諸説紛々和平工作

父島:洲崎飛行場付近



「ようやく、しおらしくなってきた米国世論……ということではないのか?」


「常識的に考えれば、その通りなのだとは思う」


 狭き滑走路に対潜哨戒機が犇めく洲崎飛行場。その近傍を貫く林道に、何処か鵺のような話し声が木霊する。

 一方はその吝嗇ぶりで七航戦に名を轟かせたる抜山主計少佐。そんな彼と相対するは、同じ期の出身でありながら、今は何をやって食っているのか分からぬ高瀬なる人物だ。


 彼等が議題としているのは、マドリードで非公式に進捗している停戦協議に他ならない。

 実のところを言うならば、これまで枢軸連合両陣営間を跨いでの交渉は、特に真珠湾攻撃以来ほとんど行われてこなかった。日露戦役くらいの国際感覚でいえば、まるきり理解しかねるところだが……地球上に存在する列強のすべてが敵味方に分かれて干戈を交えたともなると、利害関係が著しく複雑化することに加え、和平の仲介を行い得る主要な中立国がなくなってしまうが故だった。

 それでも漏れ伝わってくる条件は、なかなかによいものと思われた。つまるところここ数か月で急激に態度を軟化させた米国が、暫く前に英国が打診してきた内容での和平を、真剣に検討しているというのである。


「まあ米国以外については、もはや戦争継続能力を失ったと断言できる」


 高瀬は懐からメモ帳を取り出し、目的のページを一瞥。


「ソ連軍はこの間、レニングラード方面でおよそ110万もの損耗を出して撤退。もはやロシヤにはまともな壮丁がおらん、アジアの労働力なしには国の存続すら覚束ないだろう。英国も現状維持で手一杯、王立海軍はトロムセ沖で『ティルピッツ』を仕留めたのと引き換えに、空母2隻と戦艦3隻を撃沈された。酷いもんだな」


「ああ、戦艦のうち1隻は沈んではいないよ。魚雷複数を食らって航行不能に陥り、そのままドイツ海軍に鹵獲されたそうだ。艦名は『アンソン』だったか。手負いの仇敵を追いかけ回して、フィヨルドに近付き過ぎた結果だな」


「何だ、もっと酷かったか」


 失笑。ドイツの新聞に掲載されていた、「英国より輸出されたる戦艦が到着」というらしくないジョークが思い出される。

 尚この基準で言うならば、開戦劈頭に航空母艦の対日輸出実績まである訳で、そちらに関しては自ら携わった。かような具合に軽く自慢話を交えた後、脱線した話題を元に戻す。


「それで、つまるところは何なのだ?」


 抜山は幾分目を細め、ゆっくりと歩を進めながら尋ねる。


「不甲斐ない同盟国に引き摺られて停戦交渉に乗り出してきたのでも、この間遂に戦時国債の未達があったが故でも、大筋はさほど変わらないはずだ。少なくともマリアナ沖で負けなければ戦争は無事片付く、そうなのだろう?」


「どうも急に物分かりがよくなり過ぎている、そんな気配を感じる訳だよ」


 高瀬は掴みどころのない顔をして言い、ほとんど感想で悪いがと付け加える。

 だが真っ先に抱く印象とは、思考が追い付けぬ速度で脳味噌が動作した末のものかもしれぬ。であれば直観的なそれに至る筋道を後追いしてみることも、特に不確実な世界で将来の予想を立てる時などには、相当に有用だったりするものだ――抜山はそんなことを思いつつ、話の先を促した。


「実のところルーズベルトめは、無条件降伏以外認めないと宣言する寸前だったというからな」


「いったい何を言っているのだ?」


 齎されたのはまったく予想外の内容。抜山は思わず耳を疑い、反射的に尋ね返す。

 ただちに軍隊を武装解除させ、ヴェルサイユ条約よりも酷い条件だろうと問答無用でそれを飲めということだろうか。そんな死ぬか奴隷となるかを選べというような、極まりなく論外な要求を受け入れる国などあるはずもなく、如何な外交音痴の米国とてそれが分からぬはずはない――これまでに培ってきた常識は、あまりにも荒唐無稽だと告げていた。


「ああ、だが前任のルーズベルトか。確かに頭の病気が原因で無茶苦茶な演説をし、職務遂行不能と認定されるような御仁ではあったから、あり得なくもないかもしれんが……」


「いや、一昨年の正月明けくらいの話だ。ケベックだのモントリオールだので米英首脳が協議を続けておった際、米側がそんな提案をしてきたという。流石にチャーチルが顔面蒼白になって大慌てで止めたそうだが……あのとことん負けが込んでた時期ですら、アメ公どもはそんな調子だったようで、その後も定期的にこの話が蒸し返されたとのことだ」


「流石にガセネタを掴まされたのだと思うぞ」


「そう言うだろうと思っていた。実際、当初は俺もそんな反応だったからよく分かるよ」


 高瀬の眼光が鋭利さを増し、裏付けは既に取れてしまったと呟く。

 何でも昭和17年夏頃に催された重要会合の議事録の写しが手に入ったとかで、それによると米国は開戦直後から枢軸同盟の完全打倒を目指す方針を固めていたとのこと。蒋介石が降って連合国の一角が瓦解した後ですら、それは変わらなかったというから恐ろしく、軍事的な大成功だった真珠湾攻撃も、戦争全体で見ると相当に拙い手だったと言えるのかもしれない。


 もっとも――現在の戦局は、やはり米国にとってもどうにもならぬ状況だろうと確信された。

 欧州大陸における連合国軍の反攻という可能性は、50万超の大陸軍兵力とともに消滅した訳であるし、太平洋においても精々が判定勝利しか望めそうにない。膨大な工業生産力は未だ健在ではあろうが、世論的にも予算的にも戦争遂行は困難となりつつある。とすれば無条件降伏が云々という情報も、出所であろう英国かソ連邦の筋が、和平に当たって恩を売るために流してきたものという風にも考えられそうだった。

 そして問い質すと、高瀬は何処か空虚な雰囲気を醸しながら、常識的に考えればその通りと改めて首肯した。


「だが問題は、非常識的な可能性の方だ」


 高瀬はメモ帳を再び開き、歩きながらパラパラと捲る。


「米有力企業の動向を漁っているうちに、些か奇妙な発注があるのに気付いてな……どうも米国政府が、数千万から数億ドルという規模でもって、何らかの秘密事業をやろうとしている風だった。ただ戦争に関係しそうな工場や発電所を建造する訳でもなく、酷く理解し難い内容ばかりだった。しかしこれらに関連する情報は、新聞や雑誌などにはさっぱり出てこないから目を付けていたのだが、最近その正体が朧気ながら見えてきた。原子兵器だ」


「原子兵器?」


 抜山は思わず怪訝な表情をし、それから「羅府けし飛ぶ」なんて題の小説を思い出す。

 暇潰し用に購入した雑誌に掲載されていたそれは、放射性元素の分裂を利用した大威力爆弾で米国を降伏に追い込むという、何処までが科学なのか分からぬ内容の短編だった。


「マッチ箱大の爆弾で富士山をも吹き飛ばすとかいう、あれのことか?」


「ああ、そいつだ。現実にはマッチ箱どころか、数トン程度になるらしいが」


「一応、理論は確立しつつあるものの、ほぼ技術的には空想の域を脱していないと聞いているな」


「最近になって事情が変わってきた。ともかく君のとこの司令官の義兄だったかが、九大で同種の研究をやっていて、陸海軍もそれに乗ってあれこれ事業をやり始めてな。そこで発注された品目などを確認してみたら、米秘密事業の正体が分かったという訳で……当然規模は向こうが上で時期も早い、既に何らかの成果を得つつあるのかもしれん。元々はものになるまでに数十年はかかると言われていたが、新元素の発見によりそれが大幅短縮される可能性が出てきたという」


「とすると……事実ならば大変に拙いのではないか?」


「ああ。大変に拙い」


 真夏にあっても鳥肌を立たしめる声で、高瀬は続ける。

 可能性としては動力機関および爆弾が考えられるとのことで、前者については既に実戦投入済みかもしれぬと抜山は直感する。緘口令が敷かれてはいるものの、1週間ほど前にマリアナ沖で、船団が理不尽なほどの被害を受けたのだ。噂によれば、相手は僅か1隻の潜水艦とのことで、原子動力機関を搭載しているとすれば辻褄が合いそうだった。


「それからこちらが真としても、今の米国が急に態度を軟化させた理由も説明できる。つまるところは擬装だ。原子兵器の数が揃うまで、あたかも和平を求めているかのように振る舞い、いざ準備が整ったら交渉の最中に原子兵器を投入する。米海軍がマリアナ攻略の構えを崩していないのも、これが関係しているかもしれん」


「なるほどな」


 抜山は固唾を呑み、満杯になりそうな頭の中を整理する。

 沈黙が重苦しい。心なしか野鳥類の囀りまでが、筆舌に尽くしがたい悍ましさに満ちているような気がした。つまるところマリアナ失陥は、最悪の場合日本本土への原子兵器攻撃に直結するかもしれぬのだ。それがどれだけの被害を齎すかなど想像することさえ困難で、更にはルーズベルトが宣おうとしたらしい一切の国際慣習をかなぐり捨てたような妄言ですら、まるで冗談でなくなってしまうかもしれない。


「分かった。非常識的な可能性を柱として動こう。今回は当てが外れたとしても、いずれこの原子兵器に関する諸々は世界を震撼させるだろうから、何がしかの先行投資とはなるはずだ」


「了解した」


 かくして如何わしき者達の行動指針は示され、高瀬は亜熱帯林の中に消えていった。

 それから抜山は小笠原に固有の動植物を呆然と眺め、暫くしてから踵を返した。山林を抜けて二見湾沿いの道を歩む彼の目に映ったのは、軍艦旗を翩翻とはためかせる頼もしき艨艟達。当然ながらそこには、乗り慣れた航空母艦『天鷹』の姿もあった。


「一介の主計将校には過ぎた話とはいえ……次なる決戦、是が非では勝たねばな」


 抜山は相応に意を決した面持ちで呟き、己が職責を果たすべき場所へと戻っていく。

 航空母艦多数を含む米機動部隊、クェゼリン環礁を出撃しつつあり。強行偵察に出たとある彩雲のペアが、命と引き換えにそう打電してきたのは、翌朝午前7時頃のことだった。

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