動乱! 講和条約締結前夜・上

ベルリン:総統官邸



 原子爆弾の大破壊にも屈することなく、猛烈なる勢いで隆盛し続けるベルリン。

 ピレネー山脈からウクライナに至る大陸欧州の政治的中枢となったこの都市を、名実ともに世界首都へと変貌せしめる計画は、停戦が発効して暫くした後に再始動した。悪逆非道なる米帝国主義に対する民族的憎悪を胸に、子々孫々まで語り継げる大事業を成功させるべし。かくの如き掛け声の下、中央駅から国民議事堂に至るまでの区画が一挙に整備され始め、1955年の完成を目指して労働者が槌音を轟かせていた。


 そうした工事の騒音は、当然ながらヒトラー総統の執務室にまで到来する。

 とはいえ世界最強国家の指導者として君臨する風雲児の耳には、あたかも子守歌であるかのように響いていた。あるいは模型が現実の巨大建築とならんとする産声であった。あまりにも五月蠅いと辟易する閣僚を、赤子とは喧しく泣くものだろうと諭し……停戦から4年が経過した今も維持されている200万の兵力と工業力の2割以上を食い散らかす兵器生産が、国民経済を相当に圧迫しているという報告書を、些か眉を顰めて読み飛ばしたりしているのだった。

 ただ昨年春の実験成功以来、原子爆弾は順調に量産されており、また小型化や大威力化も進捗しているという。とすれば更なる動員解除もできるだろう。そんな楽観論が彼を微笑ませていた時、外相のリッベントロップが血相を変えて現れた。


「何ッ、日本が裏切る心算だというのかね?」


 ヒトラーは驚愕し、目を大いに見開く。

 カランと音が鳴った。甘党で知られる彼は、執務の途中にケーキを貪り食うことで知られており、絵具のこびり付いた手より転げたナイフが、質実剛健な食器にぶつかったのだ。


「リッベントロップ、外務省は今の今までいったい何をしていたのだ!? 有色人種どもは猿真似ばかりであるが、海軍力にかけては米英を凌駕するのは事実である。故に絶対にアングロサクソンと結ばせてはならぬと、余は厳命したはずではなかったか?」


「総統閣下、申し訳ございません。彼等は単独講和に踏み切る腹を固めたようで……」


「うん、それだけかね?」


 辿々しい弁明を聞いているうちに、早とちりであったことに気付く。

 すなわち日本が米英と軍事同盟を締結し、欧州枢軸との対決姿勢を露わにする心算だと、咄嗟に勘違いしてしまったのだ。しかしながら実際には、単独講和に踏み切るだけだという。明白という他ない協定違反であり、枢軸同盟からの実質的な離脱とはなりそうではあるが、ただちに敵対関係に至る訳でもないようだった。


 加えて日米関係は、和平が成立したとしても一筋縄でいかぬだろうと、昨今の情勢より分析できた。

 国交回復と同時に通商も再開したようではあるが、既にダンピング輸出がどうという問題になり出している。欧州国家社会主義を主導している高名なダイツ博士によると、金本位制などという旧時代の産物に米国の新指導層が執着しているところに、経済的不調のすべての原因があるらしい。それでも新大陸の仇敵がアジア方面で再び緊張状態を作り出してしまうのであれば、帝国を利するところ大であろうと、戦略的観点から判断することができた。


「リッベントロップ、大袈裟な報告は控えねばならぬぞ。諸々の問題があるとしても、東洋の盟邦との関係は重視せねばならぬ。地理的に遠い以上、多少の気まぐれは黙認してやらねばならぬのだ」


 ヒトラーはそう結論付け、実際説明不足気味だった外相を畏まらせる。

 とはいえ単に好き勝手させたのでは、世界に冠たるドイツの沽券に係わる。とすれば何らかの手を打つ必要はあるだろう。暫し思考を重ねた末、模写に使っている机上のUボート模型を一瞥し、彼はおもむろに口を開いた。


「デーニッツを呼べ。海狼を率いたる歴戦の提督に、世界の新たなる潮流を作るよう、余は命じねばならぬ」





セレベス海:タウイタウイ島沖



 旧蘭印はセレベス島に展開する海軍第905航空隊は、蜂の巣を突いたような騒ぎとなっていた。

 マカッサル海峡の狭隘部において哨戒任務に当たっていた駆逐艦『朝顔』が、浮上航行せぬ国籍不明の潜水艦を発見したためだ。しかも最新の水測機器が搭載されていなかったこともあり、彼女は1時間ほどで目標を見失ってしまった。結果、あちこちから航空機が呼び寄せられ、とにかく捜索しろとなったのである。


 過剰反応といえば、まさにその通りだったかもしれない。

 ただ面倒なことにこの時期、インドネシア独立のあり方を巡る紛争が、セレベス島南部やマルク諸島において頻発していた。またその背後には同地域への影響力拡大を狙う米豪などがあって、各地の民族派や藩王国を秘密裏に支援しているという懸念が浮上してもいた。そんな中で如何にも怪しい潜水艦が現れた訳である。気の早い参謀などは撃沈してしまえと公言するほどで、実際あちこちが色めき立ちまくっていた。

 そして最も厄介な空域を飛行していたのが、田代特務中尉が機長を務める東海だった。問題行動ばかり起こして逮捕されてしまった兄を反面教師に、真面目一徹に生きてきた彼は、今や帝国海軍随一の哨戒機乗りとなっていた。


「おい、あまり気張り過ぎるなよ」


 機体を軽やかに操りながら、田代は諭すように言う。


「この商売は根気が一番大事だ。焦らず急がず、我慢強く見張り続ける。するとひょっこり見つかったりするものだ」


「はい。焦らずいきます」


 偵察員の石見二飛曹が、元気よく返事をする。

 世間が好景気に沸く中、態々営門を潜ってきてくれた、なかなか将来有望な青年だ。特に電子装備の扱いに関しては目を瞠るものがある。まあ半分くらい、海軍を専門学校代わりにしているようなところがあるが、それも向上心の一種と好意的に解釈してやるべきだろう。


 ともかくもそうして電探や磁探を任せ、田代はチャートを一瞥する。

 これまでに発見報告のあった位置が、時刻を添えてずらずらと記されていた。うち真性のものがどれだけあるかは分からない。しかし目標なる潜水艦は相当の性能を有していることだけは間違いなさそうで、悪ければもう間もなくフィリピン領海に達する可能性があった。つまりは、ほぼ真下にいるかもしれぬということだ。


「であれば、何らかの形で脅威を与え……」


「あッ、電探に感あり!」


 石見の大音声が轟いた。

 シュノーケルと思しきものの反応が、特徴的な波形となってスコープ上に表れたのだ。十一時方向、距離およそ3海里。ただちに当該海域へと急行し、搭載する音響爆雷を見舞うべく、田代はスロットルを開いていく。30秒と経たぬうちに航跡発見の報告があり、遂に捉えたと欣喜雀躍したい気分になった。


 だがその直後、事態はまたも急変した。

 近傍の空軍基地から上がってきた翼に星のF-51が、恐るべき勢いで近傍を掠めていき、更に躊躇なく警告射撃を行ってきたのだ。東海も幾度かの改良を経て、初期型ほど脆弱な機体ではなくなっているものの、戦闘機を相手にできる道理はない。それから今は戦時でないのだから、ここが潮時だと判断するべきだった。


「致し方ない。引き返すぞ」


「畜生のアメ公どもめ」


 機体が180度反転する中、憎々しげなる声がコクピットに満ちる。

 米空軍機が米海軍の潜水艦を庇ったのだと、ペアの誰もが当然のように考えた。もっとも彼等に対して中指を立てていたテキサス出身のパイロットも、眼下を何が航行しているかなど把握してはいなかった。





南シナ海:コンソン島沖



「いやはや、やはり外の空気は美味いものだな」


 U-4643の艦長たるピッチ中佐は、久々の外気を肺いっぱいに吸い込んだ。

 満天の夜空には絢爛豪華な南方の星座が煌き、何百万という夜光虫の群れが海面を漂っていた。甲板へと這い出してきた水兵達は皆、本国にあっては容易に体験できぬ幻想的光景に見惚れている。この瞬間のために自分は生きてきたと零す者も幾人かいたほどで、それはまったく自然な感想としか評せなかった。


 だがもちろん、彼等は観光をしにやってきた訳ではない。

 何しろ乗り組んでいるのは、ドイツ海軍でも最新鋭のXXXII型Uボート。水中排水量3500トンを誇る、搭載する飛行爆弾によって敵国を空襲する目的で建造された大型潜水艦の1隻だった。しかも実際にそれを発射するために、ジブチから1万2000キロの隠密航海をしてきたのだから、とにかく剣呑という他ない。穏当そうな要素を強いて挙げるとすれば、艦内の何処にも原子爆弾が転がっていないことくらいだろう。


「それで、補給艦とやらは何時になるのだろうな」


「相手はフランス人ですからな」


 酷く熱心なるナチ党員の副長が、どうにも侮蔑的な口調で返す。

 この態度のお陰で、ブレストやジブチの連中が明に暗に嫌がらせをしてきたりする。とはいえ当の本人は一向に改める心算がないようで、しかも上手く相手の責任にしてしまうから面倒だった。


 そうして十数分ほど待機していると、海原に変化が見られ始めた。

 やってきたのは艇と呼んだ方が妥当と思える、随分と小ぢんまりとした補給艦。それでも十分な量の燃料を搭載していたし、士気を高めるに持ってこいの生鮮野菜やコーヒー豆、バナナなどを持ってきてくれてもいた。加えて何より重要なのが、サイゴンの連絡部より齎された攻撃目標に関する情報だ。


「なるほど。台湾付属島嶼を叩いてこい、か」


「上手いやり方ですな」


「ああ。最小の打撃で最大の政治的効果となろう」


 任務の流れを確認しつつ、ピッチは肯く。

 台湾南東沖にポツリと浮かぶ蘭嶼なる島に、飛行爆弾を数発叩き込めという命令だった。レーダー基地の置かれているそこへの攻撃は、在比米軍の仕業にしか見えぬだろう。加えて発射するものも、Fi103を米国が無断複製したJB-2の模造品という気合の入り具合であったから、手の内が露見する心配もなさそうだ。


「ともかくもそういう訳だ、機会主義の東洋人どもを引っ叩きに行くとしよう」


 ピッチは上機嫌に発令し、補給を終えたU-4643を潜航させる。

 インドシナは未だ仏領のままだが、戦争の経緯から日本も根拠地を有している。大西洋やバレンツ海で殴り合った米英海軍ほど、彼等の対潜戦闘能力は高くないかもしれないが、セレベス海で幾度か接触を受けたことからも明らかなように、決して油断できる相手ではない。であれば決定的瞬間に至るまでは、とにかく慎重に事を進めることが重要だ。大戦中、Uボート乗りの中でも五指に入るほどの戦果を挙げ、柏葉付騎士鉄十字章すら授与された彼は、その点においてまったく抜かりがないはずだった。

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