スパイ挺身作戦
モンタナ州:フラットヘッド
「ビリー、何お前インディアンの癖に新聞読んでんだよ?」
「ろくに字も読めねえのに、んなもの読んだって賢くなれんぜよ」
それなりに汚らしい飯場の休憩室に、下卑た声が木霊する。
風来坊のビリーを名乗る男は紙面から目を離し、ちょいとばかり苦笑い。それから部族の英雄に関する記事を探していると、チェロキー訛りの英語で誤魔化した。
「おいおい、件の提督ならもう駄目になったぜ」
学のなさそうな男達はひとしきり笑った後、クラーク提督なら頭の病院に運ばれたと、まったく親切にも教えてくれた。
北太平洋で大失敗をやった挙句、軍法会議の場で支離滅裂な言動を繰り返したが故とのことだ。未開民族出身の癖に指揮官をやるからだ、死んだ水兵が哀れでならん。そんな陰口まで付け加えられた。
(なるほど。海軍は頑張っておるのだな)
悲劇的なる顏を装い、新聞をはらりと落としながら、自称ビリーは内心ほくそ笑む。
実のところその正体は、海軍特別陸戦隊に属する日高大尉であった。一昨年のワシントン州空襲作戦に際して潜水艦でカナダ太平洋岸より上陸し、二式大艇のワシントン州爆撃を援護した彼は、アメリカの軽佻浮薄な雰囲気を装いながらも質実剛健な仲間とともに、米本土の内陸へと深く静かに浸透していたのである。
そして肉体労働者を装っての活動を行っているのは、ここフラットヘッドなる僻地に、米国の最重要機密があると目されているからだ。
ロッキーの峻険なる山々に囲まれたるこの辺り一帯は、元々はインディアン部族の居留地と規定されていた。それがある時、特殊な冶金工場を移転させると連邦政府が言い出し、すべてが変わってしまったとのこと。海軍特別陸戦隊の指揮官たる北郷少佐は隣接するブラックフィート居留地に潜伏中、哀れにも住処を追われた者達から諸々の事情を聴き出すことに成功し、ただごとではなさそうだと確信。日高と幾人かの益荒男に、土方として潜り込むよう命じたのである。
(ただ……いったい何を目的とした工場なのか)
一年近く潜伏していても尚、その疑問は解けぬままだった。
情報管理の徹底具合からして、北郷少佐の直観が正しかったことは間違いなさそうだ。しかし合法非合法を問わず獲得した情報をどう組み合わせても、さっぱり全体像に至らない。理工学に関する付け焼刃の知識では、想像すらできぬのがもどかしい。
(まあ日本男児たる者、ここで焦ってはなるまい)
わざと落とした新聞紙を拾いながら、日高は精神を落ち着ける。
直後、休憩室の扉が開かれ、監督が威勢よく入ってきた。ゴツゴツした手には封筒の束が携えられていて、たちまちのうちに人だかりが出来上がる。滅多に外出が許可されず、遠くから働きにきた者も多いから、誰も彼も通信に飢えている。こればかりは古今東西変わらぬ光景だ。
「おいビリー」
騒ぎが一段落した頃、監督が呼びかけてきた。
「珍しくお前の分もある。しかも女の字っぽいな」
「あッボス、ありがとうごぜえます」
日高は顔を一転させ、手紙を受け取りに行く。
あからさまに検閲されたそれの差出人欄には、アラトナという名前が記されている。何だ恋人かと冷やかしにくる連中の注意を適当な写真で欺瞞し、サリッシュ語で書かれた文面にさらりと目を通していく。迅速なる解読作業の結果浮かび上がったのは、待ちに待った内容で、高鳴る鼓動に反比例するかの如く、彼は表情を曇らせる。
「どうしたビリー、急にしょげ返っちまってよ?」
「お、お別れの手紙だァ……」
日高は大袈裟に泣いてみせ、周囲の同情を誘った。
こうした人間臭さの積み重ねが、案外と役に立ったりもする。心の底でそう思いつつ、彼は情けなく崩れ落ちた振りをする。
偽装"ふらレター"を受け取ってから数日。日高は久方ぶりに外出していた。
件の下品な同僚達が「外で気分転換でもしてこい」と、勤務シフトを調整してくれたのだ。口を開けば罵詈雑言が間断なく飛んでくるような連中だが、妙な気の良さを発揮することもあり、あれこれ演技をした甲斐があったと思えてくる。
とはいえ海軍特別陸戦隊の大尉なる彼にとっては、身の回りの何もかもが敵に違いない。
何時己が正体が露見し、FBIの捜査官が現れるかも分からぬ、まったく油断のならぬ環境。いざとなったら即座に青酸カリで服毒自殺し、機密が渡らぬよう対策せねばならない。そんな中で明鏡止水の境地に到達し、表向きの人格を完璧に構築できてこそ、祖国のための秘密任務は遂行することができるのだ。
(まさに……この水面の如く)
眼前のフラットヘッド湖に糸を垂れながら、日高は己が精神を研ぎ澄ませる。
この辺りではカットスロートなるマスの仲間が釣れ、これが結構な美味という話だが、針に餌を付けてはいないので、傍らのバケツは空のまま。下手糞な釣り人を装い、連絡要員の到着を待っているだけであるから、大漁大漁と目立つ必要もあるまい。
そうして周辺への警戒を厳としつつ、適当に広げた地元紙に目を通していく。
モンタナ州選出のウィーラー上院議員がパリ開囲戦の失敗を舌鋒鋭く糾弾し、欧州遠征軍の長たるアイゼンハワー元帥の実家が戦死した兵の遺族によって放火されるなど、米国世論も相当に混乱しているようだ。更には蒋介石の寝返りによって中華系移民が窮地に立たされ、その一部について強制収容が決定されたというから驚きだった。
かような悍ましき白色主義的政策を掣肘するためにも、この戦を勝利に導かねば――そう思った直後、日高はまったく敏感に、近付いてくる人間の気配を察した。
「よう、そこの旦那」
声をかけてきたのは、如何にもアーリア人といった風貌の男。
「どうだ、釣れそうか?」
「いや、今日はさっぱりだね」
「その方がいい。最近になって、この湖の魚はおかしな死に方をするようになったからな」
男はそう呟きながら日高の傍らに腰掛け、ゲーレンと名乗った。
国防軍の系列か親衛隊の一味かは分からぬが、協力関係にあるドイツの間諜であることは記すべくもない。ただいったいどうした訳か、彼は湖の魚が云々といった話を長々と続けた。
「それで」
相手に十分喋らせた辺りで肩を竦め、
「結局のところ、何を伝えにきたんだ?」
「君が潜入している工場の正体が、朧気ながらわかってきた」
「何ッ、本当か?」
「ああ。これまでに得られた情報を総合するに、恐らくあれは特殊金属爆薬の製造工場だ。単位重量当たりでTNTの10倍から50倍の威力のある代物を生産している。魚の変死もその廃液が原因だ」
「驚いたな」
喉から飛び出そうな心臓を抑え、日高は冷静沈着に戦慄した。
仮に言う通りのものが存在したならば、例えば25番爆弾は250番爆弾相当の威力となり、世界最大の戦艦たる『大和』でさえ、被弾するや否や轟沈してしまうかもしれぬ。あるいは流石にそれは誇張表現で、精々が3倍程度ということかもしれないが、それですら一大事という他ない。
無論、これまでに培ってきた科学的常識は、かような超兵器を否定しようとしていた。
しかし工場の異常なくらいに厳重な機密管理体制が、特殊金属爆薬の存在に凄まじい真実味を与えていた。しかも数日ほど前より、見慣れぬ輸送車列が出入りするようになっていて、もしや既に出荷が始まっているのではないかとの危惧が浮かんでくる。そしてそんな内心を見透かすように、ゲーレンがおもむろに口を開いた。
「このことは北郷少佐も把握済みだ……よって少佐からの命令を伝達する。工場敷地を更に調査し、詳細な地図を作成しろ。この重大なる脅威にどう対処するとしても、それは間違いなく必要になる」
「了解した。万難を排し、地図を作成する」
「ああ。それでは失礼するよ。ともかくもここでの釣りは諦めた方が身のためだ」
ゲーレンはそれだけ言うと、あっという間に姿を消した。
一方の日高は数分ほどその場に留まり、幾許かの思案をしたように見せかけた後、いそいそと帰り支度を始めた。仰せつかった大役に胸を打ち震わせ、己が命に代えてでも任務を全うせんと使命感を燃やし……激烈なる内心とは正反対のだらしなさを撒き散らしつつ帰路に就く。
なお追記するならば、製造物に関する説明は、桁が5つほども間違っていた。
つまるところそこはマンハッタン計画の最重要区画たるフラットヘッド施設群で、完成した3基の黒鉛炉から抽出されたプルトニウムが、ロスアラモス研究所およびアナコスティア海軍施設へと出荷され始めていた。当時秘匿されていた元素名を含め、日高がその実態を把握するのは、最初の原子爆弾が炸裂した後のことである。
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