狂気のタンポポ作戦計画④

ベルリン:総統官邸



「どうだね? まさに霊的直感に従って描いてみた訳だが、余の絵もなかなかのものではないかな?」


「総統閣下、これぞまさにゲルマン民族精神の爆発です。むしろ芸術は爆発と言うべきかもしれません。人間の原初的欲求が国家社会的義務たる献身とより高い次元において爆発し、世界を遍く照らす星となっているかのようです」


 圧倒的存在感を輻射する巨星を前に、画家のベッヒャーは思いつく限りの賛辞を呈する。

 苦節の末に超古典派芸術家としてナチ党に認められ、各地で様々な賞を受けたこの遅咲きの人物は、1950年末頃より総統官邸に出入りするようになっていた。もちろん、専属の家庭教師としてである。未だ米英ソとの戦争は公式には終わっておらず、延々と軍が対峙した状態にあるのは事実だが、大ゲルマン帝国の一里塚は間違いなく築いた。60歳の誕生日を機に激動の生涯を省みたヒトラーは、どうやらかの如く考えたらしく、世界首都計画の完了とともに引退する決意を内々に固め……カフェでゆっくり読書などしたり、絵画に興じたりする老後を楽しみにし始めた結果だった。


 ただ驚くべきは、今まさにおべっかを使いまくっているのが、まったくの偽者というところだろう。

 実のところベッヒャーというのはかなりの気まぐれ屋で、人物画が一向に上達しない上に指摘すると癇癪を起こしまくるヒトラーに絶望、更に無理解な上に尊大な取り巻きどもに嫌気が差し、ロンドンへの亡命を希望するまでになったのである。当然、あちこちに聞き耳を立てている英諜報機関は敏感にそれを察知。米国で人気を博し始めた騙し絵の如くスパイを送り込み、機密情報をごっそりいただいてしまおうと秘密諜報部のホワイト少将は考え、亡命ドイツ人でしかも同姓のそっくりさんを仕立ててしまったのだった。

 とはいえ芸術というのは、やはり天賦の才能がものを言う領域。影武者が都合よく絵の才能を有しているはずもなく、最悪数日持てばいいというくらいの促成教育だけで潜入することになり、何故か1年が経過した今も存在が露見していないのだった。


「まさにこの爆発こそ力への意志、超人へと至る道。総統閣下、そうではありませんか?」


「そうだ! その通りだ!」


 適当極まりない賞賛に、絵の具塗れのヒトラーは大感激する。


「君は余の精神をよく理解してくれておる。これまでに会った大勢は、余の表現をひたすらに侮るか、ただ表層的なおべんちゃらを使うばかりだった。もっと君と早く出会えていれば、余の人生は変わっていたかもしれん」


「総統閣下、むしろ今だからこそ至上の悦びに震えることができるのではありませんか」


 ベッヒャーは冷や汗を隠すように言い、


「例えば閣下と私の出会いが四半世紀前でしたら、閣下はまた芸術の道に進まれて成功し、一方でドイツ国民は悍ましきユダヤ国際資本の枷と共産主義の脅威から逃れられず、塗炭の苦しみを味わうばかりだったでしょう。それはあってはならぬことです。大ゲルマン帝国の完成が目前に迫った今だからこそ、民族共同体における私の価値が生み出されたのです」


「おおッ、何という慧眼だ。素晴らしい」


 双眸を若き日のように燃え上がらせ、ヒトラーは感涙すら流す。

 それをハンカチで拭った後、彼は大衆を高揚させた舌でもって、得意の芸術論を語り出す。ベッヒャーにとってみれば、よく分からない特殊単語が羅列されているだけにしか思えなかった。まあナチ思想というは概してそんなもので成り立っているのかもしれないが……何故か会話が成立してしまうから恐ろしい。


「ところでベッヒャー君、ちょいと質問があるのだがよいかね?」


「総統閣下、何なりと」


「この絵を匿名で党の芸術祭に送ってみようと思う。アドルフ・ヒトラーの名前で出すと、指導者としての名声ばかりが先行し、この最高傑作が正当な評価を受けられぬのではないか。余はそのように危惧しているのだ」


「あッ、はい」


 とうとうとんでもないことを言い出した。ベッヒャーは猛烈に嫌な予感を覚えた。

 改めてヒトラーの"最高傑作"を見つめると、素人目にも支離滅裂で、別の意味で傑作だった。ルンペン時代に描いていたらしい作品と比べても、余計に変な方向へと進んでいるようにも見える。だが相手は猛烈なる人間で、逡巡は死に直結しかねないが故、彼ははっきりとした口調で回答した。


「総統閣下が匿名で投稿したとしても、金賞は間違いありません。一目見た瞬間に圧倒された審査員達が、鵜の目鷹の目で"無名の新人"を捜索し、遂に閣下へと辿り着く。その様子が目に浮かぶようです」


「よろしい。では皆を仰天させてやろうではないか。クレムリンが綺麗さっぱり蒸発し、また金賞を獲得した余の絵が旋風を巻き起こす。今年の7月は歴史的な月となるに違いない」


 欧州の頂点に君臨する傑物は、本当に晴れがましい表情で決意し、好物のケーキを食べに向かった。

 流石にそろそろ潮時だろう。ベッヒャーは確信し、どうやってベルリン大魔窟から抜け出したものかと考える。ただレーヴェンツァーン作戦発動が当初予定より1か月遅れるという確証は、先の台詞によって得られたと言えそうで、まあ十分に自分は働いただろうと彼は思った。





イルクーツク近郊:別荘地



「東洋の盟友達よ。この苦境にあって最大限の助力をいただいたこと、心より感謝いたしますぞ」


 ささやかなる祝賀会場。クルチャトフ博士は姿を現すなり大きく手を広げ、ひたすら安堵した面持ちで謝意を表する。

 続けざまにロシヤ式の抱擁。この形態にはどうにも慣れないと、相対する古渡博士は思わざるを得なかった。男色は非生産的という理由から、共産主義体制にあっては厳しく弾圧されているらしいが、率直に言ってそういう特殊性癖の一種にしか見えぬ。ついでに言うなら、長く伸ばされた顎髭が当たって鬱陶しい。


「ああ、申し訳ございません」


 屈託ない釈明の言葉が漏れ、


「自分が原子爆弾開発プロジェクトの責任者に抜擢され、2億人民の命運を左右する身となったことを鑑み、実験が無事成功するまでは髭を剃らぬと決めているのですよ」


「であれば、あと少しの辛抱となりそうですね」


 古渡もまた興味深げな面持ちで、ロシヤ人達の喜びに同調する。

 数日前に手渡した手土産は、それだけ戦略的価値のあるものだった。昨年の春頃に爆発事故を起こし復旧中の大湊黒鉛炉に代わり、日本における核燃料生産の中枢となりつつある玄海黒鉛炉。その二号炉より抽出されたプルトニウムおよそ10キロを秘密供与した訳であるから、かような反応となるのもまったく自然と言う他なかった。


 無論、共産主義を信奉する体制が相手であるから、悪鬼羅刹との取引という感触は未だ拭えない。

 とはいえ国益に適うと政治判断されたのだ。列強諸国が順調に原子爆弾を量産し、更にドイツがいち早く水素爆弾保有を宣言したりする過酷な国際環境にあって、大戦で深手を負ったソ連邦は未だ核実験に至れていない。となると何処かのチョビ髭の総統が再度の対ソ戦を決意する可能性は、やはり著しく高いと判断されているようで……それによって破滅的に混乱した時代が幕を開けてしまうのと比べれば、確かにましな選択なのだろうと思われた。

 結局のところ妖怪と亡霊は、どちらが勝っても脅威になるのだ。ならば化け物には化け物をぶつけるべし。まったく無礼千万極まりない発想だ、古渡は内心苦笑する。


「まあともかく、我々も既に爆縮型原子爆弾の設計は終えておりますので」


 少しばかりウォッカを舐めつつ、クルチャトフは続ける。


「いただいたプルトニウムの検査が終了し次第、すぐにでも実験へと移る心算です。立て続けに原子爆弾を炸裂させてドイツ人どもの野望を挫き、ウクライナやベラルーシの解放に繋げねば」


「ええと……」


 予想外の内容に、古渡は幾らか面食らった。


「それでは供与分のプルトニウムをすべて使い切ってしまう形となりそうですが、よろしいのですかな?」


「実際、賭けにはなるでしょう」


 クルチャトフは口調を一転させ、放射された緊張感が彼の同僚達にも伝搬した。


「とはいえ我が国最高峰のアカデミーは、単発の実験ではどうにもならないと結論付けました。原子爆弾は1発で何万人をも死に至らしめる恐るべき兵器ではありますが、逆に言うならその程度でしかなく、開戦を決意したドイツ人にとっては許容可能な損害にしかならない。むしろ将来の脅威を排除するためと、より異常な反応をする可能性すらある。であれば実験を連続実施し、こちらが想定以上の原子戦力を保有しているものと誤認させ、彼等が計画の前提を崩す他ないというものです」


「ふむ……確かにその方が合理的とも考えられますか」


「ええ。まあこれすらも見破られたら、ただの1発も撃ち返せぬかもしれませんが……」


 台詞は一旦そこで途切れる。

 寸秒の後、何時の間にか卓上に用意されていたナガン拳銃をクルチャトフは手にし、シリンダーを出鱈目に回転させた。そうして驚く暇すら与えんとばかりの速度で、銃身を自らのこめかみに当て、何と引き金を絞ってしまった。一応、結果は不発。しかし実弾が装填されていない訳ではなかったようで、床に向かってカチャリカチャリとやっているうちに、耳を劈くような銃声が木霊する。


「このように命懸けの冒険にかけて、ロシヤ人の右に出る者などおりはしません。あまりにも非科学的ではありますが、今回もこうして生き残れた訳ですから、まあきっと上手くいくでしょう」


「は、はは……」


 古渡は完璧に面食らい、目を白黒させながら肯いた。

 種明かしによると、実はシリンダーに細工がしてあって、初回は被弾を避けられるようになってはいたらしい。しかし一歩間違えば大惨事ということもあり得る訳で、正直肝が冷えるどころでなかった。


 とはいえ核分裂や核融合が兵器へと転用されている現代は、本質的にかの危険遊戯の如き世界なのだろう。

 ならばどう対応するべきか。特に将来、出力数メガトンの爆弾が何千と配備されるであろうことを考えると、今の段階くらいで第三次世界大戦をやった方が、もしかしたらよい結果となるのかもしれない。それはまったく悍ましき想像で、そもそも第二次がまだ終わっていないと心中で墓穴を掘りながら、古渡はあまり得意でないウォッカを口にした。

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