ヒ総統、怒りの復讐作戦

ポツダム:総統専用列車



「恫喝? 君達が本国に通報する可能性も考えず、私が軍の最重要作戦について話すと思うか?」


「35分前に攻撃は成功したよ」


 古代エジプトのファラオの名で呼ばれたる秘密外交官は、マドリード某所にて、臆面もなくそう述べたという。

 ただ彼の声色に虚飾めいた雰囲気は一切ない。揃って青褪めた枢軸側の代表者達はすぐさま確認に向かい、電話回線の異常な輻輳からただならぬ事態が起きたことを察した。加えて英国やソ連邦に連なる者達も、まさに寝耳に水といった状態で……肩を並べて戦っていた自由主義の国が、何時の間にやら旧約聖書的な怪物へと変貌してしまったのではという危惧に、ただただ震撼するしかなかったとのことである。


 トルーマン大統領による声明がなされたのは、人類史上初の核攻撃からおよそ12時間後のことであった。

 米国は原子爆弾の開発に成功し、最初の2発をもってサイパン島の要塞およびベルリン市街を完全に破壊した。単位重量当たりのエネルギーでは通常爆弾の数千倍にも及ぶ最終兵器を前に、戦争継続が不可能となったことは明白である。ついては名誉ある和平をもって今次大戦を終わらせる用意があるので、枢軸国はただちにそれを受け入れ、新たな恒久平和的国際秩序に参画されたし。地球上のほぼすべての場所へと発せられたラジオ放送は、概ねそのような内容だった。

 無論のことその結びは、世界征服主義者があくまで矛を収めぬ心算ならば、更なる大破壊でもってその軍勢と国土を消滅させるという言葉で――本当にどうしようもないくらいの恫喝だった。


「うぬう……」


 時代の風雲児たるヒトラー総統は、諸々の激情を綯交ぜにした面持ちで呻く。机上の用紙を睨みつけながら呻く。

 戦争も終結間近との見込みであったため、タウヌス山中の要塞からベルリンへ専用列車で戻り、挙式の準備をせんとしていたのだが――世界に冠たる都は今や、スルトの炎で焼き尽くされたかの如き惨状を呈しているという。しかも伴侶とするはずだった女性は大爆発に巻き込まれ、行方も生死も不明とのことだった。


 だが民族と国家の指導者たる人物に、個人的事情にかまけている暇などあるはずもない。

 爆心から30キロほどのポツダムに据えられた臨時の総統大本営には、政軍の要人が多数参集し始めており、被爆地の救援を急がせると同時に、今後の第三帝国の方針を早急に定めねばならなかった。そうした中でも最優先となるのが米国への対処で、執務室の机上に並べられたる用紙が、異質なまでの存在感を放射していた。


「かくも破廉恥な文面を、余は見たことがない。歴史の何処にもないだろう」


 言語に絶する憎悪を滲ませながら、ヒトラーは評した。


「この読むに堪えぬ厚顔無恥の極みが如き内容を、10万に達する市民を鏖殺したその直後に、米国人どもは和平条件と称して送り付けてきたというのかね?」


「はい、総統閣下。疑いようもなく……」


 憔悴し切ったリッベントロップ外相が、酷く弱々しい口振りで肯く。

 紙面に記されているのは、無条件での占領地からの撤退とヴェルサイユ体制へと復帰、ナチ党指導部の犯罪者としての引き渡しに巨額の賠償金といった文字列。頽廃芸術的なまでに呑める要素のない要求が列挙されていた。


「米国はこれまでに行われてきた和平交渉の一切を撤回したようで……元よりこうする心算だったのかもしれません。マドリードやジュネーブにおいても、米側担当者が揃って会談から立ち去っていると。ただ現地からの情報を総合するに、これは英ソにとっても青天の霹靂であったらしく……」


「リッベントロップ、もうよい。君はまんまと食わされたのだ」


 ヒトラーは静かな、しかし信じ難い憎悪を滲ませた口調で叱責した。

 続けてブルブルと震えた手で眼鏡を外し、酷い道化のような外相を含む大勢を総統専用の客車から立ち去らしめる。居残ることとなったのは国防軍最高司令部総長たるカイテル元帥に作戦部長のヨードル上級大将、これまた真っ青な顔をした空軍のゲーリング国家元帥、親衛隊全国指導者のヒムラーといった具合だ。


 そうして世界大戦の風雲児たる人物は、彼等を前におもむろに立ち上がった。

 和平提案と題された文書をクシャクシャに丸め、壁面へと勢いよく投げつけ――遂に憤怒を爆発させる。


「畜生め、腐れ外道のアメ公ども! 余はこれまで、敵国となってからも米国を尊重してきた。この戦争が勝利に終わり、ゲルマン民族の千年王国が欧州に樹立した暁には、新大陸の覇者なる白人国家との協調も最重要となると判断したからである。だがあの思想的に堕落した民族の裏切り者どもは、最初から余の好意を踏み躙り、騙し続けてきただけだったのだ!」


 凄まじい身振り手振りを交え、ヒトラーは猛烈に獅子吼する。


「そうして今日、最悪の形で奴等は裏切った。世界首都となるべきベルリンに悪魔の兵器を投下し、もって民族の息の根を止めんという、全アーリア人種に対する恐るべき裏切りだ。であればもはや通常の戦争はあり得ない。奴等に血で償わせ、また己が血で溺れさせてやらねばならない。カイテル、米軍の捕虜は20万はいるな?」


「はい、総統閣下。国防軍管理下の収容所に27万ほどは」


「我が名をもって命ずる。その4分の1をただちに処刑しろ」


 ヒトラーは双眸を不気味にぎらつかせ、予期せぬ命令に慄いたらしいカイテルをじっと見据える。


「いや、ただ処刑するのでは足らぬな。爪を剥ぎ目を潰し、四肢を切り落とし皮膚を剥ぐなど凌辱の限りを尽くし、持ち得る尊厳のすべてを計画的に剥ぎ取った上で、見世物の猛獣のように檻に入れてベルリンの爆心地へと運搬するのだ。そうして地獄の苦しみを味わっている何十万という市民の前に突き出した後、ドラキュラ伯爵のように悉く串刺しにし、徹底的に辱めたその死体を米英の外道どもに見せつけてやりたまえ。とにかく容赦のない報復を迅速に行わねばならぬから、躊躇も慈悲もあってはならぬ」


「そ、総統閣下。幾ら何でも……」


「ヨードル、君はこの期に及んですら躊躇するのか? まったく放埓的貴族趣味の将軍らしい。士官学校で育ったのはフォークとナイフの使い方だけであるようだな」


 酷く侮蔑的な口調で吐き捨て、処分は親衛隊に託すと言い放つ。

 管理権限を盾に尚も抵抗を試みようとする国防軍最高司令部の2名とは対照的に、ヒムラーは何処か安堵したような面持ちで捕虜殺戮命令を受託。被爆市街の衛生環境維持という観点から、生産した死体は可能な限り工業処理するのが望ましいなどと細かいことを言い出すので、技術的な部分は好きにやるようにと伝達する。


 それから視線は移ろい、太り肉のゲーリングのところで止まった。

 米国の非人道攻撃に対する直接的な憤りと、麾下の防空部隊がベルリン核攻撃阻止に失敗したことへの自責の念。あるいは権力を失うことへの恐怖もあるかもしれない。ともかくもそれらが複雑怪奇に組み合わさった結果、彼はとりわけ挙動不審となっており――ひとまず落ち着くようにと水を勧めた後、ヒトラーは凄惨なる昔話を切り出した。


「君は前の大戦では優秀な戦闘機乗りだったから、まるで実感が湧かぬかもしれないが……その頃の余は単なる一兵卒で、最前線の陰鬱で死臭の充満する塹壕を駆け回っていた。またそこは何時しか、身の毛もよだつガス弾を敵味方が撃ち合う地獄と化し、余もそれに晒され失明する寸前となりもした。この戦争において我々が、化学兵器をあくまで抑止として運用し続けてきたのは、戦場でそれを撃ち合った先に未来はないという確信があったために他ならぬ」


「はい、総統閣下。承知しております」


「ならばもはや禁忌などないと承知しておるな?」


 短くも強烈な言葉。それを聞いたゲーリングはハッとなる。


「そうだ、絶滅戦争には絶滅戦争だ。米国が原子の力で我が帝国の破壊を試みる心算であるならば、我々は化学の力でもって反撃しなければならない。ベルリンで惨たらしく焼き殺され、あるいは重傷を負って今まさに死の淵に追いやられている何万という国民の報復を果たし、踏み躙られた民族の名誉を取り戻さなければならない」


 ヒトラーは滔々と述べ、シンと静まった専用客車の中で大きく息を吸い込んだ。


「ゲーリング、君に名誉挽回の機会を与える。現時刻をもって神経化学兵器の無制限使用を許可。空軍はただちにこれを搭載、最強のジェット爆撃機でもってすべての戦場、すべての敵国都市を燻し、敵国民を皆殺しにしたまえ。無論のこと、本命の米本土爆撃も同様に実施せよ。とはいえこちらはただの化学兵器では足らぬ。アメリカ爆撃機に第666号兵器を搭載、ワシントンD.C.に投下し、是が非でも大悪魔トルーマンとその眷属どもの息の根を止めるのだ」


「はい、総統閣下。我が名誉に代えてでも」


 ゲーリングは精悍なる声色で応じ、若かりし頃のような逞しさで敬礼した。

 加えて大戦略的意図から攻撃が手控えられていたシェルブール方面においても、化学爆撃と同時に全面攻勢を発起するよう命令。こちらも捕虜は一切取らず惨殺するという方針で、カイテルとヨードルは相変わらず楯突こうとしたが、口答えするならば民族への反逆に問うと一括して黙らせた。


 かくして激憤に塗れたる復讐作戦が準備され、世界は神々の黄昏へと転がり落ち始める。

 尚、第666号と呼ばれた化学兵器は、凶悪なリン酸エステル系神経剤のサリンに他ならぬ。万トン単位で備蓄されていたタブンと比べれば、生産量はコンマ4%ほどでしかなかったが……それは冠せられた獣の数字に相応しい凄惨なる被害を齎し、更には第二次世界大戦がひとまずの終結を見た後の世界においても、何十万という犠牲者を生み出すこととなる。

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