竜挐虎擲! マリアナ決戦㉔

フィリピン海:パハロス島西方沖



「どういう訳か分かりませんが……非常に嫌な予感がしてきました」


 航海参謀をやっている鳴門中佐は、朝食を終えた直後、唐突にそんなことを言い出した。

 理由はと問えば、チビ猿のパプ助の尻尾が奇妙奇天烈な形に巻かれており、第六感的にピンときたとのこと。あまりに非科学的かつ支離滅裂な言動だが、彼は至って真面目な面をしている。


「それから尻の穴がむず痒くなるような気配がします。何者かが後ろから忍び寄ってきているというか……」


「メイロな、痔の毒が脳味噌に回っちまったんじゃないか?」


 流石の高谷少将も、これには呆れるしかなかった。

 それに忍び寄ってくるとしたら、現状では潜水艦しかあり得ないだろうが、航空母艦『天鷹』は19ノットの速力でもって追尾を振り切っている。針路上で待ち伏せされていると厄介だが、対潜装備の流星と駆逐艦複数でもって厳に哨戒しているし、不審な電波も観測されておらぬようだから、まあ大丈夫だろうと思われた。


 ただその直後、原子動力潜水艦の脅威が脳裏を過った。

 聞くところによると、20ノットで海中を無限潜航できるという化け物である。既に魚雷を撃ち尽くしたと推測されるものの、数発残しているかもしれない。それにチビ猿の尻尾が云々も、核分裂何とか炉に由来する特殊な放射線を、動物的本能でもって敏感に感じ取ったということかもしれぬ。まあ後者については、通信参謀の佃少佐によってすぐさま否定された訳ではあるが――確かに忍び寄られている可能性もある気がしてきた。


「ところでメイロ、燃料はまだ十分あるか?」


「はい。駆逐艦の分を含めてもまだ多少の余裕があります」


「おい、話が違うじゃないか」


 高谷は怪訝な顔をして問い詰め、鳴門はあからさまにギクリとする。


「昨日は19ノットでぎりぎりだと言っておらんかったか?」


「その……実は少々、燃費計算を間違えておりまして。あと1.5ノットほどいけます」


「メイロな、最初からそう言え。まあいい、少しばかり増速だ。もしかするとあの厄介な潜水艦につけられているかもしれんし、加えてさっさと母港に戻り、再出撃の準備としゃれ込んだ方がいいだろう」


 何ともいい加減なやり取りの後、発令がなされ、七航戦とその随伴艦は増速した。

 帰投が僅かながら早まると聞いて、将兵達は歓声を上げる。そうした中、高谷は絵心のある下士官と多少は技術的想像力のある中尉を呼び出し、恐るべき原子動力潜水艦のスケッチをさせてみることにした。





 深度60フィートを21.3ノットで驀進する『ノーチラス』は、既に航空母艦『天鷹』を追い越していた。

 そうして大きく取舵し、速力を保ったままその右舷へと突撃、至近距離から魚雷を叩き込んで撃沈する。艦長たるメルヴィル中佐が脳裏に思い描いていたのは、概ねそんな勝利の絵だった。


 しかし未だ舵が切られていない。仇敵なる艦が、いきなり加速し始めたからである。

 無論、最高速力での遁走という訳ではないから、存在に勘付かれたという訳ではあるまい。とはいえ元々の雷撃計画は崩れてしまった。それを今ここ場で修正し、見事凱歌を奏するためには、『ノーチラス』の更なる増速が必須で――そのために必要な決断が、躊躇なく発せられた。


「敵が増速した。炉の出力を100%まで上げろ」


「了解。出力100%」


 機関長の発した命令に、第二機関室のマクガイア少尉は元気よく応答する。

 物理学の急速なる進歩が生み出した、既存のものとはまさに別次元の原子動力機関。高名なるガン博士のチームの一員として炉心設計に僅かながら携わり、"ジャンク"の試運転が成功した後に専門の機関士となることを選んだ彼は、その真価が発揮される瞬間を誰よりも心待ちにしていたのだ。


 実際、これまでの運用はといえば、慎重に過ぎたと言っても過言ではないだろう。

 あまりにも前例のない試製品だからという理由から、出力は大幅に制限されており、暫く前まではそれが遵守されてきた。マクガイアに言わせるならばそれは、まったく愚かしい判断だった。"ジャンク"は設計上、定格の125%までは安全性が確保できているのだから、それを十分に活用するべきだったのである。3日前に炉が突然停止してしまった事故にしても、やたらと急いで制御棒を挿入したため臨界条件が崩れたのであって、もう少しゆっくりやれば大丈夫なかった――少なくとも彼はそう推定していた。

 そして間違いは今まさに修正されんとしているのだ。現状の90%から全力運転へと移行し、問題などないことが実証されれば、鬱陶しい制約も消えてなくなるに違いない。


「よゥし……」


 心地よい緊張感が満ちる中、相方のスモール技術軍曹と視線を合わせる。

 制御棒の引き抜きによって急増する核分裂反応を、一次冷却水の流量調整によって緩和するのだ。阿吽の呼吸が必要とまではいかないが、各々の操作を手順通り確実に実施することが最重要。口以上にものを言う目でもってそれを確認した後、己が担当する盤面のボタンを決意を込めて押し……すぐさま異変に勘付く。


「なにッ!?」


「少尉、どうした?」


「機関長、"ジャンク"が操作を受け付けません」


 マクガイアは血相を変えて報告し、


「複数回試行しましたが駄目です、制御棒引き抜きに毎回失敗します」


「他の棒を試してみろ。とにかく急ぎ出力を上げんと、食中毒空母を取り逃がす破目になる」


「了解。何としてでも」


 顔を真っ青にしながらも、マクガイアは必死に操作を継続した。

 流石にこの段階ともなると、制御棒駆動機構に致命的な不具合が起きているのではないかという危惧も生じる。しかし"ジャンク"の設計は完璧なはずであり、また食中毒空母撃沈の栄誉を逃す訳にもいかなかった。


「頼むから、動いてくれよ」


 焦燥に満ちたる声が、切迫した呼吸に入り混じる。

 マクガイアは是が非でも出力を上昇させんと必死に奮闘。、幾度か制御棒選択を変更した後、遂に確かな手応えを得た。


「よし、上手くいったぞ」


 そう安堵しながら対数中性子計を一瞥し、針がレッドゾーンを軽々と超過していくのを目撃した。


「何……だと……」


 あり得るはずのない挙動に、マクガイアの血の気が引く。

 南極大雪原の如く凍りついた内心とはまるで対照的に、炉内に装荷されたプルトニウムは信じ難いほど核分裂反応を加速させており……つまるところそれは、彼が無理矢理な連続操作を実施したためだった。結果として駆動機構が完璧に破損、更に複数の制御棒が固定から外れて滑落し、流量調整などではまるで歯が立たぬ異常な暴走状態を作り出してしまったのである。





「せ、制御棒ドリフト! スクラムできません!」


「第二機関室、いったい何が起こった!?」


 泣き出さんばかりの絶叫に、メルヴィル中佐は訳も分からず問い返す。

 それが如何なる意味の警報か、彼はきちんと把握できていなかったのだ。だが艦と自分達の生命にどれだけの致命的影響があるかは、あまりにも明白な形で体感することとなった。第二機関室より返答が戻ってくるより先に、艦尾方向から猛烈なる衝撃と爆発音が伝播してきたのである。


 態々言うまでもなく、それは核分裂炉"ジャンク"の過酷事故だった。

 まるで対処のしようのない反応度の印加により、プルトニウム燃料が急激に発熱。たちまち溶融状態となったそれは、被覆管を破壊して炉内に漏洩、接触した一次冷却水を片端から蒸発せしめたのである。かくして生じた高温高圧で多量の放射性物質まで含んだ水蒸気は、循環系の配管を次々と弾けさせ、更には鋳鉄製の圧力容器すらも食い破り――動力機関としての構造を完膚なきまでに崩壊させてしまった。

 そして推進力を喪った『ノーチラス』は海水の抵抗を受けて急減速し、ほぼ同時に艦体が僅かに傾斜し始めた。その意味するところが分からぬ者など、艦内に1人としているはずもない。


「機関室にて浸水。止められません」


「第二機関室応答ありません」


 各部署から次々と被害報告が飛び込み、『ノーチラス』の重金属的な悲鳴が心を抉った。


「機関区画から退避急げ。退避完了と同時にメインタンクブロー、緊急浮上する」


 メルヴィルはこの世のものと思えぬ形相で、何とか指示を出していく。

 彼は状況は絶望的と悟り、またそれは自身の招いた結果だと理解しもした。"ジャンク"が爆発物に変わった原因など、もはや確かめる術などない。しかし戦果に目が眩んで出力制限を有名無実とさせた結果、最先端の原子物理学の結晶たる潜水艦を大破させ、未来と家族のある60余名を地獄へと追いやってしまった――それだけはまず間違いなさそうで、反射的に拳銃を咥えかねない心境だった。


 それでも艦長としての責任から、逃れる訳には絶対にいかなかった。

 激烈な憤怒を圧し殺した副長の目が訴えてきているように、後悔と弁明は生き延びた後にするべきなのだ。あるいは天国で軍法会議にかけられる運命となるのかもしれないが、ここでベストを尽くさぬ理由などありはしはい。後悔と自責の念ばかりが溢れる精神を鞭打ち、乗組員と祖国のための義務を尚も果たさんと奮闘する。


「そうです、艦長。我々はまだ戦闘中です」


 副長は諸々の敵愾心を声に滲ませ、


「魚雷を叩き込んで道連れにするチャンスも、まだあるかもしれません。あの忌々しい食中毒空母めを」


「食中毒空母……」


 討ち取るはずだった仇敵の名を唱えた瞬間、メルヴィルは混沌に肩を叩かれた。

 近付くと呪われるとか不思議な力で死ぬとかいった、どうしようもなく小児的な世迷言として退けるべき迷信の数々。米海軍内部でまことしやかに囁かれているそれらは、もはや疑いようもない現実なのだと実感されていた。そして万物の法則が一切通用せぬところに住まう、人々の理を歯牙にもかけぬ根源的に異質な存在が、遊び半分でプルトニウム核分裂炉に悪戯をしたのだ――そう認識された時には既に、彼の魂は漆黒の深淵へと引き摺り込まれていた。


「は、はは……はははははは……」


 名状し難いほどに病的な音吐が、異音の満ちる発令所に木霊した。

 周囲に狂気を伝染させながら、メルヴィルは壊れたレコードのように笑い続ける。死に瀕した『ノーチラス』のトリムと同様、正常性を完全に喪失した彼の意識の中では……航空母艦『天鷹』の冒涜的な魂魄を身に纏い、無貌の女神と化した東京放送のアナウンサーが、姦しい声でただひたすらに捧腹絶倒していた。

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