サン=ジェルヴェ秘密倶楽部

ジュネーブ:市街地



 秘かに日の丸を背負った杏野大佐が今、"総務部"の雲大尉とともに今いるのは、些か奇怪なる空間だ。

 ジュネーブに所在する国際機関や名門銀行の中堅職員がよく利用する、それなりに瀟洒なレストラン。静かに火花を散らしまくる各国の魑魅魍魎とは一見無縁な場へ、相応の平服を着用して赴いたところ、巧妙なる隠し扉つきの個室へと案内された。スーツケースに入れておいた礼装にすぐさま着替えた彼等は、現れた螺旋階段を忍び足で降り、燭台の灯された古めかしい隧道を数十メートルほど進んだ後、中世の神秘主義者が怪しげなる密儀でもやっていたかのような一室へと辿り着いたのである。


 薄暗く妙に湿ったそこは実際、現代の魔術と呼ぶべきものの舞台だった。

 部屋の主として、歴史についてあれこれ話している人物は、ホワイトという銀幕俳優もかくやと思うような容姿の男。ただし英国首相官邸に連なる秘密情報部の准将で、かの組織を統率するメンジーズ少将を様々な形で補佐しているとのことだった。士官学校を卒業した人間ではないようだから、軍人的な雰囲気はあまり醸しておらぬものの、優雅で気さくな魅力に満ちたる態度の中に、とんでもなく鋭利な短剣を潜ませているような凄みがあった。

 もっともその矛先が、直接的に自分達へと向けられる可能性は高くはあるまい。中立国スイスで表立った行動は取り難いだろうし、日英の停戦に向けた取り組みは、別のルートでも進んでいるからだ。


「ともかくも先の大戦の結果、世界には悍ましきベヒモスが誕生してしまった」


 幾つかの事柄について嫌味を滲ませた後、ホワイトはそう述べた。

 旧約聖書に記されし陸の怪物なるそれが、この場合はドイツやソ連などの特異な過激思想を奉ずる国々を意味することは、態々ホッブズの同名の著作を引かずとも明白だった。


「こうした逸脱的状況において、ともに世界に範を垂るべき紳士の国と武士の国が、かくの如く干戈を交える間柄となってしまったことこそ、人類史における一大損失と言わねばなりません。であれば1日でも早く矛を収め、肥え太ってしまったベヒモスの群れに立ち向かう必要がありましょう」


「ええ。我等が手は殴り合うためでなく、取り合うためにあるはずです」


 杏野もまた恭しい口調で応じる。

 どうせこの人物にしても、内輪では有色人種に対する悪口で盛り上がっているのだろうが……人種理論なる似非科学で盛り上がり、公然と罵詈雑言を投げつけてきた後に誤魔化したりするところよりは、遥かにましには違いない。世界大戦勃発以後の日本の舵取りは出鱈目の極みとの指摘は、負け惜しみも多分に含まれてそうではあるが、素直に肯かねばならぬ面も多いと彼は思った。


 しかしその一方、後悔は都合よくするべきだというのも、重要なる処世術に違いなかった。

 国家社会主義を掲げるドイツが大勝し、彼等が欧州統一勢力となり遂せそうな状況だからこそ、枢軸同盟からの離脱をちらつかせることに価値が生じているのだ。例えば何らかの形で日本が参戦せず、今次大戦が前回と似たような経過を辿っていたりでもしたら……今頃戦勝国となった米英ソが結託し、無茶苦茶な要求を突き付けてきていたかもしれない。そうした破局を回避できたことを、悔いる必要などあるはずもない。


「実際、マドリードでの和平交渉は既に大詰めとのこと。もう間もなく、この長きに亘った戦争も終わるかと。ならばその後、改めて友誼を深めて共存共栄を図り、国力の回復増進させつつ、新たな国際秩序の樹立に向けて尽力すればよいでしょう。それからベヒモスについてですが……一緒に戦ってみて、その傍若無人さに呆れ返ったという者も大勢おります」


「その筆頭が、恐らくは貴国の総理大臣閣下でしょうかな」


 ホワイトは諧謔的に笑み、


「あるいはもう少し早く気付かれるべきだったのかもしれません。何代か前、欧州情勢は複雑怪奇と宣って辞職した人物もおりましたし、貴国がソ連邦と中立条約を結んだ矢先、彼等は対ソ戦を始めた訳ですからね」


「ははは、これまた手厳しい」


「何分、お陰様で、我等が大英帝国も大損をこく破目になったものですから。まあそうした文脈からも、貴国が正道へと戻られることは歓迎せざるを得ません。とはいうものの……」


 ホワイトの碧眼に魔術的な光が宿り、


「このところ植民地人どもが、大枠で合意したところを見計らうかのように、無茶を言い出すようになっている」


「かもしれません」


 杏野はわざとらしくはぐらかす。

 とはいえ確認するまでもない事実であった。フランスの完全中立化および非武装地帯化が必要であるとか、日本の航空母艦保有数を3隻までに制限しろとか、その場で思いついたような卓袱台返しを繰り返しては、諸国の顰蹙と反感を買っている。


「それは植民地人の外交経験の未熟さが故であるとか、甚だしく新米で準備不足な大統領が政治的な成果を欲しているがためだとか、色々分析もありましょう。まあその点については……いや、止めておきましょう」


「気になりますな」


「まあお気になさらず。しかし……仮にこの不審なる挙動が、植民地人の筋書通りのものだとしたら如何でしょうか?」


「何ですと」


 前触れなき問題提起に、反射的に呻き声が漏れる。

 室内の空気が途端に重苦しくなり、呪術的な気配すら帯び始めた。ひたすらに黙し、記憶役に徹していた雲までも、驚異に顔立ちを歪ませている。


(だが……)


 幾らか思考を巡らせてみても、如何なる筋書きかは判然としなかった。

 莫大なる物量を誇る米軍も、既に攻勢限界に達しているというのが現状であるはずだからだ。欧州戦線はシェルブール一帯の防衛で手一杯で、太平洋においてはサイパンおよびテニアンに橋頭堡を確保したものの、その過程で3万人を超える犠牲を出してしまっている。そのため米国本土では反戦運動が猖獗を極め、デモ隊と州兵が取っ組み合いになる事態まで発生しており、どうあっても交渉を無意味に長引かせる利得などなさそうだった。


 あるいは原子動力潜水艦のような超兵器に、無理な期待をしているのかとも思った。

 実際、水中を無限高速潜航するそれ1隻の襲撃により、翔鶴型航空母艦を始めとする数隻が瞬く間に撃沈されたというから恐ろしい。それでも世界大戦を丸ごとひっくり返せるほどの存在ではないだろうし、聯合艦隊はその脅威を見越して艦隊温存戦略に舵を切っている。ついでに言うなら、特に相手がドイツのような陸軍国であったならば、海獣リヴァイアサンが如きそれの影響力も限定的。時間切れまでに決定打となりそうな要素は見つからなかった。

 それとも――東機関の情報にあった核分裂爆弾が、完成目前であるとでもいうのだろうか。悍ましき可能性が脳裏を過り、それを見越したかのようにホワイトが沈黙を破る。


「ご察しの通り、我が帝国は今次大戦に際し、植民地人と色々な超兵器の共同開発事業を行っておりまして……中でも秘密裡かつ大規模に行われたのが、核分裂爆弾開発を目的とするマンハッタン計画です」


「驚きましたな」


 杏野は冷や汗を覚え、


「そんな超重要機密について話されるとは」


「我が帝国としても、形振り構っていられない事情がありましてね。植民地人らしい率直さをもって申し上げるならば、彼等は間もなく核分裂爆弾を手にします。それも貴国やドイツで想像されているような、核燃料でもって軽水を沸騰させ、水蒸気爆発を起こさせるといった型式のものではありません。高濃縮のそれ十数ポンドを一か所に集め、一瞬のうちに100テラジュールほどのエネルギーを解放するという代物です」


「ふ、ふむ……」


 己が手の震えを自覚しつつ、杏野は肯く。

 ホワイトの概説するそれは、原子動力潜水艦の原理を応用するよりも遥かに技術的難易度の高い、端的に言うなら空想科学の領域にあるべきものに違いなかった。だがそこに手が届きそうだとなると……ここ最近の米国の異様な外交態度も、最悪な形で説明できてしまいそうだった。


「では、貴国の形振り構っていられない事情を伺ってもよろしいでしょうか?」


「生来の愚かさが故か、植民地人もまた、ベヒモスに堕そうとしているのですよ。この上なく欲深な彼等は、核分裂爆弾の圧倒的威力に魅入られ……それを一国のみで独占管理し、必要と思えば容赦なく使用し、もって世界に覇を唱えるという異常な野望を抱き始めている。我が帝国も科学者を大勢動員し、密に開発協力してきたにもかかわらず、宝石よりも貴重な彼等は機密管理強化という名目で事実上の軟禁状態にある。金を借りている分際で大口を叩くなと言わんばかりだ」


「まるで人肉を抵当に入れろと迫る悪徳商人ですな」


「まさしく。幾ら肩を並べて戦ってきた同盟国であろうと、このようなやり方は看過できない。心臓の肉1ポンドを差し出す訳にはいかない。我等が首相閣下はそう判断されました。将来を占う上でも、これは致命的な結果を齎すだろうとも」


「なるほど。それで我々に協力を、という訳ですか。蛇の目を描いた爆撃機を、カナダから飛ばす訳にはいかないでしょうから」


「ええ。こうした信じ難い背信に遭いそうな場合であっても、節度を保つことを私達は美徳とします。我が帝国は決して、ベヒモスの類ではありませんからね」


 意を得たりといった風のホワイトは、幾らか皮肉な面持ちで笑う。


「ただ、人間とは時として不注意なもの。国土へと侵攻してくる敵機の大編隊を、諸々の事情から大勢が見逃してしまったり、大型機への給油を目的とする大規模飛行場の近傍に、守備隊がほとんど配置されていなかったり……そんな愚かしい限りのことも、起こり得る可能性もあるということです」

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