神風吹きし後

高座郡渋谷村:厚木海軍飛行場



 昭和21年の三が日は、10年分の盆と正月が一緒に来たような賑わいとなった。

 都合4年、支那事変を含めれば8年超に及んだ戦乱の時代が、ようやくのこと終わったのだ。無論、法的にどうだという問題もありはするが、もはや米英のいずれも継戦能力を有していない。となればもはや我慢などする方が馬鹿といった具合で、何処もかしこもドンチャン騒ぎ。あまりにも祭の勢いが凄まじ過ぎて、参拝客の将棋倒しやら急性アルコール中毒やらで合計数十人の死者が出たりもしたが……歓喜の絶頂の中で逝くというのは、案外幸福な最期であるのやもしれぬ。


「いやはや、黒船以来の宿願がかなったのだ。こんなめでたい新年もあるまいて」


「お前さん、初日の出は見たかね? まさに亜細亜の曙とばかり美しさだったぞ」


「遂に父ちゃんが戻ってくるんだ。カズにユキ、立派になったとこを存分に見せつけてやるんだよ」


 人々は口々に語り合い、輝かしき未来を展望する。

 市街のあちこちで響くは、まったく隈なき笑い声。"素"の字が堂々と書き加えられた戦時標語看板の横を、初詣に向かう振袖着の女学生が通り、神社の境内では「俺が高谷中将だ」なんて宣言した洟垂れ小僧が、ハルゼー役の悪友と殴り合いを演じたりする。またここを書き入れ時とみた商人なんかが、飴やら大福やらを自転車に乗せて颯爽と売りに現れ、あっという間に黒山の人だかりが形成されたりするのである。


 それから関東の一大航空拠点であった厚木飛行場も、だいぶ閑散としているといった風だ。

 無論のこと、結構な割合が外出許可を得て、街に繰り出すなどしているからである。居残りの連中も餅を食いまくっていたり、新年の抱負を書初めして待機所に貼るなどしている。なかなか興味深いのは、普段は威張り散らしていた正規の尉官達が、ほぼ同年代の予備学生出身者にあれこれ話を聞いていることだろう。停戦、講和とトントン拍子に話が進めば、士官もこんなにはいらぬという話になりそうだから、主に大量採用の海兵73期、74期の者どもが、早くも娑婆に関する情報収集を始めているという訳だった。


 まあかような光景を総合すると、ともかくも和平はなったのだと実感されてきた。

 世界情勢を広く鑑みるに、前大戦終結後に識者大勢が期待したような世界恒久平和には、今後も至らぬとは思われる。とはいえ明朗快活なる顔という顔を見ていると、もはやそんなことはどうでもよく思われた。


(だが……)


 俺には無間地獄こそが相応しいのだと、大西中将は強く念じた。

 第四航空艦隊を率いた彼が命じたるは、搭乗員を爆弾の誘導装置とした、十生十死の特別攻撃。幾ら切っ掛けが米軍による原子爆弾攻撃で、最悪の惨禍が帝都を襲うような事態を回避するためであったとしても、外道の統率であったことには変わりなかった。


 であれば潔く腹を切り、散らしめた者達に詫びる他ないだろう。

 介錯も一切無用。新年早々にそんな真似をしたのでは、結構な人数に迷惑をかける結果となってしまうかもしれぬが……前途ある何百という若人が靖国におり、自分が未だ現世を彷徨っていること自体、絶対にあってはならぬことなのだ。であれば躊躇は露ほどもあってはならぬ。文字通り断腸の激痛を数時間に亘って味わい、その後にようやく己を地獄に突き落とすくらいでなければ、将としての責任を果たしたとは到底言えぬに違いない。


「無論それでも、赦されるとは思わぬが……」


「失礼いたします」


 静けさと僅かばかりの外界の喧噪が響く長官室に、副官の声が唐突に響いた。

 折角暇をやったのだから、外出を楽しんでくればいいものを。自決を妨げられた大西は、少しばかり残念そうな面持ちで応じ――何かが携えられていることに気付く。


「長官、高谷中将からの私信が届いておりまして。大至急内容を確認の上、返信されたしと」


「あいつめ、いったい俺に何用だ?」


 大西は怪訝な面持ちで、年賀状でもなさそうなそれを受け取った。

 兵学校時代に柔道でぶん投げてやった思い出。未だ『天鷹』が『文殊』であった頃に、揃って腹を下した記憶。更には伊豆の温泉宿で図上演習などやり、とんだ騒動を巻き起こしたりもしたが……既に何もかもが遥か彼方へいってしまったようだ。言うまでもないが、遠ざかったのは自分の方。そう自覚しつつ封を切る。


『この手紙に貴様が目を通してくれたとしたら、恐らくは自決に臨む直前においてであろう』


「おう……」


 まったくの図星。だが別れの挨拶かと思いきや、次の行はさに非ず。


『何百という文武に優れたる若者に、己が愛機とともに敵艦に突入せよと命じた以上、腹でも切らねば申し訳が立たぬ。それは至極当然の心情であるとは俺も思う。生真面目なる貴様のことだから介錯人もなしに腹を切り、何時間もの悶絶を経た末に、己が生命を断とうとしているのだろうと思う。

 だがそれらを踏まえた上で敢えて申すならば、貴様の切腹はまだまかりならぬ。何故ならば俺があの場で、貴様を叩き斬ることができなかったからだ。俺ですら貴様が斬れなかったのに、どうして貴様に自分自身を処すことができようか。これは我が事だからと、つまらぬ我儘を言ってはくれるな。既に使命は果たし終えたからと、放埓極まりないことを言ってはくれるな。何も切腹を永劫止めろとは言わぬ、ただ俺が貴様を叩き斬ってよいと思えるまで、執行を猶予してもらいたいだけなのだ』


 原稿用紙を捲る手は、予想だにしなかった記述に震える。


『では何故、俺が貴様を叩き斬ることができなかったか。それは貴様の採った戦術に、どうあっても認めるしかない理があったが故に他ならぬ。米国の原子爆弾の脅威が帝都に迫る皇国危急の時にあっては、もはや特別攻撃も止むなしというのが貴様の主張だった。薄氷の勝利であった義号作戦の推移を顧みるに、甚だ遺憾ではあるものの、それはまったく正しかったと言わざるを得ない。少なくとも作戦劈頭で米機動部隊の撃滅に成功していなければ、テニアン島侵攻すら覚束なかった可能性が濃厚と考えると、外道の極みだが的を射た判断だったと評せざるを得ない。とすればすべては悖るところのない至誠と憾むところのない努力のなせる業で、それが故に神風が吹いたということになろう。

 であれば貴様は、大罪を償わねばならぬのは当然としても、己が所業にまつわる理を述べていかねばならぬはずだ。著しく一筋縄でいかぬ状況を早々と想定し、隠密理に特別攻撃部隊を編成せしめ、突如として訪れた未曾有の危機にあっては躊躇なく投じた。それは皇国の破壊を防がんとする、純然たる忠君愛国の念が故のものであったと、滔々と打ち明けねばならぬはずだ。ならばその通りにしてから腹を切るのが道理ではないか。なになに中尉は立派に務めを果たしましたと、だれだれ飛曹長は見事敵母艦を沈めましたと、彼等が挙げたる壮烈なる勲功を遺族の全員に告げてから進退を決めるべきではないか。無論その過程においては、神風を吹かしめた英雄と絶賛されて辛苦することもあれば、人非人の鬼畜と面罵され、あるいはおめおめと生き延びている恥知らずと罵倒されて安堵することもあるだろう。そうやって己のすべてを衆目に晒し、それでも貴様が決断した特別攻撃の意義を、原子兵器の惨禍より守った大勢を相手に堂々訴えよ。ひと思いに斬って捨てんと欲しても尚、決して両断し得ぬ厳然たる真実があったことを知らしめよ。俺が思うに、それこそが国難にあって命を擲った若者達の赤誠に報いる道だ。

 以上。将が腹を切るのは諸々を果たし終えてからでも遅くはない、そう思ってくれたならば何よりであるし、そうでないなら地獄まで貴様を斬り殺しに行く。まあ無用の心配と確信してはいるが、楽な道を選びやがったら承知せんからな』


「何時の間にあいつ、かくも厳しい注文をつけるようになったのだ……」


 読み終えるなり大西は項垂れ、消え入るような声を漏らした。

 それから半ば麻痺した感性をもって、楽な道を進もうといたのかと自問自答する。直接の当事者ならざる高谷は、敵艦へと突入していった烈士達の顔を把握してはおるまい。出撃が命じられた晩の、現世とは思えぬほど清廉なる空気を実感してはおるまい。とすれば所詮は知らぬ者の感想と解釈することもできそうだった。


 だがそもそも、高谷は腹を切るなと言ってはいなかった。途中で命が惜しくなるようなことは万が一にもないと、十二分に理解した上で、敢えて自決を延期せよと要望してきているだけだった。

 そして死ぬに相応しき時が来るまでの間に、幾多の汚辱を被ってでも、己が発した命令の理を説き続けろというのだ。とすればやはり、こちらこそが苦難の道なのかもしれぬ。大西は幾度かの逡巡の末にそう結論付け、手紙の末尾に記された、「貴様を未だ親友と見込みたい高谷祐一」という文字列をまじまじと見つめた。


「分かった。今回ばかりは、貴様の言葉に従ってみるとしよう」


 大西は静かに意を決し、もう暫く待っていてくれと英霊に詫びる。

 それから窓より漏れ伝わってくる喧噪に耳を澄ませ、僅かに相好を崩した。この後、艱難辛苦を味わった末に無間地獄に落ちるのだとしても……如何なる手段を講じてでも是が非でも守らんと欲し、また実際に守り得た大勢のめでたき歓声に、微笑みを送る権利くらいはあるだろうと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る