欧州本丸作戦①
パリ:市街地
空高く聳えるエッフェル塔。その頂上に翩翻とはためくは、共和国の象徴たる三色旗。
かつてナチの鉤十字を掲揚するよう命令された消防士が、半ば無血での開城となった実にめでたき日に、本来あるべきものと取り換えたのである。自由と平等、博愛。何よりも重んじられるべき理念を見事表現したそれに、大勢の市民達が惜しげもない歓声を送っていた。
もっとも市街を見渡せば、些か理想主義的でない光景も目に付いてしまう。
何処の国でも事情は同じではあるが、軍隊というのは腕力や胆力が何よりものをいう完璧な男所帯にして、獣欲を持て余したる若人の集団に他ならない。しかもこれまでに幾多の激戦を繰り広げ、少なからぬ犠牲を出しながらパリへと進駐した合衆国陸軍第1軍は、興奮し切った将兵でぎゅうぎゅうになった缶詰と化していた。
その中身を野放図に撒き散らそうものなら、何が起こるかは火を見るよりも明らかで……案の定、危惧された通りの展開となってしまっていたのである。
「英国から馬鹿な米兵がガムを噛みながら大挙して押し寄せてくる!」
「犯罪多発! フランスが汚れる!」
ラヴァル政権に未練のある新聞や、共産党系の機関紙などの見出しには、そんな文章が踊り狂う。
実際、記事には多分に真実が含まれている。カポネ流の"自由恋愛"をやり始める考えなしはグロス単位でいたし、レジスタンス指導者の娘を強姦した馬鹿タレのせいで決闘沙汰と銃撃戦まで勃発していた。多少のことは大目に見るが、ものには限度というものがある。市長が苦情を申し入れてきたのも当然だろう。
そしてそんな中、アフリカ帰りの装甲部隊を中核とする枢軸軍数十万が、オルレアンに集結しつつあるとの報が入った。
ならば風紀紊乱を糺し、可及的速やかに迎撃態勢を取らせねばならぬ。第12軍集団を率いるジョージ・パットン大将が、パリへと前線視察にやってきたのにも、そうした事情が故の部分があった。
「おい、そこの少尉」
厳格なる声でパットンは咎める。
気が急いたために1日早くやってきた彼は、直視に耐えぬ光景を目にすることとなっていた。まあ自分も娘の友達に手を出そうとしていた気もするが――栄えある陸軍士官が女学生相手に情けなく言い寄るなど、言語道断という他ない。
「所属と官姓名を名乗れ」
「は、はい」
少尉は電撃されたかのようにピンと背筋を伸ばし、仰天の相で敬礼する。
「第16歩兵連隊B中隊のジョン・スコット少尉であります」
「スコット少尉、任官からまだ間もないな? 口説き文句もぜんぜんなっておらん」
パットンは鬼の形相で唸り、
「まずはふざけたドイツ野郎と戦い、何人かぶち殺すことだ。そうすれば貴官も少しは面構えがよくなるし、汗に男らしさが自然と滲むようになる。そうすれば女などイチコロだ、すべてはそれからにするんだな」
「はい。まずドイツ野郎をぶち殺し、男らしくなります」
「よろしい。間もなくロンメルとかいうキツネ野郎が、パリを奪い返さんと戦車を率いてやってくる。皆が好きでたまらん戦争の時間だ、ただちに部下に準備させろ」
パットンは好戦的な口調で宣い、スコットなる少尉の後ろ姿を睨む。
相対した将兵がどの辺りの出身かは、身振りや言葉の訛り具合から概ね分かるものだが、今回ばかりは試みが成功しなかった。故に彼は暫しその場で首を傾げる。ただ副官が促してきた通り、綱紀粛正の必要は市街のあちこちにあったため、それ以上の詮索は中止せざるを得なかった。
ともかくもパットン来るとの報は燎原の火の如く広まり、合衆国陸軍将兵は途端に行儀がよくなっていった。
そうして戦機は次第に熟していき、年明けにもロンメル軍団と激突との見込みが囁かれ始める。兵站は相当に逼迫しているとはいえ、パリ南方において勝利が得られれば、世界大戦の趨勢もまた決するはずだった。
オルレアン近郊:森林地帯
前世紀の半ば頃より保全されてきた豊かな植生は、今や枢軸軍の絶好の隠れ蓑と化していた。
無論そこに何十万という兵力が集結中という事実は、連合国欧州遠征軍最高司令官たるアイゼンハワー元帥の知るところである。故にランカスター爆撃機の群れが1000トン単位の焼夷弾をばら撒き、カーンやバイユーの仮設飛行場を飛び立ったP-47サンダーボルトがロケット弾を見舞いにやってくるなど、空襲もなかなかに熾烈となった。
それでも独仏伊軍の将兵は意気軒高で、それほどの損害を被ってもいなかった。
徹底して地形に身を潜め、擬装と野戦築城を欠かさぬ部隊を効率的に爆撃することは、後世の誘導兵器を用いても難しい。目視での戦闘に頼る時代であれば尚更といったところで、しかも連合国軍の制空権とて完璧とまでは言えぬ程度だったから、大した打撃とならなかったのも肯けるところだろう。
「とはいえ……どうなるんだろうなァ」
細雪が深々と降る早朝。シモン軍曹はテントの脇で大豆コーヒーを淹れながら、ぼんやりと呟く。
彼の所属する工兵大隊はノルマンディーの戦闘で半分くらいになり、どうにか後退を続けた末、またもロンメル軍団に組み込まれることとなっていた。
「呆気なくパリが陥落しちまったそうだけど」
「これから奪還作戦やるんだろ、多分」
戦友として長いアンドレは難しく考えぬようで、
「ただ何だ、寒くてかなわん。早く1杯くれないか?」
「もう少しだから落ち着けよ。それに寒波も悪い事ばかりじゃない、空襲がなくなるからな」
「その前に凍死しちまったら元も子もないさ」
山も谷もないような調子で下らぬやり取りをした後、出来上がった大豆コーヒーを味わった。
もはや話すネタも尽きているような間柄である。ドイツ軍の戦車大隊が忽然と行方を晦ませたらしいとか、何故か森のど真ん中に転車台が据えられたとか、とりとめもない会話を交わしていく。
そうして暫くすると、遠巻きに汽笛が聞こえてきた。
この間、保線をやった辺りからだろうか。手持無沙汰となっていた彼等はスックと立ち上がり、興味本位で見物へと向かう。空襲がなされぬうちに、物資食糧なんかを運んできてくれたのだろう。そんなことを思いながら歩んでいると、まったく予想を裏切るような光景が視界に飛び込んだ。
「何だ、装甲列車のようだな……?」
「しかも随分でかい列車砲を牽いているみたいだぞ」
シモンとアンドレは息を呑み、思わず顔を見合わせる。
30メートル以上ありそうな大筒を重たげに擡げた巨大な砲架が、合計4輛の台車によって運搬されている。パ・ド・カレーから英本土を砲撃した列車砲があるという話が思い出され、目の前にあったのは実際その改良型だった。
「揚陸船団の根拠地となるポーツマスをコタンタン半島から狙うことで、米英の欧州上陸を不可能とする」
かような直感を抱いたヒトラー総統が強引に製造を命じた代物が、今になってようやく完成し、本来とは別の用途に供されようとしているのである。
「まあ……またぞろパリ砲って訳だよな」
シモンは無情に白い息を吐き、それから前大戦期のパリっ子達がどう対応したかを思い出した。
パリ近郊:田園地帯
「何故、イリノイ州の州都がシカゴなんだ」
「教育はどうなっておるんだ、教育は」
合衆国陸軍第1軍を率いるオマル・ブラッドレー中将は、トンチキという他ない悲運に見舞われた。
信じ難いことにGIの軍服を着用したドイツ兵がフランス各地に出没し、国際法の精神を踏み躙る卑劣な後方攪乱作戦を始めていた。捏造された命令書に惑わされ、同士討ちをしかけた例もあった。そのためあちこちに検問所が設けられ、アメリカ人なら誰でも正解できるはずのクイズを出題するなどの方法で、偽物を炙り出すこととなったのである。
ただ何より問題は、どうしようもない大馬鹿者達が憲兵をやっていたりしたことだ。
イリノイ州の州都は何処かという質問の答えを、あろうことか責任者の中尉に至るまでの全員が、シカゴと勘違いしていたのである。お陰でスプリングフィールドと正しく回答したブラッドレーは、銃を突きつけられ拘束される破目になってしまった。6時間以上も浪費した後、あまりにも愚かな誤解は解けたものの……今年最後の作戦調整会議には完璧に遅刻である。
「まったく、あり得んだろこんなの」
ブラッドレーは毒づきつつ、指揮車の後部座席に納まらんとする。
既に外は暗くなり始めており、おまけに寒い。野晒しで頑張っている兵隊達の境遇を思えば、贅沢は言うべきではないにしろ、雪混じりの天候はなかなかに堪える。
「よし、出してくれ」
「閣下、お待ちください!」
ちょうどかかったエンジンの音。それを吹き飛ばさんばかりの絶叫が響いてきた。
先程の非常識で盆暗極まりない憲兵中尉だった。ブラッドレーはドイツの工作員扱いされたことを思い出し、たちまち不機嫌になりはしたが……一応は運転手に待つよう命じる。
「何事だね? 私は早急に出ねばならないのだぞ?」
「閣下、お電話です! アイゼンハワー閣下からお電話です!」
「何だって」
ブラッドレーは直ちに指揮車を飛び降り、検問所の電話室へと駆けた。
急ぎ受話器を取り応答。相手は間違いなく連合国欧州遠征軍最高司令官たるアイゼンハワー元帥で、ようやく繋がったと安堵する彼の声には、隠し切れぬ狼狽が含まれていた。
「閣下、いったい何事でしょうか?」
「オマル、大変なことになった。落ち着いて聞いてほしい」
アイゼンハワーは自身にも言い聞かせるかのような口調で告げた。
不気味で焦燥感に満ちた数秒間の沈黙が流れる。それから彼は咳払いし、絶句するしかない内容を伝達してきた。
「4時間前にパリの第12軍集団司令部が長距離砲撃を受け、パットン大将が行方不明。更にオルレアン方面の枢軸軍が動き出した。オマル、ただちに指揮権を継承してくれ」
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