フランス令嬢往来記

佐世保:市街地



 昭和22年も半ばに差し掛かると、世間の戦時色も大分薄れてきていた。

 未だ食糧配給制度とインフレが続いているのは紛れもない事実だが、ジャカルタ果物缶詰が人気を博しているように、店先に並ぶ商品は種類数量を増す一方。更には総生産倍増の掛け声の下、あちこちで建設ラッシュが起きるなどしていた。一方、ひと頃は24時間操業していた海軍工廠はまったくの閑古鳥で、岸壁ではボロボロの駆逐艦数隻がメザシになっていたりと物悲しい。それでも何隻かの特殊公船の建造が決まったとのことだったし、近く退役する某軍艦を遠洋捕鯨船に改装するという噂も流れてきていたから、こちらも造船好況の大波に乗れるのかもしれない。


 とはいえ国外へと目を向けると、なかなか様相が違ってきたりもする。

 実のところ国際法的には未だ、世界大戦は終結していないのだ。中立国であり続けたスペインの首都マドリードでは、全面講和条約締結に向けた折衝が現在も進行しているが、議論が堂々巡りを脱しそうな気配はさっぱりしてこない。もちろん日英などは、インド国民軍の扱いやら泰緬国境整理やらで揉めているところはありはするものの、とうに国交回復を成し遂げている。それでもあまりにも酸鼻を極める戦争が遂行されたことから、元来楽天的で戦禍も少なかったイタリヤを除く欧州主要交戦国に、妥協を許さぬ強固な世論が形成されてしまい……両陣営の単独不講和規定も相俟って、八方塞がりの状況が続いているのだった。

 そして最近になって、軍事衝突の可能性まで高まりつつあるという。本土とインドシナを除く仏領を片っ端から接収していった米国が、北アフリカ連邦なんて傀儡国家をでっち上げようとしているためだ。


「だからこそ、早いところ戦艦を返還してくれということのようだよ」


 微妙に時の人となった陸奥大佐は、官舎の居間でコーヒー片手に寛ぎながら、近く正式に下る辞令について切り出す。


「そのため状態のよい『伊予』に、白羽の矢が立つこととなりそうだ。戦中は何が何でも艦隊戦力を掻き集めねばならなかったが、米太平洋艦隊の脅威が過去のものとなった以上、維持費ばかりが嵩む余剰艦を持っておく必要は薄くなったからな」


「それでまたご出張なのですか?」


 妻の幸子は、例によって何処か白けた口調。


「私もれっきとした海軍将校の妻ですから、色々と事情は弁えてはいる心算です。夫がモテてモテて困るというのも、少しばかり誇らしく思っております。ただしくれぐれも、外津国で無責任なことだけはしないでくださいな」


「ああ。その点抜かりはない」


 陸奥は軽やかに回答。また長男の大介について、海兵受験に向けてしっかり面倒を見てやってくれと注文する。

 もっとも今回の出張は、それほど長引かぬとは思う。あくまで戦艦『伊予』という名でツーロン軍港まで回航させるのは、三色旗を掲げてインド洋横断などさせた場合、米英の潜水艦に襲われ沈没なんて展開があり得ると判断されたためだ。とすれば帝国海軍の将兵は、到着するや否や帰国という流れとなるだろう。その間にできることといったら、かつて数か月ほど過ごした街並みを見て回る程度が関の山で、異国ロマンスに現を抜かす余裕などは露もなさそうだった。


(それに……)


 何年か前に縁のあったマリィは、かの風景の中に戻れてはいまい。

 凄惨な包囲戦の末、ドゴールがパリで討ち死にしたこともあって、親米英の抵抗主義者なんてものは、フランス全土から一掃されてしまったようではある。だが彼女は、どの勢力から見ても裏切り者に違いなかった。とすれば馴染みのないブエノスアイレスか何処かで、今もひっそりと暮らしているのだろう。以前実家に手紙が届いてしまったように、一応は無事であるのだろうが、どうにも気にかかって仕方がなかった。


 かような心理が如何にして生じているのかは、正直なところよく分からない。

 別段、瞠目するほどの美人や器量良しという訳でもなかった。それどころか、元々は帝国海軍の重大機密を意図して盗まんとした不逞の輩で、如何なる運命を辿ろうとも因果応報と斬り捨ててしまうべき存在のはずだった。にも拘らず、喉の奥に魚の小骨が刺さったかのような感覚がして仕方がない。何処か捨て鉢で、しかもあまり幸の多そうな雰囲気でない異国の女性の面影に、ただ戦争に翻弄されるばかりだった諸国民の悲哀でも見ていたが故だろうか――背後より諦観の滲んだ視線を受けながら、何処かの似非文学趣味者じみた感想を陸奥は抱く。


「まあ実際、帰りは……」


「旦那様、お客さんですよ」


 唐突に玄関先から、女中の声が響いてくる。


「若い異人さん方がお見えです」


「うん?」


 いったい誰だろうか。陸奥は怪訝な顔を浮かべる。

 思いつくのといったら、日本に土着しそうな勢いのスタイン大尉くらいであった。広島でのテレビジョン実験放送において、何故か甲冑を着こんだ彼が映り込むという放送事故があった結果、何故か妙な人気を博してしまったようだが……ともかくもやおら立ち上がり、応対すべく玄関へと向かった。


 するととんでもない衝撃が脳天を直撃し、目が大きく見開かれた。

 来客というのの片割れが、先程まで脳裏を掠めていた女性に違いなかったためだ。それも少々はにかみ気味ながら、幸福を噛み締めている様が伺える。とすればもう一方はその恋人ということだろうか。当然の如く仏語を話すがっしりとした体格の好男子は、元とつくかもしれないが恐らくは軍人と見え、少しばかり悪戯っぽい気配があった。少なくとも決闘を申し込みに来た訳ではないだろう。


「初めてお目にかかります。自分はフランス陸軍第2工兵連隊のジャン・シモン中尉です」


 先手を打つように男は名乗り、少しばかり大袈裟な礼をする。

 陸奥は返礼しつつ、もしやこいつはと直感する。かつて異国にて耳にした、ありきたりだが唯一無二の昔話。それにどんな少年が登場していたか、ふっと記憶に蘇ったのだ。


「本日は陸奥海軍大佐殿に、心からの御礼を申し上げるべく参上いたしました」


「初めて会う相手に礼を言われるというのは、面妖なこともあったものだな」


「妻を救っていただいたことについてです」


 シモンは紛れもない口調で、


「当時、自分はアフリカで戦っていた関係で、すべてを把握できている訳ではありません。それでも面倒事に巻き込まれていた妻を、害を被りかねない立場にあったにも拘らず、異国に逃がすよう口添えいただいたと伺っております。お陰で自分は今こうして妻と再び巡り逢い、人生をともにしていくことができました。このご恩は一生忘れません」


「なるほど、そういうことだったか」


 己が所業を省みながら、陸奥はおもむろに肯く。

 それからマリィの方を一瞥し、こんな表情もできたのかと思った。未だ陰翳がまとわりついている部分もあるが、自分は言ってしまえば、彼女のそちら側しか知らぬ人間だったのだ。


「まあ礼には及ばんよ。それに中尉、自分は結構なろくでなしでね」


「はい、よく存じております」


 シモンはごく当たり前の言い、本当に隈のない笑顔を浮かべた。


「戦中にいったい何があったかは、おおよそ想像もつきます。率直に申し上げるなら、少しばかり悔しく腹立たしいところもあるのも事実です。しかし大佐殿が謹厳実直なだけの軍人でしたら、恐らく今の私達はなかった。であれば酸いも甘いも含めた、今に至る運命のすべてに、自分は感謝せねばならぬと思うのです」


「今に至る運命のすべてか。中尉、なかなか詩人だな」


 最近流行りの歌など記憶に昇らせ、陸奥は称賛する。

 成り行きだろうと偶然だろうと、信じたい出会いに変わりもする。そんな歌詞だっただろうか。ともかくも精神的な温度が少しばかり上がったようで、本当に晴れやかな気分になってくる。


 それからマリィとの別れ際、口にした言葉が思い出された。

 運命が許すならばまた何処かで。そう言ったのは確かだが、こんな許され方もあるとは驚きだ。ブエノスアイレスに逃れてからの経緯はまるで分からぬが、彼女は間違いなく自分の人生を優先し、態々ここまでやってきたのだろう。そうした諸々が、何とも嬉しく感じられて仕方がなく、まさに先程の台詞の通りだと思えもした。


「まあいい、上がっていくか? 茶くらい出すぞ」


「申し訳ございません。汽車の時間が存外に迫っておりまして」


 シモンは爽やかに謝絶し、


「それにろくでなし大佐殿は、結構なけだものと伺っておりますから」


「ははは、敵わんな」


 陸奥はすっかり上機嫌になり、豪快に笑い合う。

 何でもこれから、揃って故郷に戻るとのこと。若干大丈夫なのかとも思えたが、話の端々から察するに、某大佐だか少将だかの機関が諸々の事後工作まで済ませてくれていたようだ。大方、「あの女は我々の二重スパイだ」とか当局に吹き込んだのだろう。とすればただ新たなる門出を祝福すればいいだけで、心中に蟠っていたものも、何時の間にやら消えていた。


「ともかくも、2人とも達者に暮らせよ」


「はい。ろくでなし大佐殿もお元気で」


 最後に交わされたのは、清々しい訣別の言葉。

 幸福なるフランス人達は、たった一たび振り返った後、彼等が未来へと進んでいく。今後も渡仏する用事はあるだろうが、恐らくはお互いの人生が交叉することは二度とないだろう。だがそれでよいのだ。そう独り確信し、「悪行三昧も時には善行となるのですね」とでも言いたげな妻を見据える。


「なあ、久々に映画でも観に行かないか」


 若くあった時の本気を、僅かばかり面に滲ませながら、陸奥は色気のある声で誘った。

 戦艦『伊予』のツーロン回航が始まるまで、あと何週間かはあるだろう。それまでは案外と暇であるから、たまには夫婦水入らずというのも悪くない。

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