巴里地獄変・上

タウヌス山地:総統大本営



「何ッ……パリが燃えているのか!?」


 西方総軍司令部より連絡を受けたヒトラー総統は、訳が分からず絶句した。

 それから夜食として貪っていた豪華なザッハトルテを喉に詰まらせ、暫くゲホゲホとむせた後、大急ぎで執務室に戻って受話器を取る。


「元帥、いったいこれはどういうことかね?」


 開口一番、ヒトラーは酷く不機嫌そうに詰問した。

 パリおよび第12軍集団はもう暫く包囲するに留め、開囲作戦の破砕や空輸部隊の撃滅をもって連合国軍を消耗させ、弱り切ったところをまとめて叩き潰す。そうしたオーディンも唸るような作戦計画が、聞かん坊の将軍の独断専行によって崩れたという報告だと、勝手に思い込んでいたのである。


 だが司令官たるルントシュテット元帥の口振りから、すぐに様子が異なると気付いた。

 そうして先を促すと、勝手に火の手が上がったとのこと。パリ北東はベルヴェル区の何処からか、唐突に大爆音と銃声が響いてきたかと思ったら、たちまちのうちに各所で銃撃戦が勃発。阿鼻叫喚の巷と化した市街のあちこちで火災が発生し、今も赤々と闇夜を焦がしているというのだ。


「つまり……敵が同士討ちを始めたと?」


「総統閣下、それ以外考えられません」


 ルントシュテットは凛とした声で肯いた。

 それから包囲部隊はすべて間違いなく掌握しており、状況のみ急変したのだと念を押す。


「特に先月の脱出作戦に失敗して以来、パリ守備隊の士気は低下の一途を辿っているものと見られます。また市内より脱出してきた幾人かを尋問したところ、食糧・物資の不足も相俟って米仏軍間の不和や住民との軋轢が急速に高まっているとのことで、他にも降伏を訴えたデモ隊にドゴール軍が発砲、百数十人が死傷したとの情報もございます。となれば今回の件も、その類型ということかと」


「なるほど、4年ぶり2度目の降伏か。惰弱な文化に被れた民族に相応しい末路であろう」


 ヒトラーは機嫌を取り戻し、敵国の司令官や首脳に少しばかり同情した。

 昨年はさっさとパリを放棄させたが、これは戦略上の理由があったが故。仮に今の彼等と立場が逆であったならば、ゲルマン民族の急先鋒たる将兵は最後の一兵に至るまで奮闘し、最終的に市街を連合国軍に明け渡すことになるとしても、その頃にはあらゆる建物が破壊されているだろうと確信できた。


 そして高度な柔軟性をもって全体を俯瞰し、臨機応変に状況に対応することこそが重要だ。

 時代の風雲児たるに相応しい頭脳を、ヒトラーは全身全霊をもって稼働させた。ルントシュテットに追加の質問を幾つか投げ、その回答をもって思考を整理し、遂には結論を得た。


「よろしい。ただちに全軍をもってパリへと進撃するよう、余は命じる」


 断固たる言葉が響き、


「パリに如何ほどの戦力が残っていようと、それは既に形骸である。ただちに完膚なきまでに撃滅し、その余勢をもって連合国軍をドーバー海峡へと追い落とすのだ」


「はい、ただちに敵軍を一網打尽としてご覧に入れます。勝利万歳!」


 かくして電話連絡は終了し、ヒトラーはザッハトルテを食べに戻った。

 だが……数日の後、彼は再び驚愕することとなる。先程形骸と蔑んだ第12軍集団が、遥か斜め上をいく醜態を晒すとは、流石に誰も予想できなかったのだ。





パリ:エトワール駅



 砲爆撃を凌ぐ上で地下鉄駅以上に優れた空間は、専用の退避壕を除けばほぼあるまい。

 それ故、第12軍集団司令部はエトワール駅構内に置かれていた。シャンゼリゼを滑走路に転用するという荒業をやった関係で、地表の凱旋門が17㎝砲弾の直撃で破壊されたりしたものの、モグラの如く逼塞していた者達の被害は皆無だった。


 もっともそこで寝起きしているホッジス大将は、既にくたばる寸前といった雰囲気だ。

 大失敗に終わった脱出作戦で前任のブラッドレー大将が戦死したため、第1軍司令官だった彼が指揮権を継承したのだが……状況は既に最悪を通り越していた。上空では友軍の戦闘機が華々しい空中戦を繰り広げているが、つまりそれは制空権すらままならぬという意味で、輸送機隊の被害は甚大。空輸頼みの物資は底を尽きつつあり、先日は食糧を巡る諍いから、地元の民兵との間で大規模な銃撃戦すら発生してしまった。

 そしてそんな状況で、ドイツ軍を迎え撃つこととなりそうだった。即席の火点として利用するアパートより、銃剣でもって追い立てられた老若男女の憎悪の籠った瞳が、彼の脳裏にはありありと焼き付いていた。


「ともかく元帥、一刻も早い救援を」


 無線電話越しに、ホッジスはやつれ切った声で懇願する。


「我々はもはや身動きが取れず、一方でドイツ軍は明日にも攻め寄せてくるものと思われます。このままではパリで討ち死にするか、白旗を揚げるかのどちらかしかありません」


「ああ、分かっている。分かっているのだ」


 アイゼンハワー元帥の悲痛な声が、欧州遠征軍司令部より届く。

 それでも所詮は安全なロンドンでのものだろう。僻みに似た黒々とした根性が、どうしても胸中に沸き起こる。


「明後日だ、明後日にも第17軍集団が攻勢発起点に着く。今回は新型のパーシング重戦車200両を持ってきた。これでもって必ずエブルーを抜き、1000トンの物資を満載した車両列段を送り込むから、それまでどうにか耐え忍んでくれ」


「具体的には何日まででしょうか?」


「5月の初めには、どうにか部隊をパリに突入させる。約束だ」


 改めて示された日時を念頭に、ホッジスはカレンダーを一瞥する。

 短く見積もって半月。指揮統制が最底辺まで落ち込んだ、食うにも事欠くようになった軍で、元気いっぱいのドイツ軍を相手とすることを考えると、絶望的なまでに長く感じられた。


 とはいえそれ以外に希望はなく、どうにか戦い抜かねば未来もない。

 そう自分に言い聞かせ、ぼやけがちな意識をどうにか励起させる。そうして「約束を信じます」と伝えようとした矢先、不躾にも通信室の扉が開かれ、青褪めた顔の副官が飛び込んできた。


「馬鹿者、電話中だぞ」


「申し訳ございません、緊急事態です。市内にドイツ軍が出現しました」


「何ッ……」


 事態急変につきと電話を一時中断し、ホッジスは急ぎ用紙に目を通す。

 ドイツ軍の軽歩兵部隊が下水道を経由してパリ南方のゴブラン区へと浸透、現地の裏切り者の助力を得て市街に雪崩れ込みつつある。にわかには信じ難い内容であったため、彼は再確認するよう命じたが……間違いなく敵はそこに存在し、現在も戦闘が続いているとのことだった。


「糞ッ、下水道の中はドイツの兵隊でいっぱいか」


 ホッジスは苦しげに呻き、ただちに一帯を制圧するよう命令した。

 もしや誰も彼もが幻を追っているのではないか。一抹の不安が頭を過りはしたものの、防衛線の後ろに敵拠点を抱えていては、パリは1週間と持たぬに違いない。





パリ:市街地



「おやおや、随分と燃え上がってくれたようだ」


 武装親衛隊のシュミット中尉は、燃え盛る市街を仮住まいより眺めながら呟く。

 実のところスコルツェニー少佐麾下の特務部隊にあって、変装の達人として名を馳せたる彼は、長らくパリに潜伏してきた。ある時は米軍少尉に化け、またある時はレジスタンスの一員として振る舞いながら、諸々の秘密作戦に従事してきたのである。


 そうしてパリ攻略作戦を間近に控えた今日、久しく着用していなかった本来の軍服を着用し、ちょっとした後方攪乱を実施したのだが……これが大金星となったようだ。

 つまるところ幾人かの部下とともに、警戒中の米陸軍部隊に銃撃を浴びせたところ、


「下水道からドイツ軍が出現、救援求む」


「民兵と住民がまとめて寝返った。早く鎮圧しないと拙い」


 などといった流言飛語が拡散、見事なまでに大混乱に陥ったのだ。

 しかも予備兵力として市内に配置されていた大隊が、続々とゴブラン区近傍へと集結。戦場心理が故か、動くものを片っ端から機銃掃射し、怪しいと見た家屋にバズーカを撃ち込み始めた。確かに同区の長が無防備宣言だのと言い出していた事実はあるが……当然そこには地元住民や民兵しかおらず、まったく鮮やかな殺戮劇と相成った訳である。


「とりあえず、これで友軍は……」


 大助かりだろう。得意げにそう呟こうとした瞬間、脳天に強烈な衝撃が迸った。

 耳を劈くような音響。激痛とともに視界が暗転し、意識が急速に遠のいていく。そうした中でも、自分が流れ弾か何かに当たったらしいことは容易に理解できた。


(なるほど……どうやら、成果は予想以上に大きかったようだ)


 シュミットは表情筋を皮肉な具合に弛緩させ、何処か他人事のように喜ぶ。

 それから意識を潔く手放し、戦争ならばこんなこともあるだろうと、妙に納得しながら息絶えた。間もなく戦禍は彼の仮住まいだった辺りにまで及び、無秩序に広がった大火により、亡骸は他の焼死体と区別できなくなるまで焼け焦げた。


 なお惨劇の犠牲者数は、直後に本格的な戦闘が始まったため正確な推計は不可能だが、少なくとも5000以上とされる。

 包囲下、物資の欠乏、疑心暗鬼。それで何も起こらぬ訳もなかったのかもしれないが……気付いた時には瓦礫と死体の山が築かれていて、米軍将兵の運命もまた、ここに決まってしまったのである。

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