日米決戦前夜的入湯上陸

父島:二見港



 航空母艦『天鷹』が父島へと到着したのは、トラックを経ってから概ね1週間後のことだった。

 多数の水上機や飛行艇、更には回転翼機なる珍妙な飛行機械がブンブンと飛び回る中、恐る恐るの入港である。決戦前に戦力漸減を狙った米潜水艦隊が、小笠原初頭の近傍に多数出没しており、一昨日には重巡洋艦『青葉』が被雷して後退する破目になったという。そのためまったく気が抜けなかったが……厳重に防備された二見湾の内に入ってしまえば、ひとまずこっちのものである。


 そうして投錨し終えた後、誰もが待ち焦がれていた上陸の時間がやってきた。

 サイパンやトラック等でも羽を伸ばすことはできるが、四半世紀前に連盟の委任統治領という形で国土に組み込まれたそれら島嶼には、やはり異国情緒に溢れ過ぎている。対して小笠原は内地であり、一応は東京都であり、皆がよく知る日本そのものだ。素行不良だのゴロツキだの悪評ばかりが囁かれる『天鷹』乗組員であっても、祖国のために命を投げ打つ覚悟を決めた軍人には違いなく、艦上より景色を眺めては号泣し、波止場に到着するや万歳三唱といった具合であった。


(もっとも……)


 七航戦を預かる高谷少将にとっては、上陸とは嬉しいばかりでなかったりもする。

 次の作戦に備えての諸々があったり、現地指揮官と仁義を切ったせねばならぬのはもちろんだが、『天鷹』に乗り組むは通常の3倍は手が出るのが早い人間ばかりで、これがまた問題行動ばかり起こすのだ。酔った勢いで集団喧嘩をおっ始める、女と見れば人妻だろうと言い寄ろうとする、安普請の飲み屋を物理的に潰してしまうなど、とかく悪行三昧が甚だしい。特に狭い離島ではあっという間に情報が広まるから、明日も知れぬ身であるから大目に見てほしいと、あちこちお詫び行脚をせねばならぬ。

 なお方々から請求される慰謝料に関しては、抜山主計少佐を恫喝することで隠密裏に解決できたりする。ヌケサクなどという渾名に反し、妙に抜け目のない彼は、こっそり裏金をこさえていたりするので、それをありがたく頂戴する訳だ。


「しかしまったく……よりにもよって風呂屋で暴れる馬鹿がおるか」


 海軍が将校クラブとして借り上げている旅館の休憩室にて、高谷は大きく溜息を吐き出した。

 比較的大人しいはずの機関科どもが、今日に限っては銭湯で騒動を起こしたのだ。手を焼くどころか火傷である。


「始終ボイラーを炊いておるなら、小笠原で湯を沸かすのが容易でないくらい理解しろというものだ。しかも軍艦乗りが万と集っておる。そんなところで風呂をぶち壊したとなったら、味方に沈められちまいかねん」


「ゴキブリ騒動の続いてこれですから、勘弁願いたいものですね……」


 同じく頭を下げにいった『天鷹』艦長の陸奥大佐も、これまた疲れた具合である。

 なお聞くも憚られるかの騒動は、両津という困った上等兵が引き起こしたものだ。ゴキブリを100匹捕まえて提出すると、特別に上陸許可が下りる。艦内を清潔に保つため、そんな具合の制度を取り入れている軍艦は多いが、あろうことか彼はかの黒々とした昆虫を隠密裏に養殖しており……挙句の果てに、手違いで飼育箱をまとめてひっくり返し、中身をぶちまけてしまったからたまらない。


「実際、今日も下着の中から死骸が転がってくるわで」


「ムッツリな、お前の監督不行き届きでもあるのを忘れるな?」


 高谷はフンと唸り、ちょうど従兵が持ってきた氷コーヒーをありがたくいただく。

 南方よりの気候故、明治期からコーヒー豆の栽培をやっていたとかで、小笠原のちょっとした名物であるらしい。


「うむ。美味いし頭が冷える」


 高谷はそんな調子で思考を切り替え、


「まあ何だ、次こそ天下分け目の大決戦。勝てはするだろうが、それでも絶対に楽な戦にはなりそうにもないし、大勢が戦死するだろう。我等が『天鷹』とて沈むかも分からん。となれば遺恨も未練も残さず、すっきりした頭で臨むべきだ。かような明鏡止水の心境に到達し、もって米主力艦撃沈を成し遂げるのだ」


「邪念を祓っているようで、祓えていないということになりませんかね、それ?」


「いやなムッツリ、街じゃ田中艦隊の話題で持ち切りだが、『天鷹』とか七航戦とかいう語はまるで聞こえてこぬのだ。幾ら何でもこれはよろしくない。死ぬ時は死ぬものだが、ここは差し違えてでも敵空母を沈めてやらんといかん」


「やるだけやって、駄目なら水漬くかばねの護国の鬼になればいい……では足りませんか。確かに日米合わせて40隻以上の航空母艦が衝突する、空前絶後の大海空戦となりそうですからね」


「うむ。それ故に今はともかくも英気を養い、宿願を果たせるようにせねばならぬ」


「あ、ところで少将」


 陸奥は腕時計を一瞥し、続けて傍らの机上に置いてあるラジオを弄る。


「そろそろ東京放送の米兵向け番組が始まるのですが、なかなかに面白いので、語学鍛錬ついでに聞かれませんか?」


「どうしたムッツリ、脳味噌ドドメ色のお前にしては随分と殊勝な心掛けじゃあないか」


 高谷は大いに瞠目し、ともにラジオを聴くこととした。

 桑港沖の軍神と喧伝されたる玄葉少佐は、生還の見込みの薄い作戦と知りながら、出撃直前まで水雷に関する勉強をしていたという。つまりは生死の境にあっても一切変わらぬ平常心があってこそ、未曽有の大戦果を残せるということに違いなく、陸奥もまた畏るべき後生に倣おうとしているのだと思ったのだ。


 だが……番組が始まるや否や、かような感心は木っ端微塵に砕け散った。

 ラテン語学を皮切りに主要な欧州言語をほぼ網羅した某大将などとは比ぶるべくもないが、高谷とて飛行甲板上で手袋を投げてきた英艦長を相手に、決闘の口上を堂々と述べる程度の語学力は有している。そんな彼の鋭敏な耳朶に叩きつけられたのは、あまりに信じ難い英語放送だった。


「連合国軍のみなさんこんばんわー♡ マリアナへの無謀な突撃おつかれさま、後ろガラ空き♡ 射撃ヘタクソ♡ そんな皆さんにこの度、帝国海軍の精鋭達が空母ごと輸送船団を壊滅させちゃったことをお知らせいたします♡」


「おにーさんたちって群れると強いけどバラバラになるとちょー弱いんだね☆ ねーねー、戦艦を持ってきたのに巡洋艦に手も足も出ずに沈んじゃうのってどんな気持ち? 一発で逝くとかマジあり得ないんですけど、だっさー☆」


 女性アナウンサーの台詞を無理矢理日本語訳すると、かような具合になるのだろうか。

 どうにも年端もいかぬ少女が、やたらと糞生意気かつ煽情的な口調で、大人を好き放題にからかっている。そんな異常な雰囲気に満ち溢れた内容となっており、キンキン声を聴いているだけで頭がズキズキしてくる。しかも陸奥が鼻の下を伸ばしたような顔をしているので、頭痛は余計に酷くなった。


「おいムッツリ、何だこれは? 周波数を間違えておるんじゃないのか?」


「いえ、間違いなく東京放送です」


「破廉恥に過ぎる。何でこんなイカレた内容なんだ、いい加減にしろ」


「そりゃあ米兵の性癖を捻じ曲げる謀略放送だからでしょう。実際、米兵に人気が出ておるそうですよ? 厭戦気分の醸成には役立っているのか怪しい気もしますが、まあいいんじゃないでしょうか」


「ムッツリ、お前に感心した俺が馬鹿だった」


 高谷は心底呆れ果て、負の値同士を掛け合わせて正になってくれとだけ思った。

 そうして頭を抱えて立ち去ろうとすると、件の女性アナウンサーが『天鷹』の話題を切り出した。遭遇すると不幸になる呪いの空母なんて言い草で、あまりにもぞんざいな扱いだと憤る。実際それが米海軍に蔓延している迷信に他ならず、自身が不気味に静かな台風の中心にいるも同然であるなど、今の彼には知る由もない。

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