狂気のタンポポ作戦計画③

ヴァルナ:保養地



 ブルガリヤ第三の都市にして黒海貿易の中枢なる都市には、このところ異様な雰囲気が充満していた。

 最近になって施行された人種法が故である。再三にわたるドイツからの要求にもかかわらず、同国ではこれまで、積極的なユダヤ人排斥などは行われてこなかった。そのため各地から移住者が集まり、新たな労働力となるなどしていたのだが……諸々の恫喝を受けた結果、摂政キリル三世が遂に折れてしまったのだ。


 そうして手始めに、1万人をオデッサの改良処理場へ送ることとなった。

 かの施設では健常者に対するロボトミー手術がなされ、人間が生気のないマネキン人形のようにされているともっぱらの噂で、行き場のないユダヤ人達があちこちで暴徒化。すると国家社会主義系の民兵団が挙って現れ彼等を吊し上げ、面白半分に暴力を振るいまくった後に警察署に連行するなど、とにもかくにも物々しい情勢となってくる。保養地としても有名なヴァルナなどは、こんなあり様では観光収入が大幅低下してしまいそうなものだが、来訪する観光客というのが休暇中の武装親衛隊員だったりするからどうしようもない。

 当然そんな中では、"黄色アーリア人種"などという意味不明な分類をされている日本人にも、危害を及ぼそうとする輩が出たりする。最近の大陸欧州は何処もそんな具合で、まったく世も末だと"総務部"の雲少佐は思うのだった。


「しかし何故、こうも厄介なことになったのでしょうな?」


 雲はワインを口にしつつ、若干とぼける。

 海岸にほど近い場末の料理店は、杏野少将が切り盛りする機関の回し者が運営している。故にあまり多くはない客の中には、表沙汰にできない経歴の持ち主が混ざることがあり、今まさに相対している民族自由主義者などはその典型例だった。


「概ね、こいつのせいですよ」


 マハリャノフという名で通している中年の男は、財布からマルク紙幣を取り出し、続ける。


「現在、我が国は対ドイツ輸出で黒字を計上し、相当額のマルク準備高を有しております。順調なのは農水産物ですかね、小麦や大麦のような穀物、果実や魚介類、ワインなどが妙に高く売れております。黒海経由でウクライナへの販路を拡大する関係で、この辺りでも港湾の拡張が始まる予定もあります」


「景気が良いようで羨ましい限りですが」


「そう思われるでしょう。驚くべきことに、罠がここに仕込まれていましてね」


 マハリャノフは少しばかり苦々しく笑い、


「ドイツが妙に高く農水産物を買ってくれるものだから、お得意様のご機嫌を損ねる訳にはいかないという圧力を、農民達が自らかけてくる訳です。その結果、国王陛下も遂に人種法などという忌まわしきものを容れざるを得なくなった。今は難民として流入したユダヤ人だけかもしれませんが、ウクライナやベラルーシにおいて現在進行形で虐げられているのは、我々と同じ教えを信じるスラブ民族。となると何時、こちらに矛先が向くか分かったものではない」


「厄介極まりない話ですな」


「まあこれだけであれば、まだ何とかなったかもしれませんがね」


 忌々しげなる言葉とともに、先程の紙幣が指で弾かれた。

 このマルクはかなり特殊な代物で、むしろ商品券に近い性質のものだという説明が続く。実際ベルリンの証券会社への投資や観光、ルール地方などで量産される工業製品の輸入にしか使えぬものとのことだ。積み上がっているブルガリヤの貿易黒字というのも、つまるところすべてが通貨もどき。しかもドイツが他国を圧倒する軍事力を有していることもあって、大陸欧州にあってはそれが国際決済に用いられるようになっているという。


「世界恐慌で何処もかしこも呻吟していた頃、金建ての外貨を介さぬ国際取引の実現を目的として、我が国とドイツの間では清算為替協定が結ばれました。お互い中央銀行にそれぞれの口座を開設し、自国通貨をそこに振り込む形で商品を行き来させる。両国とも黒も赤もなしというのが基本理念で、差額が生じたらこのような特殊通貨で支払う……と」


「リカードの比較優位論に似た雰囲気ですが」


「まさにそれが固定されます、最悪の形で」


 マハリャノフの声に理知的な怒りが籠り、


「ドイツが我が国の農水産物を意図的に高く買うが故、我が国はドイツの工業製品を買わざるを得なくなり、結果として自前の工業力を確保できなくなる。今儲かるからと、将来発展する芽を自発的に摘んでしまう。本来的に農業国と工業国がどちらが優位であるかなど、双方の数を比べてみれば一目瞭然でしょう」


「ああ、なるほど。まったくドイツ的悪辣さの極みのような話ですな」


「これでも占領地よりはましだったかもしれませんがね。大戦中のオランダやフランスなどでは、ドイツ軍が適当に何でも持っていき、それがドイツへの"輸出"として計上されたそうですから。しかも帳簿上"貿易黒字"が累積された形として、そのうちのかなりの部分がドイツへの"投資"に回った形としたそうです。ちなみに残りは、戦後にドイツ製品の洪水輸出を図るために残されたとか……まったく呆れるくらいの几帳面さとしか言えません。帳簿の悪辣な弄り方にかけては、ドイツ人の右に出る民族などなさそうだ」


「何とまあ」


 確かに美味なブルガリヤ料理を堪能しながら、雲は少々沈痛そうな息を吐く。

 本当のことを言うなら、清算為替協定に類似する手法は、大東亜共栄圏においてもなされていたりはする。インドやアフリカの植民地に対する英国の態度や、中南米に対する米国のやり口なども、おおよそ似たようなでもあるだろう。それでも大戦の戦勝国に生きる者であるが故の余裕は上手いこと隠蔽し、今はただ目の前の人物とその背後にいる者達が、いったい抱えている課題をどう解決しようと目論んでいるのかを探ることが重要だった。


 そうして土鍋入りの肉や野菜などを頬張り、ワインの芳香を楽しみながら、あれこれ何気なく尋ねていく。

 すると本題が次第に見えてきた。ブルガリヤはマルマラ地方を巡る本格紛争をトルコに対して仕掛け、同国の総動員を誘発。玉突きでソ連邦の警戒度を一気に上昇させ、もってドイツ軍の注意を東へと反らし、その隙に国内を固めて枢軸同盟より離脱してしまう。原子爆弾多数を保有する、しかも情け容赦のない殺戮を得意とする軍事大国を翻弄せんとすることが、如何なる結果を招くか分かったものではないと思えるところも多分にあるが……隣国セルビヤの親独傀儡政権に対する武装闘争を積極支援するなど、既にかなり周到に準備を進めているようでもあった。

 であればこの動きを利用せぬ訳にはいかぬだろう。少なくともスターリンの過剰反応を引き出せれば、今もドイツが隠密裏に進めている原子戦争準備を、上手くひっくり返す一助にもなるはずだった。


「であれば、分かりました」


 グラスに注がれていた液体を空にした後、雲は言う。


「我が国は遥か極東の帝国故、限界はございますが、貴国の義挙を支援させていただく形となりましょう。決起までそう日はないようですから、可及的速やかに本回答がなされるよう図らいます」


「おお、ありがたい!」


 歓喜に満ちた声が響き、マハリャノフもワインを景気よく飲み干す。

 続けざまに新たなボトルが注文され、再び乾杯と相成った。今のところ根拠はないが、英国とイタリヤも陰で動いているのだろう。昨年末のスエズ運河管理機構の樹立を機に、両国は一応の妥結を図っているようであるから、日本への要望というのはインド洋で揉め事を起こしたりしてくれるなという程度なのかもしれない。


「それにしても、過大評価というのは厄介なものですな」


 唐突にかような感想が生じ、自ずと声に出してしまった。

 無論、ドイツの巧妙かつ悪質極まりない国際取引手法について、マハリャノフが具に解説してくれたが故だろう。だがそれ以外にも何か重要な新結合があるかもしれない。雲は少し前に見た、貧しい出身の女優が紆余曲折を経て栄光を掴むという筋書の歌劇を思い出し、少しばかり首を傾げる。

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