竜挐虎擲! マリアナ決戦㉓
フィリピン海:サイパン島北西沖
「糞ッ、こんなところで退く破目になろうとは……」
七航戦のバンカラ司令官こと高谷少将は、心底悔しげに呪詛の言葉を吐き出す。
彼はほんの十数分前までは、念願叶ったりと猛りまくっていた。米揚陸船団への接触を続けていた彩雲が、それらが西進し始めたと伝えてきたためだ。すなわちマリアナ沖での海戦は未だ終わらずという訳で、艦隊決戦支援を終えた航空母艦『天鷹』の艦載機でもって、必ずや敵主力艦を撃沈してやると彼は息巻いていた。
だがあろうことかその直後、聯合艦隊司令部より撤退命令が伝達された。
誰よりも戦意を滾らせていた高谷が、これに憤慨したことは記すまでもない。揃いも揃って臆病風に吹かれたかと、無電を握り潰してしまいかねない勢いすらあった。それでも第一機動艦隊の惨状が伝わってくると、流石の彼も意気消沈せざるを得なかった。歴戦の『翔鶴』が総員退艦となったのも大きかったが、給油艦が軒並みやられて爾後の洋上補給が受けられないなど、帰投する以外の選択肢が跡形もなく消滅してしまっていたのである。
「ひとまず陣を建て直し、再度の出撃に期待する他ないでしょう」
艦長の陸奥大佐もまた、所在なさげに犬のウナギを撫でつつ言う。
雰囲気の激変が人に及ばぬ脳髄でも知覚できるのだろうか。普段喧しい動物達も、今は妙に静かであった。
「それに上陸作戦を行う心算ならば、相当の戦力を張り付けざるを得ません。そこを狙えば、主力艦撃沈も叶うかと。であれば帰投するや否や全力エスプレイに興じるなどし、もって士気を高めるべきかと」
「もはやいちいち怒る気もせん」
高谷はとことんうんざりし、恨めしそうに南東の海を睨む。
実のところ彼は、七航戦だけでも勝負に出る所存であった。原子動力潜水艦は信じ難いくらいの脅威ではあるが、桐二船団や第一機動艦隊の被害状況を鑑みるに、敵は搭載魚雷をすべて撃ち尽くしたのではないかと推測できた。ならば基地航空隊と連携し、艦砲射撃のためサイパンに接近するであろう戦艦を空襲できると考えていたのだ。
そうした計略が画餅に帰してしまったのは……まあ己が判断のせいである。
大運動戦をやった第一水雷戦隊の残存駆逐艦が、燃料が足らぬと盛んに訴えたから、大盤振る舞いをしてやった。まさか合流する予定だった給油艦が、雷撃でいきなり沈められるとは思っていなかったが故で、本来ならばまだ十分な航続力を有していた『天鷹』も、帰投せねば海原に立ち往生となってしまったのだ。自分は悪戯好きの邪神か何かに呪われているのではないか。主に米英からの冒涜的な悪評など露知らず、そう思い込んで憚らない。
「まあしかし、次に賭けるしかないか」
高谷は嘆息気味にぼやいた後、脳味噌のスイッチを強引に切り替えた。
それからちょうど艦橋へとやってきていた666空飛行隊長の博田少佐を見やる。
「おいバクチ、対潜哨戒の流星をもっと増やせ」
「少将、よろしいので?」
「うむ、つまらぬところで『天鷹』を被雷させる訳にはいかんからな」
高谷は命じ、計画を急ぎ改めさせる。
まあ原子動力潜水艦とやらは、流石にもう帰投し始めているだろうが、用心には越したことはない。それは判断としてはまったく正しかったが、迫りつつあった脅威に対して有効とは言い難かった。
「方位2-6-0、距離およそ15海里にスクリュー音複数を聴知」
「速力19ノット、針路3-4-5。大型艦、恐らく航空母艦と思しきものも混ざっています」
深夜。水測室からの報告に、『ノーチラス』艦内は色めき立った。
確信的という他ない原子動力機関でもって、荒れ狂う白鯨のように日本機動部隊を蹂躙した彼女は、尚も戦闘哨戒任務を継続していた。敵主力は既に尻尾を巻いて遁走を始めたようだが、マリアナ沖に遊弋し続ける艦隊もあるやもしれぬとの判断で、見事それを捕捉した形であった。
無論、Mk.14魚雷はほぼ撃ち尽くし、予備の2発しか残っていない。
しかし今乗り組んでいるのは『ノーチラス』に他ならぬ。千尋の海を大速力で無限潜航する、既存の対潜戦闘兵器を受け付けぬ無敵の海獣なのだから、自衛戦闘の必要性など一切生じぬことは明白。そのため残弾をもって敵大型艦を撃沈し、史上空前の大海戦の最後を飾るのがよいと思われた。
「それに恐らくあいつは……名を呼ぶも悍ましい食中毒空母だ」
艦長のメルヴィル中佐は、敵愾心を滲ませた口調で推測した。
「奴は機動部隊主力から分離し、戦艦部隊の支援に当たっていたとのことだ。そのせいで我が方の戦艦は大損害を被ってしまったようだが……とにかく位置関係から見て、食中毒空母と見て間違いないだろう。つまり仇を撃つなら今、何としてでもあの糞あばずれの懐に飛び込み、必殺の魚雷でもって海の藻屑としてしまいたい」
「おおッ、食中毒空母を!」
乗組員一同が異口同音に沸いた。
とにかく常に嫌なところを彷徨き、連合国軍の作戦を滅茶苦茶にしていく悪魔の眷属。冒涜的黒魔術によって混沌を撒き散らし、関わる者の精神を次々と発狂させる邪悪な軍艦。それを最先端物理科学の申し子たる潜水艦によって撃滅し、つまらない迷信に変えてやるのだと、誰もが気炎を吐きまくった。
「ですが艦長、追いつけるでしょうか?」
水を得た核燃料のような熱気の中、副長が尋ねてきた。
「ジグザグ運動はするとしても、恐らく敵は帰路にあります。食中毒空母は元が貨客船のため相応の高速巡航が可能ですから、本艦の水中速力をもってしても、追従は困難かもしれません」
「副長、忘れてしまったかね? 本艦は機関出力75%で20ノットが出せるのだぞ」
メルヴィルは実に楽しげに笑み、
「食中毒空母を追撃し、雷撃を仕掛けるに十分な速力だって出せるはずだ、出力を90%や100%とすればな」
「そ、それは危険過ぎます」
副長が眉を顰め、声を荒げた。
それから間を置くことなく懸念を表明する。『ノーチラス』の心臓たるプルトニウム核分裂炉"ジャンク"は、僅か半年足らずの間に急造された試製品である関係で、出力は最大50%までと運用制限がなされていたのである。
だが生粋の潜水艦乗りにとって、それは宝の持ち腐れも同然だった。
しかも"ジャンク"の運用責任者として乗艦したりしていた、リッコーヴァーなる機関科の中佐は、メジュロが空襲された際の化学兵器漏洩事故で戦死してしまっていた。故にメルヴィルは独断で封印を解除。更には絶大なる期待をかけてくれている太平洋艦隊司令長官の追認も得て、上限を随分と引き上げさせていたのだ。
「ともかくも艦長、"ジャンク"はまだ運用実績の蓄積されていない、得体の知れない代物です。であれば今は無理をせず、艦を持ち帰ることを最優先とすべきではないでしょうか? 既に戦果も戦略的なレベルで挙がっていますし、態勢を整え直して再出撃するのでもよいかと。次はエンペラーの眼前の東京湾で、敵艦隊を襲撃することだってできるはずです」
「ふむ、傾聴に値する進言だ」
メルヴィルは偽るところなく評した。
実際、彼もまた危険については理解していた。何もかもがチョコミント味のアイスクリームのように爽快ではない、それは疑いようのない現実だった。
「しかしそれでも、ここは打って出るべきだろう。チャンスの女神の前髪をむんずと掴み、押し倒してやるのだよ」
「形態としては、後ろから襲いかかる形になりそうですが」
「副長、物事はもっと鳥瞰的に見るべきだ。それに先程、貴官は戦略的なレベルの戦果と言ったが、食中毒空母は政治的な仇敵にすらなっている。ならばマリアナ上陸作戦のためにも、ここで撃沈した方がよい。加えて……」
メルヴィルは漂流事故に関するレポートを脳裏に浮かべ、第二機関室へと電話した。
そうして新米ながら頭脳明晰なる機関長に、幾つか技術的な質問を投げかける。回答は簡潔明瞭で、彼はそれらをもって確信を深めていき……通話を終えるや、改めて副長の目を見つめた。
「聞いての通りだ。機関長はやれると言っている、その言葉を信じたい。この間のように"ジャンク"が不具合を起こす可能性もなきにしもあらずであるが、どうやら出力を上昇させ、高止まりさせている間は問題が起き難いようだ。だったら食中毒空母を沈めるまでは大丈夫だろう。再び漂流せねばならぬとしても、その後でなら、ちょっと帰投が遅れるだけで済む」
「了解いたしました。そこまで仰られるのでしたら、やるしかありませんね」
「その通り、我等が目標は食中毒空母だ。何としてでも奴に引導を渡し、気持ちよく帰還しようではないか」
メルヴィルは拳を振り上げて咆哮し、誰もがそれに続いた。
"ジャンク"の核分裂反応はいよいよ増大し、生じた高温高圧の水蒸気が艦のタービンを唸らせる。増大した動力はスクリューへと伝わり、『ノーチラス』は白鯨さながらに水中を疾駆。日本本土への離脱を図る目標との距離は、ゆっくりとだが確実に縮まり、艦内の誰もがその先に輝かしい未来を思い描いた。
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