大東亜人材補完計画

大阪市:工業地帯



 午後18時過ぎ。勤務を終えた労働者達が、ゾロゾロと自動車工場の正門から吐き出される。

 彼等が表情は総じて明るい。嬉しく楽しい土曜日の夜である上、念願の給料日を迎えたばかりだからだ。最近になって制定された労働基準法が現場でどれだけ守られているかは、些か怪しくはあるかもしれないが、世は製品すべてが飛ぶように売れる大東亜景気。会社の目玉商品なる三輪トラックの売れ行きは、国内のみならず共栄圏各地でも大変に良好らしく、割高なる超過勤務賃金もあって、それぞれの懐も相当に温かくなっているのである。


 そうした者の中には、義烈作戦で大手柄だった高木青年の姿もあった。

 更に言うならば、その顔は少しばかり引き攣っていた。美味い酒にいい女、一攫千金の機会など、工場の周辺にはありとあらゆる誘惑が渦巻いていて、油断すればすぐにそれらに飛びついてしまいそうになる。だがここでの贅沢三昧で散財してしまう訳にはいかない。元来チャランポランでお調子者な彼は、このところ珍しく節約に励むなどしていた。というのも停戦がなった後、奇妙なる縁のあった陸軍の崔大尉を件の仲間と訪ねたところ、


「便宜を図るのは吝かではないが、年1万円を稼ぐ男になりたければ、まずある程度の元手を用意せねばならぬ」


 と厳格なる口調で窘められてしまったためである。

 もしや約束を違える気ではないか。聞いた瞬間にはそう感じられたものの、崔は雰囲気からして、年1万円を稼ぐ方法について真剣に考えてくれているようだった。ならばそれに乗らねば男じゃないと、流石の高木も思ったのだ。


「そうだ。俺は絶対にビッグになるんだ」


 独り呟きながら、裏通りにある料理屋の暖簾を潜る。

 あまり綺麗ではないが、同胞がやっている馴染みの店だ。雑に飾られている民芸品や高麗人参を漬けた瓶が懐かしく、また腹いっぱい食べても貯金に影響するほどでもない。しかも入るなり臓物か何かを焼く香ばしい香りが嗅覚を刺激し、涎がだらりと垂れそうになるのだ。


「あッ、リーチちゃん。いらっしゃい」


 チビッこい給仕の甲高い朝鮮語が響き、


「お仲間みんな、さっき来たとこよ。早く早く」


「おうお前こいつめ、俺参上だぞ」


 仲間というのは記すまでもなく、テニアン島で一緒だった金村と韓のことである。

 そうして奥の特等席に着くなり、高木は奮発して鯛チリ鍋に骨付きカルビを注文。更に丼いっぱいの水キムチを持ってきてくれと頼む。これを飲むと胃が洗われるような爽快感が溢れ、猛烈に食欲が湧いてくるのだ。


 そうして悪友達とともに料理を平らげ、一気に疲労を回復させた後、本丸へと突入する。

 コンロの上に鉄板を敷いてもらい、薄く切った牛脂1キロほどをカリカリになるまで熱していく。周囲の客が煙たそうな顔をすることもあるが、とにかくジュウジュウと焼きまくる。続けて白菜を盛大にバターで炒め、油で揚げてもらった大蒜を混ぜ、更に青ネギを振りかける。かくして出来上がったすべてを、特別に取り寄せてもらっているフランスパンに挟んでかぶりついた。


「美味い、こりゃ美味い」


 目を爛々と輝かせながら、通称"高木スペシャル"なるサンドイッチを咀嚼しまくる。

 口内に旨味がジワリと沁み渡る。機械に油が必要なように、肉体にも脂が必要なのだ。とにもかくにも腹が減っていて、出来上がった特別料理の半分以上を1人で食ってしまう勢いだった。


「やっぱりこいつは最高だぞ」


「少しおかしいくらいの食欲なの」


 アルコールが回って顔を赤くした金村が、へべれけな口調で笑う。


「太っている僕でもそんなにいっぱいは食べないぞなの」


「何だとお前こいつめ、労働者には肉とカロリーが必要なんだぞ。というか金村、少し痩せたな?」


「僕だって忙しいの」


「なるほど、俺等揃って長めの連勤術師ってところだな。だったら食わなきゃだ」


 高木はそう言って尚も謎サンドイッチに食らいつき、一心不乱に滋養を摂取。

 するとようやく腹が満たされてきた気がして、少しばかり喋る余裕が出てくる。話題といったらだいたい仕事の愚痴だ。生産ノルマが増大する一方なのに、同胞の従業員が何人か逃げ出してしまい、お陰でしわ寄せが一気にきた。彼が目の色を変えて奇食に励んでいたのも、元を辿ればそのせいである。


「そっちも大変なんだな」


 ニコニコ顔の韓が、ちょっと真面目な感じに首を傾げる。


「うちのとこも似たようなものだよ。お金が貯まるのはありがたいけど疲れるな」


「まったく疲労困憊だ」


 急に満ちてきた腹を擦りながら、高木は大きく肯いた。

 そうして事情を話してみると、募集時と雇用条件が食い違うとか、色々ときついとか、まあ何時もながらの具合である。実際高木としても、将来ビッグになるために癇癪を起こさず我慢したものの、何度か腹に据えかねることがあったのも事実で……できることならば仕事を始める前に把握しておきたかったこともあった。


「あ、いいこと思いついた」


 韓は唐突に手を叩き、


「専門の旅行会社を設立するのなんてどうだい」


「何だとお前こいつめ、いきなり訳が分からないぞ」


「いいから聞けって。修学旅行ってあっただろ。あれを就職旅行にするんだよ」


 声量を抑えて韓が説明し出し、高木もまた耳を傾ける。

 大勢を集めての団体旅行を企画し、その過程で職場見学会やら体験就業やらをやってもらうという案である。自動車工場や造船所に限らず、このところは何処も労働者の獲得競争に血道を上げていて、故に詐欺みたいな斡旋業者が問題を起こしていたりする。であればいっそのこと、就職希望者を連れてきてしまえばいいという訳だった。


 それに昨今の求人倍率を鑑みるに、費用はかなり抑制できるかもしれない。

 というのも形態からして広告効果は抜群で、更に旅行が切っ掛けで就職が何人決まったとなったら、その分の成功報酬を請求できそうだからだ。景気のいい会社であれば、全額負担という可能性すらあり得る。であれば濡れ手に粟ではないだろうか。強烈なる焼酒を呷っているからかもしれないが、気分が大変に高揚してきた。


「韓、お前は商売の天才かもしれないぞ。パイナップルやバナナの移動販売より良さそうだ」


 高木は絶賛し、更に焼酒を追加注文する。


「この計画と貯金を持って、崔大尉のところへ行き、陸軍に絶賛便宜を図ってもらうとするぞ。特に金村、お前ちゃんと金貯めてあるだろうな?」


「命の洗濯は月に1度に制限しているの」


 金村もまた得意げに言ってのけ、預金通帳の数字を誇示する。

 ちなみに彼の場合、命の洗濯というのは女郎屋通いの意味であって……浪費のつけで結構な額の借金があったはずだった。それが大幅な黒字に転換しているのは、彼が運転稼業を真面目にやったからに違いない。


「それとこの間、偶然だけど高谷中将をお客として乗せたの。僕の名前を憶えていてくれて、しかも原子爆弾発見の謝礼が不十分だったと謝られたから、もしかしたら中将も協力してくれるかもしれないの」


「何だとお前こいつめ、そういうことは先に言うんだぞ」


 金村の頭を軽く小突いた後、高木は焼酒を一気呑みした。

 続けて改めて乾杯し、いい事業を作っていこうと肯き合う。概ね酒の席での勢いというのは、まさしくアルコールの如く、我に返った時には揮発してしまうものだが……今回ばかりはそうではないようだった。しかもこれが義号作戦の関係者を幾らか巻き込んだ挙句、総督府の内鮮一体化運動にまで結び付き、最終的にはとんでもない外交問題まで生み出してしまうのだから分からない。


 それでも疑いようがないのは、大東亜景気の圧倒的勢いだろう。

 戦前に叫ばれた高度国防国家は、何時の間にやら高度産業国家という名に変わっており、未だ部分動員体制を維持したままの欧州諸国や戦後動乱に見舞われている米国などを尻目に、輸出拡大と経済成長を一挙に進めていく。膨張する一方の需要を背景に幾つもの企業が新興し、多種多様なる市場を開拓していく。こうした好況を齎した要因のひとつが、まず間違いなく義号作戦の成功にあることを鑑みれば、釜山出身の3人組の成功も何処かで約束されていたのかもしれなかった。

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