥き、


「反逆者というのは何処の誰だ? 国防軍か? あの懐古貴族趣味の役立たずどもめ、愚にもつかない選良思想を拗らせた挙句、遂に大ドイツ帝国の建設者たる余に牙を剥いたか!」


「総統閣下、時間がありません」


 切迫した声で促され、ヒトラーもただちに自己保存のため動き出す。

 総統官邸の屋上には回転翼機が用意されており、マイントイフェルが操縦するという。今やベルリンは反逆者でいっぱいであるようで、関係者は全員極刑に処さねばならないが、まずはこの場を脱するのが先決だ。


 そうして要人輸送用のFl482へと乗り込んだ辺りで、とてつもなく重要なことを忘れている気がした。

 いったいそれは何であっただろうか。機体がほぼ垂直に上昇する中、ヒトラーはそれを思い出さんと試み……暫くした後、面白いくらいに青褪めた。





ベルリン:市街地



「何だろう、政変かクーデターでも起こったのかな?」


 夕刻。窓の外の様子を伺いながら、鳴門大佐はぼんやりと呟いた。

 官庁街の方から銃声が響いてきたかと思えば、今度は目抜き通りを装甲車の梯団が進んでいく。駆け足の国防軍将兵が市街のあちこちを封鎖し、ビヤホールへ向かわんとする建設労働者との間で小競り合いが起きたりする。誰もがまるで事態を呑み込めず、右往左往する他ないといった状況だった。


「ただ僕等はどうあっても部外者だ。将来的に日独関係がどうこうという話はあっても、直接危害が及ぶとかはないだろう」


「そうですよね」


 妻なる日向子も我関せずといった風で、ひたすらに机に向かっていた。

 航空母艦『天鷹』を題材にした漫画が妙にヒットし、今や売れっ子の彼女は、雑誌連載の10話分を書き溜めてからベルリンへとやってきた。それでも心配なのか、宿泊先でもネームなる作業をやっている。原稿料は海軍大佐の俸給を軽く上回ってしまっているくらいだが、職業婦人病も極まっていると思わざるを得なかった。


 とはいえ邪魔をするのはよろしくない。コーヒーなど飲みながら、夕飯はどうするかと考える。

 戒厳だ何だで外出はできぬし、電話もまったく通じない状況なので、実際できることがなかった。妻の仕事が一段落したならば、第三子でもこさえるべく奮闘してもよさそうだが、この状況ではいきなり官憲が押し入ってきたりするかもしれない。実際半年ほど前、さる実業家がハンブルクのホテルに宿泊していたところ、潜伏中の政治犯と間違えられるという事件があり……かような物思いに耽っていたら、部屋の扉がコンコンと叩かれる。


「ちょいと出て来るよ」


 鳴門は一応の用心をし、玄関へと向かう。

 何のことはない、相手はただのボーイだった。要件は荷物の搬入。つまりはこの間の芸術祭で落札した作品で、市街で騒乱が起こる前にホテルへと搬入されていたから、部屋まで持ってきたとのことだった。


 であれば折角の絵画などを、絵心などないなりに鑑賞してみてもいいかもしれない。

 当然それらの中には、1マルクで落札してしまった珍絵画もある訳である。ただそちらの方面の造詣が壊滅的なる鳴門には、上品と下品の違いがやはりよく分からなかった。ただ適当に眺めていたところ、日向子がふらっとやってきて、どうにも興味深げな視線を問題作に向け始めた。


「どうかしたか?」


「うーん」


 日向子は少しばかり首を傾げ、


「何処かで見た覚えがあると言いますか……」


「はあ、そうなの」


 鳴門は生返事。日向子も少しばかりそれを凝視していたものの、数分すると興味を失ってしまったようだった。

 そうした間も、屋外からは銃声やら爆発音やらが響いてくる。実のところベルリン市街で展開されていたのは、国防軍に残存していた古典派将校団による蜂起だった。一応は再度の対ソ戦が世界原子戦争に発展すると危惧していた彼等は、何故かヒトラーが総統官邸で孤立しているという情報を耳聡く聞きつけ、ただちにその身柄を拘束するべく行動に移ったという訳で――数奇極まる因果の糸を辿ってみれば、まさにソファに無造作に置かれたる1マルク絵に行き着いてしまうのかもしれなかった。


 なお一般的歴史書に7月21日事件と記されるこのクーデターは、まったくの大失敗に終わった。

 元々、反乱を起こすには支持が不足し過ぎていた上、計画自体が極めて場当たり的な内容だったためだ。しかも最優先目標たる人物は早々に回転翼機で逃れてしまい、放送局や電話交換局も早々に奪還されるというあり様。ただの治安出動だと思っていたベルリン警備大隊の将兵も、進軍してきた武装親衛隊のアドルフ・ヒトラー装甲師団にあっという間に投降し、首謀者達もたちどころに逮捕・処刑されてしまったから話にならない。

 ただそんなお粗末な代物でも、国内外の動揺を誘発しはするから、レーヴェンツァーン作戦が無期限凍結となる一助にはなったとは言えそうだった。無論この後のドイツが、国内の反ナチ思想を粛清し切った本格的ベヒモス国家に進化すると考えると、単純に喜べなさそうではあるのだが。

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