開戦前夜

海南島:三亜港



 真冬にもかかわらずぼんやりと温かい空気に、高谷大佐はのぼせていた。

 先程からエフ作業と称して釣り糸を垂らしているが、何かがかかる気配もまるでない。というのも三亜の港には随分な数の輸送船が犇めき、更にはその護衛たる駆逐艦や重巡洋艦が押し寄せたことで、魚が揃って逃げ出してしまったのだ。お陰で水汲みバケツの中には、何故か釣れてしまった長靴だけが浮かんでいる。


(もっとも……)


 碌なものが釣れやしないのもまた事実。

 熱帯性の変テコな色彩の魚などは、観賞用という需要もあったのかもしれないが、食っても美味いものではない。地元の料理人に渡してみても、「こんなの食べるの犬くらいのものね」とか言われる始末だ。

 ついでに魚を湾から遁走せしめた艦の中で最大のものが、高谷が艦長を務める航空母艦『天鷹』に他ならなかった。


「まあ、致し方あるまいな」


 高谷は独り言を漏らしながら、三亜湾に停泊する『天鷹』を眺める。

 満載排水量3万トン超と、翔鶴型に匹敵する規模を有するこの艦こそ、来るべきマレー作戦の要となる存在だった。何しろ空母機動部隊は揃って何処かに消えてしまっているから、1隻だけで船団を守らねばならない。シンガポールの飛行場にはブレンハイム爆撃機が相応の数いるだろうから、全くもって気が抜けない。


 だが高谷の気の抜けた態度に表れているように、乗組員には何処か弛緩した空気が漂っている。

 理由は正直なところ、よく分からない。元々が員数外の航空母艦であったから、極まりなく適当な人事がまかり通ったとの説もある。昭和13年のほんの短い間だけではあるが、貨客船として大連と門司とを結んでいたことがあったから、客船気分が抜けていないなどと陰口を叩かれたりもする。食中毒事件が未だ尾を引いていて、嫌がる者が多いと適当なことを言う者もいた。

 とはいえ他の艦の者達がかような言動に思わず肯いてしまうほど、『天鷹』艦内は出鱈目なのだ。航空母艦の艦長を夢にまで見ていた高谷にまで、それが感染してしまっているほどである。


「おッ、艦長。ここにおられましたか」


 姿を現したのはヌケサクこと抜山康作主計少佐だった。

 とんでもない渾名とは裏腹に、妙な要領の良さを誇っている。そんな彼が抱える籠には、こらまた随分と大きなエビが何匹も入っている。


「この通り、大戦果でございます」


「ううん……こちらは長靴しか釣れん始末。どうやったのだ?」


「それは軍機に関わりますので」


 抜山は本当にとぼけた顔をする。

 まあ確かに、主計課というのは軍機をいっぱい抱えているのだろう。そんなことを思っていると、抜山が幾分真面目な顔をした。


「それとあちこちで噂になっとりますが、とうとう『インドミタブル』がアジアにやってきたそうです」


「おっと……それはまた、面倒なことになったな」


 高谷は少しだけ顔を顰めた。

 東洋のジブラルタルなどと呼ばれるシンガポール。その一大海軍根拠地たるセレター軍港には既に、戦艦2隻が展開している。そこに航空母艦『インドミタブル』まで加わったともなると、補助艦艇では優位を保っているとはいえ、主力艦の数では同等となってしまう。無論それが故にフィリピン方面から移動してきたのではあるが、まことに厄介な話だった。


 それに向こうは本職の航空母艦だというのも大きかった。

 確かに艦載機の数ではほぼ同等ではあった。とはいえ『天鷹』に搭載されているのは旧式の九六式艦戦と九七式艦攻が18機ずつ、それから予備が多少といった程度で、下段格納庫が陸軍部隊の糧秣や車両、大発動艇などによって占領されてしまっている。英国の戦いを制した名機スピットファイアは、未だ艦載化されていないはずだが、相手がシーハリケーンであったとしても侮れない。

 加えてイラストリアス級航空母艦は、搭載機数の減少と引き換えに、飛行甲板に装甲を施している。それを考えれば、なかなかに荷の重い相手だと言えよう。サイゴンには陸攻隊が集結中というが、これまたどれほど頼りになるものか。


「まあでも、何とかなるんじゃないかな」


 それまでの思考経過を盛大に蹴り飛ばし、高谷は朗らかに言う。


「精一杯やって何とかならなきゃ、水漬くかばねの護国の鬼になるだけさ」


「艦長、相変わらずいい加減ですよね」


「良い加減という奴だ。それに何だ、うちの航空隊、それなりに強いだろ。一応、この間も福建の飛行場を木っ端微塵にぶち壊してきた訳だし……まあ喧嘩早くて港の飲み屋を定期的に荒らすゴロツキが、一部紛れているようではあるがな」


「一部って全体の何割を言うんでしょう?」


「知らんな、全体の8割でも字義上は一部だ。細かいことは気にしたって仕方ない。やるだけやって、駄目ならくたばる。それで十分。大それた戦略だとかは、俺等よりももっと頭がいい奴が考えればいいのだよ」


 高谷は豪気に笑い、なるようにならァと自分にも言い聞かせる。

 何しろ兵学校での成績は、下から20番くらいでしかないのだ。勉強が嫌いという訳ではないのだが、飽きっぽい上にツメが甘い性分なので、しょうもないところで躓いてしまうのだ。そんな自分が、今こうして航空母艦の艦長に収まっているのも、戦争に向けて軍艦をバカスカと生産したが故に違いなく、何も事がなければ今頃予備役に編入されていただろう。食中毒事件の際には酷い目に遭いはしたが、それを踏まえてもお釣りが出る。


 加えて同期の優秀なのときたら、今は軍令部にいたり戦隊を率いていたりする。あの時一緒だった大西はその好例だ。

 そんな連中が大所高所からあれこれ考えた末、命令やら知恵やらをくれたりするのだ。であればその全てありがたく頂戴し、もって男児一生に一度の晴れ舞台に望めばいい。戦争に犠牲はつきものだから、お鉢が自分に回ってくるとしても、それもまた男児の本懐と言っておいた方が気が楽に違いない。


「ともかくも来るべき大戦は、米英の鼻っ面を正面からぶん殴る、黒船来航以来の好機。紳士気取りの癖しやがって、キリスト教徒でねえってだけで人をサル呼ばわりする世界ハイカラ党のふざけた脳天を強かに一撃し、もって大東亜王道楽土建設の一里塚としてやろうではないか」


「艦長、どうしてまた昔のバンカラ小説みたいなことを?」


「いや何、中学の頃によく読んだんだ。まあ下手に真似して酷い目に遭ったりもしたが……そうだヌケサク、折角エビが大漁であることもあるし、今宵は景気付けにあれをやろう」


「ええッ、流石に拙くないですかね?」


 抜山は心底嫌そうな顔をし、


「多分ですけど、あと数日もすれば小沢長官から出撃命令が下りますよ? そんな時にぶっ倒れていようものなら、今度こそ大目玉かもしれません」


「構わん構わん。その時はその時。ともかくも今はクソ度胸をつけ、士気を高めるのだ」


 そんな具合に無茶を言い、高谷は釣果たる長靴を海へと放り投げた。

 それから幾つか陸の上での雑務をこなした後、短艇で『天鷹』へと戻る。夕食時には何とも豪勢なエビの天麩羅ができあがっていて、艦の中枢をなす頼もしい佐官達と食卓を囲みながら、景気付けの一杯とともに胃袋へと納める。実際、海南島の海の幸は大変に美味だった。


「どうだ、何ともなかっただろう」


「あっはい、そうですね……」


 翌日、高谷は豪気にそう言った。抜山もまた半笑いで追従した。

 天麩羅の山の中に、1つだけスピンドル油で揚げたものを混ぜる――ロシヤ人が拳銃を用いてやるという致死性のルーレットゲームを、多少は安全にした類のもの。いったい何処の誰が言い出したのかは闇の中だが、『天鷹』では何故かこんな馬鹿げた余興が階級を問わず催されていて、他所の艦長や参謀達を閉口させているのだった。

 それでも『天鷹』だから仕方ないと言われる辺り、聯合艦隊内での扱いが分かるというものだろう。


 なお今回、ウンがついたのは戦闘機隊の打井通夫少佐だった。

 あきれ顔の井尻軍医に聴診器を宛てられながら『インドミタブル』撃滅を叫ぶ彼の姿は、何とも滑稽極まりなかった。ただその溢れんばかりの熱気が変に作用してしまうのだから、まったく人生というのは分からない。

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