巴里地獄変・下

ヴィシー:市街地



 四面楚歌の第12軍集団が降伏に同意したのは、5月8日朝のことだった。

 まあ彼等の耳に響いていたのは、楚歌というよりはホルスト・ヴェッセルの歌でありそうだが……ともかくも敵味方合わせて十数万、民間の犠牲者を含めればその倍という信じ難い犠牲を生んだ大市街戦はどうにか終結。焼け焦げたエッフェル塔に掲げられし三色旗は、戦斧を象ったそれに取って代わられたのである。


「ひとまずこれで、欧州戦線は片付いたな」


 日本大使館にほど近い、些か貧乏臭いオフィスにて、杏野大佐は机上の号外を一瞥する。

 捕虜は15万人にもなると見込まれているようだ。更に自由フランスの首魁だったドゴールは、世を儚んで拳銃自殺したとのこと。実際、共和制フランスというのは歴史上の政治体制となりそうな情勢だ。


「流石の米英とて、欧州遠征軍の半分が喪われたとあっては、もはやどうにもならんだろう」


「エブルーの第17軍集団も後退を始めたとのこと」


 "総務部"の雲大尉がそう補足し、


「ノルマンディーのみ死守となるか、あるいは全軍撤退となるかは分かりませんが……もはや世論が持たないかと。伝言掲示板の情報ですが、アイゼンハワー元帥は明日にも更迭される見込みとのことで」


「久方ぶりに、外交の季節となるのかね」


 杏野はおもむろに首を傾げ、それから熱い麦茶めいた代用コーヒーを味わう。

 昨年に奪取されたマダガスカル島を拠点として、米快速機動部隊が西インド洋に出没し出した関係で、日欧航路は3月下旬頃よりほぼ途絶。本物は酷く値上がりしているのである。


 とはいえ和平、少なくとも停戦が成立するならば、そのうち収束してくるだろう。

 無論、米海軍は未だ圧倒的戦力を有してはいるから、半ば条件闘争的な意味合いでの艦隊決戦が生起する可能性も相応にありそうだが……何にせよ、遅くとも1年以内の世界大戦終結が見えてきた。英国は既にこの戦争に見切りをつけ、ブエノスアイレス経由で日独と戦後秩序を巡っての折衝を始めている。


「ただその意味では……我々からすると、ちょいと面倒なことになるかもしれんな」


「と言われますと?」


「分からんかね」


 杏野は再び、苦笑気味に号外へと視線を向ける。

 華の都と謳われしパリを、絶大なる人気を誇る銀幕女優に喩えるならば……今の彼女の姿はさしずめ、悪漢どもに好き放題乱暴され、挙句ゴミ置き場に投げ捨てられたかのようなものだ。


「馬鹿なアメ公がパリを戦場にしたせいで大勢が死に、何もかもが滅茶苦茶になった。フランス人達は間違いなくそう考えるだろう。となると……その反動で、独仏関係が想定以上に密になりかねんという訳だよ」





パリ:市街地



 国防軍や親衛隊の将兵は、刀折れ矢尽きたる者達を、名誉ある戦士として遇したという。

 ただそれこそがドイツ的悪辣さの象徴だと、未だ口酸っぱく言われていたりする。同盟国の主権が及ぶ地域であるとの理由から、捕虜の身柄をさっさとフランス人の手に渡してしまったが故である。


 その判断が何を齎したかについては、もはや記すべくもないだろう。

 米軍や自由フランス軍の将校は簡易法廷の即決でもって片っ端からギロチンに掛けられ、緑の落ち切った街路樹にはアメリカ産の奇妙な果実がたわわに実った。こうした場合、地元民に手を汚させるのが一番手っ取り早い。クロアチアやポーランドでの経験から、ドイツ軍上層部はそう判断しており――この大戦において何度目かの、悪名高き特別行動部隊すら眉を顰めるほど凄惨な地獄が、パリに顕現したのだった。


 そして陥落から数日後の市街へと足を踏み入れた工兵隊のシモン軍曹は、その一端を垣間見ることとなった。

 かつてラテン語区などと呼ばれたる学生街、現在の一面に広がる廃墟。そこでの後片付けを命じられた彼は、つかの間の休憩の最中、反ナチ的な古書の篝火を囲んで盛り上がる連中と遭遇した。


「おいアメ公、生まれ変わった気分はどうだね?」


「これでお前はもう悪さをせずに済む。俺達の好意に感謝しろよ」


 まったく下卑た声で、男達がそんなことを言い合う。

 彼等が小突き回していたのは、縛り付けられた米兵らしき若者。言葉が通じているのか不明だが、その表情からは一切の感情が失われており、瞳は死体かと思うほどにどんよりしていた。


「何を、やっているんだ?」


「おッ、軍曹どの。お疲れ様です」


 男達は一斉に立ち上がり、様になっていない敬礼をする。


「自分達はこの重犯罪者に罰を与えておったところでして。こいつはクレマンのとこの次女を無理矢理犯したそうですので、二度とそういうことができぬよう、外科手術を施してやったのですよ」


「えっ」


 シモンはその意味するところを察し、生物由来の悪寒を覚えた。

 また外科手術という語が響いた瞬間、拘束されたる米兵の顔立ちに屈辱的な恐怖が浮かんだのを、彼は見逃さなかった。それから炎の中でただ焦げている、串に刺された肉片の正体を理解し……猛烈なる吐き気を覚えた。


「お前等、まさか……」


「ええ。切り落としたイチモツに塩を振って振る舞ってやろうかと」


「やめろ。国際法に反する行いだ」


「お言葉ですが軍曹殿……国際法は俺達を、パリを、これっぽっちも守ってくれやしませんでしたぜ。一方、こいつは好き放題に国際法を踏み躙った奴等の一員で。それなのにこいつにだけ、国際法の庇護があるんでしょうか?」


 一番年上と思しき禿げの男が、理不尽そうな口振りで滔々と疑義を呈する。

 それから周りの連中が、まったくだと次々と首肯。大切なものを失い過ぎた者に特有の、混じりっ気のない憎悪に、シモンは抗する言葉を失った。


「それに自分等は、命まで取ろうって訳でもないんですぜ。ただ懲罰と再発防止策を……」


「ボス、こいつ舌を噛み切りやがりましたぜ」


 キツネ顔の若いのが叫んだ。自らを窒息死に追い込まんとの試みに、男達は騒然となる。

 ただどうにかする方法がある訳でもなく、どうにかする意図も別段なかったようで、暫くして米兵はグッタリと事切れた。死に特有の異臭が蔓延し始める中、シモンはひたすらに立ち尽くし、亡骸が罵倒とともに蹴り倒されるのを見守った。


 パリの市民が舐めされられた辛酸を鑑みれば、これくらいは当然の仕打ちなのかもしれぬ。

 実際シモンもまた、1人のフランス人としての、何処か鬱屈した怒りを抱えていた。この惨禍がロンドンやニューヨーク、あるいはベルリンやローマにおいて繰り返されたらいいと、至極当然のように思ってもいた。


(それでもこの場に居続けたくはない)


 その一心でシモンは踵を返し、部隊の屯するところへと戻っていく。

 仲間達は"G・I・ジェーン"と入れ墨され、「米軍のお下がりにつき無料」と書かれたボードを首から下げた娼婦の到着に湧いていた。半年ほど前はある種の女達が頭髪を刈られ、今度は別の属性の持ち主が報復の対象となった。心の内で大切なものが粉々に砕け、飛び散った破片を呆然と眺めているような感覚を、彼は味わわざるを得なかった。


(マリィ、君に会いたいな。何処にいるんだろうか?)


 連絡のつかなくなった幼馴染の面影を脳裏に描き、シモンは思慕の念を膨らませる。

 1万1000キロ彼方のブエノスアイレスに、彼の切なる願いが届く気配など、これっぽっちもなさそうだった。

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