吹き鳴らされたる喇叭

ニューメキシコ州:ソコロ近郊



 1945年11月9日の午前5時過ぎ。人類史の新たなる扉は、予定より僅かに遅れて開かれた。

 砂漠の一角に聳える鉄塔に据えられた、"ガジェット"なる秘匿名称で呼ばれた爆弾。その中核たる約14ポンドのプルトニウムが、レンズの如く組み合わされた複合爆薬の作用によってある一点に向けて均等圧縮され、遂には超臨界状態へと達したのだ。そうしてある原子核の核分裂によって生じた2個もしくは3個の中性子が、また別の原子核を核分裂に導くというネズミ算式連鎖反応が始まり――僅か数マイクロ秒のうちに、100テラジュール弱という信じ難い量のエネルギーが解放された。


 結果、千の太陽を合わせたような閃光が迸り、"ガジェット"は不気味なる火球へと変わった。

 摂氏数百万度のそれは表面に衝撃波を伴って急膨張し、近傍に存在する万物を放射化した塵芥の中へと巻き込んでいく。実験的に建てられた木造家屋群は、猛烈なる輻射熱を浴びていたところを木っ端微塵に吹き飛ばされ、近代建築や要塞施設を模したる鉄筋コンクリート造りの構造物すらも、よくて枠組みと外壁のみが残るばかりとなる。爆心から半径1マイルほどはもはや地獄と変わらぬあり様で、仮にその内側に誰かが残っていたとしたら、焼け焦げ千切られたマネキンと同じような無残なる姿に、彼あるいは彼女はなっていたに違いない。

 そしてトリニティと称された実験に立ち会った科学者達の大部分は、自分達の成し遂げた原子物理学的大偉業のほどに、ただただ圧倒されているかのようだった。


「上手くいったか。まあ地球が丸焦げにはならなかったな」


「これで俺達は、晴れてクソ野郎になったってか」


 衝撃波が通り過ぎ、ほぼ真空の爆心への吹き戻しが始まった頃、実験責任者のベインブリッジが自嘲気味に零す。

 しかし世界一の天才的頭脳を持つノイマンには、その意図するところがさっぱり分からなかった。人類文明を新たなる領域へと誘い、またファシスト相手に苦戦する合衆国を救うためのマンハッタン計画を完遂して超威力爆弾を手にしたというのに、何故純粋なる喜びに浸れぬというのだろう。まったく水を差された気分だった。


「なあエド、君はどうだ?」


「ちっちぇえなァ、って思いますね」


 同じくハンガリー出身のテラーは、かなり不満げな口調で言う。


「こんなんじゃまだまだ足りない。もっと威力を大きくできるはずだ。最初から核融合爆弾とまでは言わなくとも、例えばトリチウムガスや重水素リチウムで中性子を増幅させていれば、こんなちっぽけな結果にはならなかったんじゃないだろうか」


「うん、本当に同感だ。多分だがプルトニウムは2割くらいしか核分裂してない、凄くもったいない。だから爆縮設計を早急に改善すべきで、そこに君の案を採用すれば、威力はたちまち10倍くらいになるだろう」


 ノイマンは頭の中で猛烈に暗算し、その結果を言葉へと変換していく。

 実際、何億ドルという予算を投じてTNT爆薬2万トン分が数発できるくらいでは、完全勝利で世界大戦を終わらせられないだろう。であれば急ぎ改良を進め、1発で半径5マイルを破壊できる爆弾を作るような効率化を図るべきで……そのために世界で二番目に暗算が得意なENIACを使うかなどとブツブツ呟いていたところ、オッペンハイマーが微妙な表情で声をかけてきた。


「なあジョン、君の頭には平和や人道って文字はないのかな?」


「は?」


 ノイマンは不機嫌になり、シラードが馬鹿な署名を要求してきたことを思い出して更に苛立つ。


「これが平和で、これが人道でしょう。ファシストの首都を全部焼き払って奴等の国をぶっ潰せば平和、合衆国の兵隊が死なずに済むようにするのが人道。それ以外に何があるっていうんだ」


「ジョン、君は本当に悪魔か何かなのか?」


 もくもくと立ち上るキノコ雲をオッペンハイマーは指差し、


「正直私は、自分が死神になった気がした。あれが都市に落ちたらどうなるか、容易く想像できるはずだ。というより君は昔、ベルリン大学にいたんじゃないのか?」


「意味の通らないことを言われても困りますよ。誰よりもきちんと想像できているから、こう断言しているに決まっているじゃありませんか。それとも何ですか、敵国の都市を焼きたくないとでも? そんな甘っちょろ発想しかできないから、ファシスト相手に苦戦してるんでしょうが。だいたい僕より頭悪い癖に……」


「ええとお二方、今は喧嘩はよしなさい」


 サッと仲裁に入ってきたのはベインブリッジ。

 オッペンハイマーは渋々立ち去り、ノイマンは心の中で舌を出して馬鹿にした。それからあんなのが研究のマネジメントをやっているのでは、何処でサボタージュがあるか分かったものではないと彼は直観する。


(そうだ、大統領にあの戯けをどけてもらおう)


 ノイマンは知能指数300の脳味噌をもって結論付け、グローブスに出張を申し出ようと思い立った。

 それから成層圏に達しようとしているキノコ雲を、改めて愛おしげに見つめる。確かに威力は足りていないが、人間だって最初は赤ん坊だ。これからすくすくと育てていけばいいだけの話で、そのためには政治的な協力が絶対に必要だ。





ワシントンD.C.:ホワイトハウス



「ううむ……もう少し、もう少しで希望が見えてくるのだ」


 机上に置かれた木製ブラキオサウルスのブラキーをしきりに撫で、トルーマン大統領は心を落ち着かせんとする。

 今日、合衆国の政治的中枢たるワシントンD.C.には、凄まじい数の群衆が押し寄せてきていた。その数およそ5万超。「ただちに平和を」「参戦しないんじゃなかったのか」などと書かれた看板を掲げた者達により、ナショナル・モールが占領されてしまっており、警官隊との小競り合いまで起きている。気の早い幾人かの閣僚は、ボーナス・アーミー事件の再来ではと懸念を表明したりしているくらいだった。


 だが何より厄介なのは、集まっているのが主に将兵の父や母であったりすることだ。

 息子を失った悲しみの中にある彼等の先頭に立つは、つい数日前に即時停戦を申し入れてきたフーヴァー元大統領。更には共和党の重鎮とでも言うべき上院議員が続き、あろうことか民主党に籍を置きながらデモに参加している者までもいる。ラジオや新聞は揃ってサイパン島での大苦戦を辛辣に報じており、超党派の戦争遂行体制も破綻寸前といった具合で、政権の支持率は墜落ぎりぎりの低空飛行を続けているも同然だった。


 それでもマンハッタン計画が成功すれば、世界のすべてが変わるのだ。

 コロンブス記念日に初実験という約束は守られなかったが、まさに今日、人類史は鳴動するはずである。トルーマンは執務机に山積みにされた、概ねあまり愉快でない内容のレポートに目を通しつつ、本命はまだかとそわそわする。英ソが結託して対枢軸工作を実施しており、下手をすれば連合国が空中分解しかねないとの情報も齎されてはいるが……原子爆弾が量産の暁には、そんなものはあっという間に消し飛ぶに違いない。


(とはいえ、もし)


 実験が失敗に終わったとしたらどうなるか。トルーマンは思わず戦慄する。

 科学顧問のブッシュによれば、その可能性は限りなく低いという。超天才なるノイマンの仕事であるからミスなどあり得ないという。しかし確実なものなど何もないのが世の中というもので……不安を紛らわそうと手を伸ばした瞬間、専用の電話機が遂に鳴った。


「私だ」


「大統領閣下、お喜びください」


 上気した声はマンハッタン計画総責任者のグローブス少将のもので、


「遅ればせながら、コロンブスは新大陸へと辿り着きました」


「おおッ、本当かね」


 トルーマンは喩えようもない歓喜に打ち震え、数秒した後、労いの言葉をかけた。

 プルトニウム爆弾は予定通りの威力で爆発し、邪魔者も嫌なものも全部消してしまえるようになった。その事実が意味するところは明白で、指導者としての夢はたちまち膨らみ、耳には華々しく躍動的なる音楽が鳴り響く。


「グローブス君、それから君の下で働いてくれた全員に、改めて礼を言うぞ。本当に、本当によくやってくれた。諸君等の努力と献身は人類の歴史に深く刻まれることだろう」


「身に余る光栄です」


「うむ。いずれ原爆記念パーティで会おう。ああ、今はそのためにも、急ぎ攻撃目標の選定を行わねばならないな」


「はい、大統領閣下。是非お急ぎください」


 通話はそれにて終了し、トルーマンはすぐさま閣僚や将軍達に集まるよう命じた。

 とはいうものの、目標はほとんど決まっているようなものである。まず第一にベルリン、次は言うまでもなく東京で……思考はそこで壁にぶち当たった。「マリアナからの撤退を」と叫ぶデモ隊の声でもって、未だ日本本土攻撃の準備が整っていないことを思い出したのだ。使い勝手のよい飛行場を備えたテニアン島は、既にほぼ制圧が完了したが、滑走路に航空機を展開させた途端、サイパン島の山岳要塞から砲撃されるというのである。


「であれば……まずそれを破壊してしまうのがよさそうだ。TNT爆薬2万トン分のエネルギーを直撃させれば、どれほど堅牢な要塞であろうと吹き飛ぶはずだからな」

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