殲滅戦争の火種

バレンツ海:スヴァールバル諸島沖



 米本土への神経化学爆撃で知られる超重爆撃機Ju390は、またも絶滅的なるその名声を高めんとしていた。

 ハンメルフェスト近郊に設けられたるゼーレ秘密基地を飛び立った、最新鋭のG型なる鉄十字の怪鳥は、ユンカース社が誇る新鋭ターボプロップエンジン6基を唸らせ、極北のスヴァーヴァル諸島を一路目指す。本来であればそこは、国際条約によって加盟国に自由解放されているべき場所であった。しかし苛烈なる第二次世界大戦を経た今、かような取り決めは完全に有名無実化してしまっており、特に北東島などと呼ばれたる島嶼などは、奇妙な穴ぼこだらけの実験場と化していた。


 そんな領域へ時速700キロ超で向かっていく軍用機に、当たり障りのないものが搭載されていると考える者などおるまい。

 事実、爆弾庫に納められているのは、重量5トンもの大量破壊兵器に他ならなかった。停戦発効後間もなくベルリンの爆心地に立ったヒトラー総統が、ゲルマン民族の生存権をかけて最終戦争準備をせねばならぬと獅子吼した通り、ドイツでは原子爆弾開発が急速に進捗している。そうして百数十と量産されたうちの1発を実際に空中起爆させ、圧倒的破壊力を内外に知らしめ、次なる攻撃の阻止と国威発揚を狙っているのだ。


「更に言うならば、こいつこそが歴史を前へと進めるのだ」


 機長のアイゼルマン空軍中佐は、未来に胸躍らせながら呟く。

 従来の爆縮型原子爆弾とは一線を画する、民族の歴史に燦然と輝くであろう1発。彼が今まさに投下せんとしているのは、高名なるハーン博士がかように説明する"水素爆弾"だった。原子物理学的に正しく記述するならば、超臨界へと到達したウラニウム235の生み出す高温高圧を用いて重水素化リチウム6の核融合を開始させ、またそれによって放出される大量の高速中性子でもって未反応のウラニウム235を核分裂させるという、後にブースト型原子爆弾と呼称されるものではあるが――後に大量配備される、本当の意味での水素爆弾の始祖とも呼べる代物に違いない。


「出力はTNT爆薬換算で600キロトン。ひとたび炸裂したならば、半径10キロが火の海と化す。ロンドンであれニューヨークであれ、あるいはモスクワであれ、如何なる都市も一撃で消滅するだろう」


「はい。機長、間もなくです」


 爆撃手が抑揚のない音吐で告げる。

 こいつは嬉しい時ほど声に感情が籠らなくなる。それで意中の人を逃すという個人的な損失もあったようだが、爆撃機に乗り組む上では得難い資質という他ない。


「投弾まで5秒……3……2……投弾、今」


「全速離脱」


 巨人に持ち上げられたかの如く機体が浮かぶ中、アイゼルマンは命じた。

 補助ロケットエンジンが火を吹き、加速度が身体を椅子へと押し付ける。先の台詞の通り、間もなく人類史上最大の爆発が発生する。とすれば起爆までに可能な限り距離を取り、激烈なる爆風に巻き込まれないようにせねばならなかった。


 そうして数分が経過した後、遂に運命的なる時刻がやってきた。

 爆弾は実験場の上空1500メートルで炸裂。巨大な火球が空に生じ、太陽を何万と合わせたような閃光が、まったく暴力的に煌めいては雪原に乱反射する。ほぼ爆心にあった極寒の"集落"で震え、ただ暖を求めていた哀れな者達は、要求を遥かに上回る熱量によって黒焦げになり、直後の衝撃波を食らってあばら屋ごと木っ端微塵になった。


「おおッ、何という神々しさだ」


「ドイツの科学は世界一ィ!」


 立ち昇った巨大で毒々しい色合いのキノコ雲。それを目にした者達の喝采が、機内に幾つも木霊する。

 人類文明は遂にこれだけのエネルギーを制御するに至り、またそれは世界に冠たる祖国によってなされたのだ。純然たる事実を前に誰もが民族精神を高揚させ、また畏怖を伴った感動を露わにした。


「我等はまさに陽の当たる場所にいるのだな」


 アイゼルマンもまた満面の笑みを浮かべ、何処か嗜虐的に呟く。

 何しろかくの如く、太陽を人工的に作り出すことに成功したのだ。ならばドイツの行く手を阻むものはなし。彼はそのように確信し、爆心南東の彼方へと敵意を注いだ。





モスクワ:クレムリン宮殿



「同志諸君、少しばかり休憩としましょう。堂々巡りでは意味はありません」


 産業投資配分を巡る侃々諤々の議論は、鶴の一声によって一時休会となった。

 旧約聖書的な時代を彷彿とさせる地獄のような対独戦の後も、個人崇拝の強化と度重なる政敵の粛清によって権力を保持し続け、今や宗教なき連邦の唯一神とすら呼ばれているスターリン書記長。彼は実のところ、ひたすらにうんざりしていた。民需生産および労働力の不足からくる国内の困窮と、軍事境界線の向こう側を不法占拠し続けている強力無比な枢軸軍。そのいずれもが致命的で、しかも打開策がまるで見当たらないといったあり様だった


 実際ソヴィエト連邦の受けた戦災は、他の戦争当事国すべての合計を大幅に上回るとされている。

 直接の戦死者だけで2000万超、それにほぼ同数の民間人の犠牲が加わる。また鉱工業と農業の中心であったウクライナは全土が失われたままで、レニングラードやスターリングラードといった都市部は、占領されていた間に水道管や道路標識に至るまで持ち去られてしまっていた。更にはドイツの常軌を逸したとしか言えぬ民族政策の結果として、何百万という難民の流入が今も続いている。そうした状況にあるにもかかわらず、総勢350万の赤軍の維持とウラル以東への国土重心移転を推進せざるを得ないとあっては、何もかも不足するのが当然としか言えそうにない。


(希望的要素といえば……)


 かつて自分はアジア人だと口走った、あまり愉快でない記憶を蘇えらせつつ、スターリンは思案する。

 少なくとも二正面戦という絶望的可能性だけは、消失したと断じてもよさそうだった。日本の対米英単独講和を契機に、枢軸同盟は空文化しつつある。満洲国に屯する関東軍も脅威でなくなったとまでは言えぬが……米共和党政権が債務不履行を理由に軍事支援の全面凍結を打ち出してきた今、大東亜共栄圏との協商関係なしではソヴィエト連邦は成り立たないところまで来てしまっていた。


 ただ非常に問題なのは、シベリヤ一帯が何時の間にやら経済植民地になってしまいかねないことだろう。

 蒋介石の政権が瓦解した直後の、過剰人口が次々と送られてきた時期ならば話は簡単だったが、最近は下手な真似をすればすぐ企業も外国人労働者もいなくなるとのこと。彼等に上手い事鉱山や油田を開発させて、こちらの体力が回復したところで接収してしまえばいい。粗野なフルシチョフはかような提言をしてきたりもしたが、それが何十年先になるのかまるで分からぬし、そもそも原子爆弾で武装しているのはドイツだけではない。


(となるとやはり、原子爆弾開発こそ鍵となるのでしょうね)


 いったい何度目か分からぬが、結論はかようなものとなった。

 その重責を負っているのは、内務人民委員のベリヤが率いる特別第一委員会。中央アジアでの回教徒反乱もあってウラニウムの調達にかなり難航し、またチャリャビンスクに建設した黒鉛炉1号が原因不明の爆発事故を起こしたりしたものの、何とかプルトニウム生産にまで漕ぎつけている。本格稼働は来年2月以降で、初秋には核実験に至れる見込みとのこと。ならばここを是が非でも耐え忍べば、視界も一気に啓けるはずだった。


「同志スターリン」


 当のベリヤが呼びかけてきて、


「ポケットビリヤードの準備が整いました。どうぞ」


「おお、それでは始めるとしましょう」


 スターリンはにこやかに微笑み、キューを手に取った。

 彼はこの遊戯を元々好んでいたが、最近は以前にも増して気に入っていた。というのも手球が中性子に、木枠で揃えられた的球がウラニウムかプルトニウムの原子核に見えるような気がするためだ。原子爆弾開発プロジェクトの責任者たるクルチャトフ博士も以前、そんな説明をしていたから、的外れということもあるまい。


 そうして手球を軽やかに衝き、乾いた音響とともに的球が核分裂めいて散らばった。

 台の上を駆け回るそれらのうち、2つほどがポケットへと落ちる。周囲の者どもがお世辞でなく沸いた。それからゆっくりと転がっていた9番の球が、何とも幸先よく角へと進んでいき……何故かそれが初撃での勝利へと繋がった瞬間、得体の知れぬ悪寒をスターリンは覚えてしまった。

 唯物論的に妥当性を感じるべきと考えられぬそれは、しかし精確だった。ひっそりと開かれた扉から連絡官が入室し、ベリヤの許へと駆け寄っていく。良い報せとはこれっぽっちも思えなかった。


「同志スターリン、面倒なことになりました」


 冷酷で機会主義的なベリヤの囁き声には、明確な憂慮が含まれていた。


「スピッツベルゲン島にてドイツが無通告の核実験を実施した模様です。推定される出力はTNT爆薬換算で40万トンから70万トン、核融合爆弾の可能性もあり得るとのことで……」


「何ですと」


 スターリンはひたすらに驚愕し、言語に尽くし難い眩暈を覚えた。

 続けて心拍が凄まじく高まり、呼吸が途端に苦しくなる。この報告が何を意味するか、忌々しいチョビ髭野郎が何を決断しかねないか、あまりにも鮮明に想像できてしまったためだった。

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