大貨客船食中毒事件

 幼少期の高谷祐一という人物は、何処ぞの坊ちゃんの如く、まあ親譲りの無鉄砲だった。

 更には尋常小学校の頃から悪ガキ大将で、喧嘩と悪口ばかりを覚え、十四か十五の頃には不良だの無軌道だのと呼ばれたものである。一体全体どうした訳か、名の知れた中学に通えてしまってはいたのだが、ドイツはヘンケルス社の短刀が如く尖っては、触れる者傷つける。これでよく勘当されなかったなと、誰もが呆れながらに言ったものであった。


 だが転機はその直後に訪れる。

 本家は俊英の聞こえ高き海軍大尉を輩出しており、これが悪童の名をほしいままとしていた高谷をピシャリと叱りつけるのかと思いきや、敢闘精神に溢れておるなら軍人になれと言い出したのだ。内輪の下らん喧嘩に明け暮れるより、領土拡張戦争に明け暮れる欧米列強を相手として、知力体力を尽くして伍さんと奮闘する方が余程楽しいではないか。砲弾のエネルギーは拳骨の何十万倍にもなるから、物理学的にも面白さは証明されている。巧妙なる説得術もあったものである。


「なるほどなるほど。叔父上は何と賢明であろうか」


 高谷はこれに甚く感動したようで、本当に軍人を志すようになってしまった。

 相も変わらず暖房に癇癪玉を放り込んだり、時々窓ガラスの弁償と禁足とを被りながらではあったが、人に負けたくはないからと勉学にも一応励んだ。その甲斐あって、見事海軍兵学校に合格してしまったのである。なお陸軍兵学校の方は駄目だった。試験官が答案に記された"天白王"という謎の語に、大変に大きなバツを付けたからかもしれない。


 かくして海軍士官への道を歩み始めた高谷だったが、以後はなかなかに大変だった。

 各々の郷里で将来を嘱望された文武両道の英才達が、ギュウギュウ詰めの押し競饅頭にされるのが江田島である。いわば蟲毒の壺である。ちょいと勉強しただけのバンカラ気取りが目立てるような場所でもなく、同期や先輩にあまりに出来が良いのがいるので、天を仰ぐような気分になったことも何度かあった。だが落ちこぼれてせせら笑われるのだけは嫌だったので、歯を食いしばって頑張っていたら、下から20番くらいの成績で卒業することができたのである。


 それからというもの、高谷は艦隊勤務に励み、一応は海軍大学校の専修学生をやったりもした。

 いい加減とか規律がなっておらんとか、割合に根も葉もあることをよく言われたものだが――始終脳味噌の中で爆発が起こっておるような物理学者の妹を嫁に貰ったり、関東大震災の折には一族郎党に買い漁らせた員数外の薬を駆逐艦に積み込んだりしながら、叔父の背を追うことができたのである。将の扱いになるのは軍服を脱ぐ日だけかもしれないが、菊の御紋を背負った軍艦の艦長になれただけでも、人生としては万々歳というものだ。


「とはいえ……要港部の仕事は今までで一番つまらんよ」


 大型貨客船『文殊』の大食堂。その個室にて、高谷は愚痴をこぼす。

 巡洋艦の艦長を経験した彼は現在、旅順要港部付となっている。燃料がどうたら水路がどうたらという仕事は、まるで性に合わなかった。故に気晴らしに大連寄港中の『文殊』にやってきてみたら、同期の大西瀧治郎大佐とばったり出くわしたので、久々に飯を食おうとなったのだ。出来や席次は天と地だが、同期とはいつまでも貴様と俺である。


「俺を巡洋艦の艦長に戻してほしい。蒋介石の奴、今度は重慶に逃げたという話だろう? ならば揚子江を溯上して徹底的に砲撃し、陸戦隊を上陸させてとっ捕まえてやりたいところだ」


「貴様は功名心だけは相変わらずだな」


 大西はそう言って笑い、魚餅の揚げ物をパクパクと食べる。

 卓上に並ぶは満洲料理の数々。建造したのが三菱であれ、満州民族の威信の背負った船であるから、一押しはそれである。無論、五族共和の王道楽土でもあるから、他のメニューも大変に豊富でもあった。白系がいるからかロシヤ料理もかなりいける。


「愚痴をこぼしてないで精勤してりゃ、運が向いてくるかもしれんぞ」


「本当かね? このまま退役じゃないかと、俺は毎日ヒヤヒヤしとるんだぞ」


「ならいいことを教えてやろう」


 今度は餃子を次々と食べながら、大西はニヤリとする。


「このフネ、いざとなったら航空母艦になるのは知っておるよな? 俺はその視察に来ておるのだよ。まだ改装は先の話だろうし、当面はこのフネは陸軍を運ぶのに使われる予定だが……この先、何がどうなるかさっぱり読めん。だから今のうちに本格的な計画を立てておこうという訳だ」


「ふゥん、そうかね」


「興味がなさそうな口ぶりだな。改装となりゃ、貴様だって艦長候補に上がるんだぞ?」


「何、それはまことか!?」


 高谷はガタンと立ち上がった。

 その衝撃でフカヒレの赤煮がこぼれそうになり、大西が懐かしげに苦笑する。それから流石に静かに喋れと一言。昔から言うように、壁に耳あり障子に目ありだ。


「すまん。だが艦長は巡洋艦で終わりかと思っておった」


「尋常な世ならそうだろう。だがこのところの世は尋常ならざる様相だ。例えば最近はドイツとチェコが揉めておるが、これが戦争になりでもしたら、英仏も参戦して大戦再びということもあり得るだろう」


「欧州の話だろう、そりゃあ」


「貴様な、世界情勢的な感覚をもう少し磨いたらどうだ? 前の欧州大戦なんて、言ってみれば風が吹けば桶屋が儲かる式の理屈で、あっという間に広がってしまったようなもんだぞ」


 言われてみれば、まあそうだったかもしれない。

 皇帝が民族主義のやくざ者に暗殺された件で、オーストリア帝国がセルビアに宣戦布告をしたら、何故かドイツがフランスを攻め出した。どういう理由だっただろうか、あとできちんと調べ直しておこう。


「まあとにかくだ、そんな具合に戦争が起こったら、我が国もどちらかの陣営で参戦する公算が高い。すると重要となるのが航空母艦だ。米英と戦うにしても、あるいはドイツが相手であっても、長距離攻撃が必須になるだろうからな」


「米英相手の方が面白そうだ。ドイツなんて大した戦艦も空母も持っておらん、戦っても面白くない」


「貴様な、喧嘩ッ早過ぎる根性をもう少し直したらどうだ?」


「俺の感想如きで世は動かん。だから好きに言っている訳だ」


 高谷は放言してからワハハと笑い、続いて『文殊』の改装された後の姿を思い描く。

 元々が結構な規模の船舶である。航空母艦になったとしたら、恐らくは『赤城』や『加賀』に次ぐ戦力となるだろう。速力は少々劣るかもしれないが、戦艦『長門』と同じくらいは出る。とすれば栄えある第一戦隊に随伴し、砲の射程外から叩くといった運用が考えられそうだ。


 そうしてあれこれ大西に尋ねてみると、流石は航空本部教育部長だけあって、色んなやり方を考えているらしい。

 もしかすると戦艦すら撃沈することもあり得るのではないか。大型貨客船の美食と青島ビールに舌鼓を打ち、卓上の全てを平らげるに至るまで、興味深い議論が続いた。


「ふゥむ、とすれば俺が新空母の艦長になったら……」


 高谷は何かを言おうとして、急に腹がおかしくなったのに気付いた。

 見てみれば大西もまた真っ青になっている。何か悪いものにでも当たったのだろうか。お互い顔を見合わせ、それから示し合わせたように席を立った。目的地は言うまでもなく厠であり、最悪なことに長蛇の列が形成されていた。まさしく、あじあ号下り超特急である。


「赤っ恥! 満洲国が誇る大型貨客船『文殊』にて集団食中毒事件!」


 そんなニュースが駆け巡り、世界中を賑わせた。

 なお後の調査によると、厨房に頭のおかしな料理人がいたのが原因だった。電波犯罪が云々と意味不明なことを北平語で連ねたこやつは、至極当然の交友関係の拙さから、出鱈目に調合した漢方薬を餃子に混入させるに至ったのである。全く迷惑千万な輩もいたものだ。

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