食中毒空母を撃沈せよ①

東京:大本営統合部



 参内を終えた東條首相は、これ以上ないくらい安堵した相を浮かべていたという。

 原子爆弾という究極の牙を失い、更にはフラットヘッド黒鉛炉爆発の余波で本土が混乱し始めている米国が、遂に停戦の意向を示し始めた。今度こそ嘘偽りの類でなさそうなそれを、遅滞なく内奏することができたが故だった。市井からは聖戦貫徹の英雄と持て囃され、義烈両作戦の成功もあってその傾向は一段と強まりそうな気配しかないが……元々は陸軍の抑え込みと対米交渉妥結を期待されて組閣の大命が下った人物だ。しかもそのまま4年にも及ぶ未曾有の戦争を指導し続けてきたのだから、ようやく肩の荷を降ろせるとなったのも、至極当然のことだろう。


 ただ百里を行く者は常に、九十九里をもって半ばとせねばならない。

 講和条約が締結されるまでは公的には戦争状態であるし、現在もマリアナ諸島やバンダ海周辺では激烈な地上戦闘が続いている。それに両陣営間の和平交渉が決まりかけていたところで、米国がそのすべてをひっくり返そうとしてきてから、未だ1か月と経過していないのだ。となれば糠喜びは絶対に禁物。ここから暫くを正念場と心得、最後の瞬間まで全身全霊をもって戦い抜いていかねばならぬと、とかく緩みがちな心身を戒める。

 そして同時に、戦後を見越した決定も急ぎ下していく必要もあった。状況はある程度落ち着くとしても、国益を巡っての鞘当てはどうあっても続くから、そこでの主導権を手放す訳にはいかぬのだ。


「しかしここでの停戦ともなれば、米国も暫くは覇権主義を引っ込はするでしょう」


 正月早々に予定されている御前会議。その事前打ち合わせの場たる最高戦争指導会議で、暢気な楽観論が述べられる。

 誰かと思えば、軍令部総長たる山本元帥。普段から微妙に捉えどころがないというか、本当に博打感覚で戦争をやっているのではと時折思えてしまうなど、苦手なところのある人間だ。


「懸案と思われた比島についてすら、即時撤兵を言ってこない。こりゃあ相当に参っておりますよ」


「ふむ」


「恐らく孤立主義が一気に勢いを増し……新大陸以外への干渉については、えらく忌避的な世論が醸成されもするかと。あのルーズベルトめも元々、欧州の戦争への不介入を公約としておりましたし、前大戦の折には自ら国際連盟を提唱しておきながら、上院の承諾が得られず未加盟という体の悪さでした」


「軍令部総長。似たような説明を、開戦前にも誰かから聞いたような気がしますぞ」


 東條は若干眉を顰め、釘を刺す。

 真珠湾攻撃の当日、陛下に申し訳が立たぬと、皇居に向かってオイオイと号泣したことが思い出された。しかも太平洋艦隊も壊滅したのだから、米国民も意気消沈してモンロー主義に戻るかと思いきや……これがまったくの逆効果。最終的にその戦意を挫けたからよかったものの、それまでに4年以上を要した訳で、彼我の生産力の差を考慮すれば、何処かで足を踏み外していたとしてもまったく不思議はなかった。


「とはいえ……一度は完全に激昂した世論が破砕されたのですから、今回ばかりは間違いもあり得ませんか」


「なお米国ですが」


 重光外相が割って入り、


「ほぼ自業自得ではありますが、今後外交的にも随分と孤立すると考えられるかと。サイパン島への原子爆弾攻撃は、とんでもない暴挙であるのは論を俟たぬとしても、同島の要塞が目標だった訳ではありますから、従来的な戦争の一貫と主張することも一応は可能と考えられはします。しかしベルリンへのそれは、率直に申し上げまして、弁解の余地がありません。同盟国にすら通告がなかったというから相当です。経済面での関係は別かもしれませんが、あの国と運命を共有したがる国はまず現れんでしょう」


「それについては異論はなさそうだ」


 東條は自分のメモ帳を捲り、自分の許に寄せられた情報と照合する。

 フラットヘッド黒鉛炉破壊において協力関係を構築できた英国は言わずもがなであるが、ソ連邦も相当に腹に据えかねているようだ。何しろ神経化学兵器による損害が最も大きかったのは、実のところ彼等であった。また対独戦集中のため日本を連合国に鞍替えさせるという提案を、米国が一顧だにしなかったことが現在の苦境の一因であると、このところスターリン書記長が度々漏らしているというから興味深い。


 もっともそれが上手くいった後、連合国軍の矛先が何処に向くかなど明白である。

 とすればやはり、今次大戦はドイツと運命をともにするしかなかったと言えそうだった。もっともかの国は周囲を列強に囲まれていたが故か、外交方針が酷く傍若無人かつ場当たり的で、しかも特殊に過ぎる人種理論で政府が動いている。とすればお互い十分な勢力圏を確保した今、同盟関係は早急に見直すべしとなるのも自然なところであり……実際、日英同盟と日露協約が並立した大正の初め頃に酷似した国際環境に至れるのであれば、そちらが優先されて然るべきではあった。


「ただその意味では……」


 重光は少しばかり躊躇い、幾らかの間を置いて続ける。


「停戦、講和と順調にまとまり、日系移民の再配置問題などが解決に向かい、更には原子兵器が十分に配備された後のこととはなるでしょうが……こちらから対米関係改善に動くのも手かとは思われます」


「何ですと?」


 東條は思わず目を剥き、声を荒げる。


「外相。今も大勢の将兵が、米軍相手に死闘を繰り広げているのを、よもやお忘れではないでしょうな?」


「無論、それを承知の上で申し上げております。重要なのは、異常かつ残忍な戦争に発展した欧州戦線と異なり、日米間のそれは旧来的な、敵ながら天晴とどうにか言えそうな戦争であり続けたというところかと」


「テニアン島に搬入された原子爆弾は、明確に我が国の主要都市を破壊するためのものでしたぞ」


「とはいえ陸海軍の鬼神が如き働きがあって、実際には使わせなかった訳です」


 重光は尚も頑張り、


「しかも原子爆弾すら奪取に成功した。であればほぼ軍人と軍人とが覚悟をもって戦っただけで終わった、武士は相身互いで済ませることもできるかと。一方で米国はといえば、対英、対ソは先述の通り深刻な不信、対独、対仏は停戦はできても講和には至らぬ可能性が濃厚という情勢ですから、こちらから手を差し伸べれば彼等も取らざるを得ません。であれば対米関係を主導的に好転させ、もって共栄圏の基盤を盤石とすべきではないかと」


「ふむ……」


 難しげに唸った後、東條は周囲をサッと見渡す。

 幾人かが賛意を示しているようだった。ある意味でそれは、理性の術策が成功したが故に得られた余裕を、肯定的に捉えた上のものとも解釈できた。また随分と長続きした戦争の甲斐あって、帝国の工業力は大幅に伸びはしたものの、鉄鋼や自動車を始めとして未だ至らぬところが多くあり、影響下とした大東亜の巨大な需要を賄うには不足する部分もある。とすればそれを補完する意味において、米資本のみの部分的導入という発想も、確かに有効性はあるかもしれないと考えられた。


 あるいは既に財界などが蠢動し始めており、閣僚にその余波が及び始めたと見ることもできそうだ。

 実際、かねてからロンドン金融街と懇ろな関係にあった一部財閥などが、日英の妥結を敏感に察してスイスやスペインでの折衝を始めているとの噂もあり、そこに政経は別問題と米国企業も入り込んできたのかもしれぬ。未だ戦時下であるというのに、勝手に交戦相手国と接触を持つなど言語道断。本社に憲兵隊を送り込んでやろうかと言いたくもなる。とはいえ局面が大きく変わろうとしている時勢においては、四角四面な対応ばかりする訳にもいかず、少々うんざりした気分になった。


「まあとはいえ、こうした話をこの場で出来ておるのも、第一強襲艦隊の類稀なる奮闘が故か」


 東條は少しばかり話題の転換を図る。

 一応は己が直下にある陸海軍合同部隊であるため、自画自賛という側面もなきにしもあらずかもしれないが……本当に形式的なものと認識されているからか、そこで不愉快そうな気配を醸す者もない。


「酷く困難と予想された作戦を、見事に完遂してくれた。あの高谷祐一という人物は、猪突猛進に過ぎるという印象で……何故中将になれておるのかも分からないくらいだったが……主力艦撃沈以外は上手くやるというのは本当だったのだな」


「旗艦たる航空母艦『天鷹』ともども、海軍の鼻つまみ者という扱いでしたが」


 山本がすぐさま応じ、


「世の中とは不思議なもの。思いの他ああした人間が、何処かでとんでもない手柄を立ててくれるやもしれぬと、自分は前々から思っておりましたよ。事実、主力艦どころか巡洋艦すらも撃沈は皆無ですが、それを補って余りある成果を残した訳ですからな」


「軍令部総長。流石に虫が良過ぎるとは思わんかね?」


 あまりのご都合主義的言動に、呆れ果てたとばかりの言葉が漏れる。

 とはいえ幾分和んだ空気が場に満ち始め、山本はその助長を意図してか、食中毒だのと動物運搬艦だのとしょうもない逸話を開陳し出す。東條は大いに苦笑し、しかしこんな形であれ相好を崩せたのは、案外と久々のことかもしれぬと思った。


 なお一般の小説などであったならば、こうした場合、噂された人物はハクショイとくしゃみをするのが定番だろう。

 だが原子爆弾の筐体と若干の濃縮ウラニウムを載せ、内地への帰路に就いていた航空母艦『天鷹』は……まさにこの瞬間、とんでもない窮地に陥っていた。すなわち回転翼機すら用いた対潜哨戒網を突破した米潜水艦が、不幸にも針路上に潜伏しており、最低でも1発の被雷を覚悟せねばならぬ状況となっていたのである。

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